第七章:静かなる侵入者
「――おい、シン。本当にこれで、あの禿げやギルドの幹部どもに首を吊られずに済むんだな?」
翌朝、宿の一室で、ゴドリックが声を潜めて尋ねた。彼の前には、シンが作成した二重帳簿の「控え」が置かれている。シンは隠し部屋で違法薬物「ブラッド・キャップ」を見つけ、ルカと「共犯関係」を結んだ経緯を、すべてのリスクとともにゴドリックに包み隠さず打ち明けていた。これ以上、ゴドリックに隠し事をする段階は過ぎていた。
「ゴドリックさん、俺たちはもう同じ泥舟に乗っています。俺がハメられれば、身元保証人であるあなたも鎖に繋がれる。だから、この嘘だけは絶対に守り通さなければならないんです」
シンの言葉に、ゴドリックはしばらく苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、やがて太い腕を組んで深く息を吐き出した。
「……ちくしょう、煤払いの方がよっぽど気楽だったぜ。だが、分かった。お前が頭を使うなら、俺は身体を張ってやる。不審な動きをする奴がいたら、俺がいつでも首をへし折ってやるよ」
こうして二人は、完全な共犯関係となった。シンの精巧な二重帳簿システムは、倉庫の日常と「密輸」の存在を完璧に覆い隠し、一見すると平穏な日々が流れていった。
だが、平穏は長く続かなかった。ある日の夕方、ゴドリックがただならぬ様子で、倉庫の裏口からシンの元へと滑り込んできた。
「おい、シン。少し耳を貸せ」
ゴドリックは周囲を警戒しながら、声を極限まで潜めた。
「俺の昔の「煤払い《スカベンジャー》」の仲間から情報が入った。最近、隣領の「オーデン商業ギルド」のお抱え商人が、妙な手下を連れてこの街に潜り込んでいる。俺たちの仕事場だった下水路や、倉庫の警備体制を探るような不審な動きをしている奴がいるそうだ」
シンの脳裏に、冷たい警告灯が灯った。前世で培った競合分析の視点が、即座に敵の意図を弾き出す。(狙いは一つだ。うちのギルドを社会的に抹殺できる「密輸の決定的な証拠」――つまり、俺が管理している帳簿。もしそれが露見すれば、主犯格の副ギルド長だけでなく、実務をこなしていた俺や身元保証人のゴドリックさんも、言い逃れのできない共犯者として絞首台行きだ)
「ゴドリックさん、泳がせましょう。敵が本当にこちらの裏帳簿を狙っているなら、必ず倉庫内にスパイを送り込んできます。……その特徴を、仲間を使って割り出せますか?」
「任せろ。この街のドブの底まで見通せるのが、俺たち煤払いのネットワークだ」
ゴドリックは不敵に笑うと、再び夜の闇へと消えていった。
翌日。シンが倉庫で荷受書の確認を行っていると、新しく雑用係として雇われた青年、テオが人懐っこい笑みを浮かめて書類を差し出してきた。一週間前に入ったばかりの青年だった。
「シンさん、こちらの荷受書の確認をお願いします」
「ああ、ありがとう、テオ」
シンは書類を受け取り、テオが去っていく背中をじっと見つめた。シンは確信していた。彼こそが、オーデンギルドの放ったスパイであると。
その日の夜、ゴドリックが宿に持ち帰った情報が、シンの疑念を完璧な確信へと変えた。「シン、お前の見立て通りだ。テオの野郎、昼間は人畜無害なツラをしてるが、夜はオーデンギルドの連絡員と接触して、この街の倉庫の巡回ルートのメモを渡していやがった。俺の仲間が、奴らの密談を壁越しにしっかり聞き届けたぜ」
ゴドリックの「情報屋」としての見事な活躍により、敵の全容が明らかになった。
