第八章:血税の天秤
オーデンギルドのスパイを退け、リバーサイド商業ギルド内で強固な地位を築いたシン。しかし、その有能さが、今度は逃れようのない「支配権力」の目に留まることになった。
「お前がシンだな」
ある朝、ギルド倉庫に現れたのは、金糸の刺繍が施された上等な外套を身にまとった男だった。冷徹な細目と、指に嵌められた領主の紋章リング。男の名はハインリヒ。このリバーサイド一帯の税を牛耳る、領主直属の「上級税収官」だった。
彼の背後には、抜き身のハルバードを手にした領主直属の重装兵が四人、威圧するように控えている。
「は、はい。倉庫管理人のシンです」
シンは本能的に警戒し、頭を下げた。ハインリヒは手にした羊皮紙の束をシンの机に放り投げた。
「貴殿がこの倉庫に導入した「在庫管理術」の噂は、領主様の耳にも届いている。今年の冬は飢饉が予想されており、領地全体の税収を厳密に把握せねばならん。ついては、来週から始まる「リバーサイド商業ギルド全体への緊急会計監査」において、我が監査チームの主任補佐を務めよ。これは領主様の直令である。拒否は反逆とみなす」
それは、命令という名の「強制徴用」だった。
隣で話を聞いていた見習い商人のルカは、顔面を土気色にして硬直していた。このギルドには、副ギルド長が主導し、ルカやシンが偽装を手伝っている「狂い踊り」の密輸、そしてそれ以外にも多額の脱税の隠蔽が存在する。シンが税収官の監査をサポートすれば、ギルドの闇は一瞬で白日の下に晒されるだろう。
その夜、シンとゴドリックは、いつもの安宿の片隅で、声を潜めて激しい議論を交わしていた。
「おい、シン!」
ゴドリックがテーブルを拳で叩いた。「これはチャンスじゃないのか? そのハインリヒって税収官に、あのキノコの密輸を全部ぶちまけちまえばいい。領主の軍勢が動けば、副ギルド長もルカも一網打尽だ。俺たちも、悪党どもの共犯者からおさらばできるぞ!」
ゴドリックの言うことは一見、極めて真っ当な解決策に見えた。しかし、シンは静かに首を振った。
「いいえ、ゴドリックさん。それをやれば、俺たちは確実に死にます」
シンは前世のベンチャー時代に叩き込まれた、冷酷な「権力構造の利害関係」を整理した。
「第一に、ハインリヒのような税収官の目的は、正義の実現ではなく「領主の財布を満たすこと」です。もし密輸を告発すれば、彼はギルドの財産をすべて没収するでしょう。しかし、その過程で、すでに密輸の偽装帳簿を作成していた俺たちは「密輸の実行犯」であり「主犯の片棒を担いだ実務者」として、言い逃れのできない証拠とともに逮捕されます。税収官にとって、余所者の俺たちの命を救うメリットなど一つもありません。手柄だけを取られて、俺たちは真っ先に絞首台です。第二に、密輸には「地元の衛兵隊の隊長」が深く関わっています。もし税収官に告発が届く前に情報が漏れれば、俺たちは裁判にかけられる前に、衛兵隊によって「抵抗したため切り捨てた」として路地裏で暗殺されます。この町において、物理的な武力を握っているのは彼らなんです」
「くそっ……人助けのために法があるわけじゃねえってことか」
ゴドリックが苦々しく吐き捨てた。
「そして第三に……領主自身が、本当にこの密輸を知らないと思いますか?」
ゴドリックが息を呑んだ。
「ブラッド・キャップ《狂い踊り》は一部の貴族や特権階級が愛好する薬物です。その莫大な利益の一部は、裏で領主の懐にも流れている可能性が極めて高い。ハインリヒが突然監査に来たのは、ギルドを潰すためではなく、もっと税を絞り取れないかを探るためです。そこで俺が「密輸があります!」と騒ぎ立てれば、領主の不都合な真実を暴いた不敬者として、俺たち二人の首は翌朝には市場に吊るされるでしょう。だから、道は一つしかありません。税収官の監査を完璧にこなし、彼らを満足させる成果を上げつつ……彼らの目から「密輸の数字」だけを完璧に消失させるんです」
監査初日。商業ギルドの大会議室には、山のように積み上げられた数年分の帳簿と、ハインリヒ率いる冷徹な税収官たちが並んでいた。
「シン。君には、過去三年の交易品の中から「不自然な品目の目減り」や「課税逃れの疑いがある余剰在庫」を洗い出してもらう」
シンが仕掛けたトリックは、現代の統計的アプローチを用いた「木を隠すなら森の中」という偽装だった。
シンは、ギルドの公式な脱税と言える商人がよくやる、端数の誤魔化しや売上の過小申告を、あえて次々と税収官たちに「発見」させてみせた。
「ハインリヒ様、ここの塩の取引履歴ですが、運送中の雨による廃棄率が不自然に高く申告されています。おそらく課税逃れです」
「ほう、実に見事な着眼点だ。さすがだな」
ハインリヒは満足げに、ギルドに課す追加徴税の額を書き留めていく。シンが「小さな不正」を次々と差し出すことで、税収官たちは「自分たちは完璧に監査を行っている」「このシンという男は完全にこちらの味方だ」という、致命的な認知バイアスに囚われていった。
しかし、その「発見された不正の数字」の裏で、シンは密輸薬物「ブラッド・キャップ」の容積データを、「摘発された不正による没収予定物資」の容積の中に完全にブレンドして溶かし込んでいた。
税収官たちが「よし、この不正な岩塩は没収し、領主の倉庫へ送る」と決定した瞬間、書類上、その岩塩の体積の一部が、密輸キノコの体積を相殺するように処理される。税収官自身が、自らの手で密輸の証拠を「合法的な数字の誤差」として消し去るように誘導したのだ。
一週間におよぶ地獄のような監査が終了した。商業ギルドは多額の罰税を課されたものの、崩壊は免れた。そして、密輸の存在は、ハインリヒの鋭い監察眼を完全にすり抜けた。
「素晴らしい働きだった、シン」
ハインリヒはシンの肩を叩き、銀貨三枚という破格の「手当」を握らせ、本城への登用を打診したが、シンは謙虚にそれを辞退した。ハインリヒたちが去った後、ルカが這い出てきた。
「お前……本当に、何者なんだ?」
「ただの倉庫番ですよ、ルカさん。……さあ、仕事に戻りましょう。滞った荷物の仕分けが山積みです」
宿に戻ったシンに、ゴドリックは尋ねた。「ハインリヒの誘いを断ったのか、シン。本城へ行けば、もっと安全だったんじゃねえのか?」
「いいえ。税収官の側近になれば、毎日、領地予算の横領や、貴族たちの暗闘という、より巨大な泥沼に放り込まれます。チートもない俺たちがそんな場所にいけば、数ヶ月でトカゲの尻尾として切り捨てられて終わりです。今は、この泥だらけのリバーサイドで、自分たちの手の届く範囲の力を蓄える。それが、俺たちの生きる道です」




