第四章:等価交換の歪み
「いいか、シン……。あの禿げ薬師のアルセンには気をつけろ。あいつは、他人の血の臭いを嗅ぎつけて、倍の値をふっかける……」
天井の雨漏りのシミを見つめながら、ゴドリックがかすれた声で言った。
宿場町の最安宿「這い虫の宿」の一室。カビ臭い藁布団の上で、ゴドリックの右脚は赤黒く腫れ上がっていた。消毒用の油を塗り、布できつく縛ってはいたものの、野犬の牙に付着していた雑菌が傷口を蝕み始めている。じわじわと発熱も始まっており、一刻も早くきちんとした治療薬を塗らなければ、敗血症で脚を切り落とするか、そのまま死に至る。
シンの手元には、今回の死闘で手に入れた「戦利品」があった。野犬の貧弱な毛皮が三枚。そして、迷宮の奥で見つけた、へこみのある古びた鉄の鍋が一つ。
これらを市場の買取所で売却し、シンの懐に入ったのは「大銅貨二枚と、小銅貨五枚」だった。今夜の宿代と、ゴドリックの薬代を捻出しなければならない。
「行ってきます、ゴドリックさん。必ず薬を手に入れて戻ります」
シンは薄汚れた革袋を手にして、宿の湿った階段を駆け下りた。
路地裏の片隅にある、乾燥した薬草の匂いが漂う薄暗い店。ここが薬師アルセンの店だった。店主のアルセンは、脂ぎった禿げ頭を揺らしながら、帳簿に羽根ペンを走らせていた。シンが店に入るなり、彼は値踏みするような視線を投げかけてきた。
「なんだ、煤払いの小僧。うちは慈善事業はやってないぞ。小銭がないなら、帰って泥でもすすってな」
「薬をくれ。野犬に噛まれた傷の、化膿を止める薬だ。連れが熱を出しかけている」
シンは努めて冷静に、しかし切迫した声を絞り出した。アルセンは意地悪く口元を歪め、棚から茶色い小瓶を取り出してカウンターに置いた。
「これだな。「山羊の髭」の根をすり潰してラードと混ぜた軟膏だ。傷口を清めてこれを塗れば、三日で腫れは引く。……値は、大銅貨三枚だ」
「三枚……!?」
シンは息を呑んだ。事前に入手していた相場では、その手の軟膏はせいぜい大銅貨一枚、高くても一枚と小銅貨数枚のはずだった。あからさまなぼったくりだった。
「相場より高すぎる。大銅貨一枚と、小銅貨三枚だ。それで頼む」
しかし、アルセンは冷酷に鼻で笑った。
「相場? 坊主、寝ぼけたことを言うな。今、南の関所が盗賊のせいで閉鎖されていて、薬草の入荷が滞っているんだよ。どこに行っても薬は品薄だ。嫌なら他をあたるんだな。……もっとも、お前の連れがそれまで生きているならの話だがね。見たところ、ゴドリックの旦那がやられたんだろう? あいつが死んだら、お前みたいな身元不明の余所者、誰も相手にしなくなるぞ」
シンの心臓が冷たく跳ねた。この薬師は、シンがゴドリックの身元保証を狙っていること、およびゴドリックが死ねばシンの生存ルートが完全に絶たれることを見抜いていた。足元を完全に救われていた。
手持ちは大銅貨二枚と小銅貨五枚。薬に大銅貨三枚(小銅貨三十枚)を払えば、そもそも手持ちが足りない。交渉が決裂すれば、ゴドリックは死に、シンもまた連鎖的に破滅する。
シンは深く呼吸をし、怒りを脳の奥に置き去った。感情的になれば負ける。前世のベンチャー時代、首の皮一枚の資金交渉で学んだことだ。
シンはカウンターの上に、一枚の紙切れを置いた。
それは、彼が元の世界で使っていた手帳から破り取った、ペンの試し書きや図形が描かれた「上質な白い紙」だった。この世界では、紙は羊皮紙や粗悪な植物繊維のパピルスが主流であり、漂白された工業用洋紙など存在しない。
「なんだ、これは……?」
アルセンの目がかすかに見開かれ、紙をつまみ上げた。指先で滑らかな感触を確かめ、光に透かしている。
「俺の国から持ってきた極上の「紙」だ。見てくれ、羊皮紙のような厚みも獣臭さもない。何より、この世界のインクを吸っても裏に染み出さず、極細の文字が極めて鮮明に残る。あんたが領主様や大司教に提出する「薬草の調合実績報告」にこれを使ってみろ。紙質の美しさだけで、あんたの調合能力の格が上がり、薬草園への下賜金が倍になるはずだ。……これと、俺の手持ちの大銅貨二枚、小銅貨三枚。これで薬を渡してくれ」
アルセンは紙の希少性と、提出書類としての計り知れない実用価値を瞬時に理解した。これなら、街の学者や貴族に転売すれば、銀貨一枚以上の値がつく可能性がある。しかし、貪欲な商人はさらに畳み込んできた。
「ふん……面白い珍品だが、紙だけでは腹は膨れんし、傷も治らん。大銅貨二枚、小銅貨五枚、それにこの紙だ。手持ちを全部置いていけ」
それはシンの全財産だった。一瞬の躊躇。だが、シンは首を振った。
「断る。小銅貨二枚は、今夜のゴドリックさんのスープ代だ。それを奪うなら、俺は今すぐこの紙を持って「荷役ギルド」の帳場へ行く。あそこには、この滑らかな紙を喉から手が出るほど欲しがっている、帳簿管理の責任者がいる。そこで大銅貨一枚に変え、お前のところより真っ当な別の薬師へ行くまでのことだ。ゴドリックさんは頑丈だ、明日の朝までなら持ちこたえる」
それはハッタリだった。しかし、シンの目は一切泳がなかった。泥の中で培った、死線を見つめる冷徹な目だった。
アルセンはシンの目を数秒間凝視し、やがて、忌々しそうに舌を打った。
「……チッ、クソガキめ。いいだろう。大銅貨二枚、小銅貨三枚、そしてその紙だ。持ってけ」
アルセンは軟膏の瓶を乱暴にカウンターに滑らせた。シンは素早くそれを掴み、代わりに銅貨と白い紙を置いた。
宿に戻ったシンは、ぐったりとしたゴドリックの傷口に軟膏を優しく塗り込み、新しく買い直した清潔な布で傷口を覆った。
数時間後、薬の効果が現れたのか、ゴドリックの荒い呼吸が徐々に穏やかになり、額の汗が引いていった。
「……シンか」
ゴドリックが薄く目を開けた。
「薬を塗りました。熱は下がってきています」
「そうか……。あの禿げ、いくら要求しやがった」
「大銅貨二枚と、小銅貨三枚。それと、俺の持ち物を一つ売りました。スープも買ってあります」
シンは残った小銅貨一枚をポケットの中で転がしながら、静かに笑った。
ゴドリックはしばらく天井を見つめていたが、やがて、小さくため息をついた。
「お前は、本当に要領が良くて、しぶとい男だな。……よし、約束だ。俺の脚が動くようになったら、ギルドに行って身元保証人の手続きをしてやる。商業ギルドの知り合いを紹介してやるよ。お前なら、煤払いなんかより、あっちの方がよっぽど向いてる」
「……ありがとうございます、ゴドリックさん」
シンは宿の窓から、沈みゆく夕日を見つめた。手元に残ったのは、小銅貨たったの一枚。明日からはまた、生きるために這いずり回らなければならない。しかし、彼の手には、確かにこの世界での「次のステップ」への切符が握られようとしていた。