「よくやってくれました、ゴドリックさん。……かかった魚は、骨まで美味しくいただきましょう。奴の目的は二重帳簿の奪取です。……今夜、奴は必ず動き出します。ですが、彼をその場で殺せばオーデン側は警戒し、次は放火や、息のかかった衛兵隊を使った強制捜査に出る。そうなれば俺たちも無事では済まない。……だから、彼には「偽物の餌」を気持ちよく持って帰ってもらいます」
シンはゴドリックに、用意した「偽の二重帳簿」を見せた。そこには、リバーサイドギルドが密輸を行っているかのような記述があるが、取引先として書かれている名前や日付は、すべて「オーデンギルドの有力な幹部たち」のものだった。
「これをオーデンに持ち帰らせて、自滅させます。ゴドリックさん、今夜は倉庫の二階で、奴が帳簿を盗み出す「証拠」を一緒に見届けてください。手出しは無用です。万が一、奴が帳簿以外の場所に火をつけようとしたり、俺の罠に気づいて襲いかかってきた時だけ、助けてください」
「ふっ……相変わらず悪知恵の働く野郎だ。いいだろう、お前の計画に乗る」
深夜。シンとゴドリックは、倉庫の二階にあるキャットウォークの暗闇に身を潜め、下を見下ろしていた。
カチャリ、と静かな金属音が響いた。
闇の中から現れた影が、シンの机の引き出しを器用にこじ開けた。松明の極小の灯りで顔が照らされる。やはりテオだった。テオは引き出しから「偽の帳簿」を見つけると、勝利を確信したように口元を歪め、それを素早く懐に収めた。
ゴドリックは隣で、テオが計画通りに動いているかを冷徹に見定めていた。彼の右手は、いつでも動けるよう静かに短剣の柄に掛けられている。
「……シン、今だ。仕留めるか?」
ゴドリックが耳元でささやいた。それは「不測の事態に備え、いつでも殺れるぞ」という頼もしい共犯者の合図だった。
「いいえ。予定通りです。奴は帳簿だけを持って逃げる。……泳がせます。彼が町を出るのを見届けてください」
シンが制すると、ゴドリックは頷き、静かにナイフを引いた。テオはそのまま、夜の闇に紛れて倉庫から静かに立ち去っていった。
翌朝、テオは「体調不良」を理由にギルドに現れず、そのまま行方をくらました。それから三日後。隣都市オーデンの商業ギルドで「原因不明の大規模な内部粛清」が行われ、複数の幹部が不敬罪と偽造罪で領主に捕縛されたというニュースが、リバーサイドに届いた。
「おいおいおい……シン、お前、一体何をやったんだ……!?」
ルカが真っ青な顔で、シンの元に駆け込んできた。
オーデンギルドが偽造罪で摘発されたというニュースは、見方を変えれば、自分たちの「密輸の証拠」がどこかから漏れかけたことを意味する。もし一歩間違っていれば、今頃絞首台に向かっていたのは自分たちだったかもしれないのだ。ルカの手は小刻みに震えていた。
「何もしていませんよ、ルカさん。私はただ、毎日ここで正確に荷物の数を数えているだけです」
シンは淡々と在庫台帳に羽根ペンを走らせながら、静かに微笑んだ。その、すべてをあらかじめ見通していたかのような濁りのない瞳を見て、ルカは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
(……まさか、この男が裏で糸を引いて、オーデンを嵌めたのか?)
ゴドリックだけが、その笑顔の裏にある、底知れない冷徹さを知っていた。
「……お前を敵に回さなくて本当に良かったよ、シン」
宿に戻った後、ゴドリックは濁ったエールを飲み干しながら、しみじみと呟いた。自分たちの命が、シンの「一冊の偽帳簿」によって完全に救われたことを、彼は痛感していた。
「俺もです、ゴドリックさん。あなたがいてくれたから、夜も眠れました」
チートも魔法もない。しかし、二人の「共犯者」は、信頼と知恵を武器に、この底なしの泥沼をまた一歩、生き延びたのだった。




