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鋼と泥の境界線  作者: 古屋桜


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第五章:羊皮紙の罠

「――よし、これで間違いねえな」

商業ギルド「黄金の天秤」の重い木製カウンターに、ゴドリックが荒々しく署名を書き殴った。まだ少し足を引きずってはいるが、傷口の腫れは完全に引いている。

受付の冷徹なギルド職員は、ゴドリックの署名と、彼が差し出した「鉄級探索者」の身分証をじっくりと見比べた。

「確かに。鉄級探索者ゴドリック・バルド氏。本日より、こちらの「シン」という登録なき者の身元、および彼が引き起こすあらゆる不利益について、貴殿が連帯してその責任を負うことを承認します」

職員が冷たい金属製の印章を羊皮紙に押し付けると、ずしりとした音が室内に響いた。

「これで晴れて自由の身だ、シン」

ゴドリックがシンの肩を叩いた。その顔には、命を救われた男としての確かな信頼があった。

「ありがとう、ゴドリックさん。本当に……」

「礼には及ばねえ。だがな、ここから先は戦場が変わるだけだ。剣の代わりに、言葉と数字で殺し合う世界だぞ。気を引き締めろ」

ゴドリックの忠告は、すぐに現実のものとなった。

身元保証を得たシンは、商業ギルドの隅にある「雑用・見習い斡旋所」へと向かった。ようやく、生存率最悪の「煤払い(スカベンジャー)」を引退し、まともな社会の一員として、頭脳を使った仕事に就く権利を得たのだ。

「へえ、身元保証持ちか。煤払い上がりの割には、運が良い奴だ」

斡旋所の机でシンの書類を受け取ったのは、上等なウールの衣服を着た若い見習い商人、ルカだった。ルカはシンを値踏みするように見つめ、一枚の黄ばんだ羊皮紙を差し出した。

「ちょうど一つ、良い空きがある。ギルドの共有倉庫での「荷受け・仕分け作業」だ。重労働だが、日給は大銅貨一枚。どうだ?」

「やらせてほしい」

シンが即答すると、ルカは薄汚い笑みを浮かべ、インク瓶と羽根ペンを差し出した。

「じゃあ、この契約書の右下にサインをしな。文字が書けないなら、ここにインクをつけた親指を押し付け(拇印)ればいい」

シンはペンを手に取ろうとして、ふと手を止めた。この世界の文字は、彼にとってただの奇怪な記号の羅列にしか見えない。ルカはその「無知」を完全に利用しようとしていた。しかし、シンには商社・起業家時代に何度も目を通してきた「契約書のリスク管理能力」が備わっていた。

シンはルカの目をじっと見つめながら、あえて言った。

「すまないが、俺はここの文字が読めない。契約内容を、大声で読み上げてくれないか。ギルドの規則にも、非識字者への「音読確認の義務」があるはずだ」

ルカの眉がピクリと跳ねた。

「……チッ、面倒な奴だな。書いてある通りだよ。「日給は大銅貨一枚。朝の鐘から、夜の鐘まで倉庫の荷役を行う。期間は一ヶ月」。それだけだ」

「ありがとう。……ゴドリックさん、ちょっと来てくれ」

シンは後ろで待機していたゴドリックを呼び寄せた。ゴドリックは文字が「少しだけ」読める。

「ゴドリックさん。彼が今読み上げた内容と、ここに書かれている文字の量、おかしくありませんか?」

ゴドリックは羊皮紙を覗き込み、太い指で文字をなぞった。彼の顔が、みるみるうちに怒りで赤黒く染まっていく。

「おい、ルカの野郎……。お前、この「小さな文字の塊」を読み飛ばしたな? ここには……「もし荷物の破損や紛失があった場合、その賠償金は日給から差し引かれ、不足分は身元保証人が全額支払う」って書いてあるぞ」

「それがどうした? 倉庫の仕事だ、破損のリスクがあるのは当然だろう」

ルカは悪びれもせずに肩をすくめた。

「それだけじゃない!」

シンは冷静に、しかし鋭く割って入った。彼はルカが指で隠しようとしていた部分を指差した。

「ここだ。数字の表記がある。俺は文字は読めないが、この世界の「数字」は三ヶ月間、市場で古い硬貨を数えながら叩き込まれたから読める。……おい、ルカ。ここに書かれている日給の数字、これは「小銅貨一枚」じゃないか?」

室内の空気が凍りついた。

ルカが口頭で提示した日給は「大銅貨一枚」。しかし、契約書に書かれていたのは「小銅貨一枚(大銅貨の十分の一の価値)」だった。

さらに、破損の賠償条項がセットになっている。つまり、シンがこの契約書にサインをしてしまえば、奴隷並みの超低賃金で一ヶ月間拘束された挙句、倉庫でわざと荷物を壊されて、身元保証人であるゴドリックごと多額の賠償金で自己破産させられる。

「……テメエ、俺たちをハメやがったな!」

ゴドリックがルカの胸ぐらを掴み上げようとしたが、シンがそれを制した。ギルド内で暴力を振るえば、それこそ一発で身元保証が取り消され、投獄される。

(ここで退けば、またあの泥まみれの煤払い(スカベンジャー)に戻るだけだ。何か手は……この状況を逆手に取る方法はないか?)

シンはギルドの共有倉庫の構造を思い出した。

「ルカ。あんたは俺を「文字が読めない無能」として安く使い潰したかったようだが……一つ、取引をしよう。俺はここの文字は読めない。だが、「数字の整理」と「空間の計算」なら、あんたの十倍は早く正確にできる」

シンは懐から、あの薬師アルセンに渡したものと同じ「元の世界の白い紙」をもう一枚取り出した。そこには、シンが炭で描いた、ギルド倉庫の外観と、効率的な荷物の積み上げ方を示す「立体的な三次元の図面(投影図)」が描かれていた。

「あんたたちの倉庫は、手前にある荷物が邪魔で、奥の古い荷物を取り出すのに三倍の時間がかかっている。この図面の通りに、荷物の「回転率」と「重さ」を傾斜配分して並べ替えれば、作業効率は二倍になり、荷物の破損リスクはゼロに近づく。……つまり、あんたの成績が跳ね上がるということだ」

シンは前世の総合商社で徹底的に叩き込まれた物流倉庫の基礎知識――「ロジスティクス」の概念を、この世界の常識に翻訳して突きつけた。

「俺を小銅貨一枚でハメて奴隷に落とすのと、俺を「大銅貨一枚」で雇って、あんた自身がギルド内で「倉庫改革の功労者」として出世するのと、どちらが賢い選択だと思う?」

ルカは無言で、シンの描いた図面を見つめ続けた。

天秤は、明らかに後者に傾いていた。ルカは深くため息をつき、手元の羊皮紙をびりびりと破り捨てた。そして、新しい羊皮紙に素早い手つきで文字を書き重ねた。

「……日給、大銅貨一枚。破損免責、ただしお前が提示したその「図面」の通りに倉庫を整理すること。これでどうだ」

シンは書き直された羊皮紙の「数字」の部分を念入りに確認した。【大銅貨一枚】を示す記号が、確かにそこにあった。

「成立だ」

シンはインクを指につけ、新しい契約書に強く押し付けた。

ギルドを出たシンの足取りは、驚くほど軽かった。

「お前……本当にただの漂流者か? あのルカの鼻を明かすなんて、並の商人でもできねえぞ」

「生存に、必死だっただけですよ」

手に入ったのは、明日からの安定した仕事。シンは自らの知恵と、泥の中から掴み取った信頼を武器に、ついにこの世界の「搾取される側」から「交渉する側」へと一歩を踏み出したのだった。

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