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第3話 1860年、ペスト——タバク通り六番地

万延元年

・桜田門外の変

・日米修好通商条約の批准書交換

・勝海舟・福沢諭吉らが咸臨丸で太平洋を横断し渡米

・新見正興を正使とする万延元年遣米使節の派遣

・五品江戸廻送令の発令

・万延小判の鋳造



 都市とは、ただの石と煉瓦の集積ではない。


 都市は思想を産む。都市は人間を形作る。どの街で生まれ、どの窓から最初に空を見たか——それは、その人間の内面の設計図に静かに、しかし消えることなく書き込まれる。


 テオドール・ヘルツルを理解したいならば、まずペストという街を理解しなければならない。



一 ドナウ川が分かつ二つの世界


 ペスト、という街の名前は、今日ではほとんど聞かれない。


 それもそのはずで、この街は1873年に対岸のブダと合併し、「ブダペスト」という一つの都市になった。しかし、テオドールが生まれた1860年の時点では、ドナウ川を挟んで二つの街は別々に存在していた。西岸のブダは古い王都であり、丘の上にそびえる城が歴史の重みを体現していた。東岸のペストは新興の商業都市であり、近代の息吹を体全体で吸い込もうとしていた。


 ヘルツル家が住んでいたのは、東岸のペスト、タバク通り六番地である。


 タバク(Tabak)とはハンガリー語でタバコを意味する。煙草商の行き交うその通りは、当時のペストの中でも比較的に活気ある商業地区に属していた。商人、職人、医者、法律家——ユダヤ人の中間層が集まって暮らす、近代都市の縮図のような街区だった。


 この地区の特徴を一言で言うならば、「上昇の空気」である。


 誰もがより高みへと向かおうとしていた。富を、教養を、社会的地位を。彼らはゲットーの記憶をまだ生々しく持ちながら、同時にそのゲットーから一刻も早く抜け出したいと切望していた。前を向き、背後を見ず、ドイツ語で話し、ウィーンの文化を模範とする——それが、当時のペストのユダヤ人中間層の、生存戦略であり自己定義だった。


 この「上昇の空気」を後押しするように、ペストという街そのものが変貌の前夜にあった。


 ペストの病院では、イグナーツ・ゼメルヴェイスという医師が「手洗い」の重要性を訴え続けていた。産褥熱で死ぬ母親たちを救うために、医師が患者に触れる前に手を洗うべきだと主張した彼の理論は、当初は同僚から嘲笑された。しかしその実践は死亡率を劇的に下げた。科学が迷信に勝つ瞬間——それがこの街で起きていた。


 ドナウ川の東岸では、製粉業が急成長を遂げていた。最新のローラー製粉機を導入したペストの工場は、やがてミネアポリスと並ぶ世界最大の製粉都市としての地位を手にする。小麦がドナウを下り、パンとなってヨーロッパ中の食卓へ届く——その中心にペストがあった。


 近代医学と近代工業。この街は、古い世界から新しい世界へ、まさに駆け上がろうとしていた。


 その勢いの中で、テオドール・ヘルツルは生まれた。



二 壁の向こうのシナゴーグ


 タバク通り六番地から、ほんの数歩である。


 ドハーニ街大シナゴーグ——ヨーロッパ最大、世界でも二番目の規模を誇るこの巨大な礼拝堂が、ヘルツル家のすぐ隣に立っていた。正確には、ヘルツルが生まれた年(1860年)にはまだ建設から間もない新しい建物だった。ムーア様式とビザンティン様式を折衷した二本の塔が空に向かって伸び、正面の薔薇窓はステンドグラスを透かして光を放っていた。


 この建物は、何を意味していたのか。


 表面的には、信仰の場である。毎週の安息日(シャバット)、ペストのユダヤ人たちはここに集まり、ヘブライ語の祈りを唱えた。幼いテオドールも、父ヤーコブに連れられてこのシナゴーグの長椅子に座った。


 しかし、このシナゴーグは単なる宗教施設ではなかった。それは、一つの主張の建築的表現だった。


 「ユダヤ人は、ここにいる。そしてここに留まる。」


 ドハーニ街大シナゴーグを建てたのは、ハンガリーのユダヤ人改革派の人々だった。彼らの思想はこうだ——ユダヤ人はハンガリー市民として、誇りを持って生きることができる。信仰を保ちながら、同時に近代社会に完全に参加することができる。宗教と同化は、矛盾しない。


 この建物は、その信念の巨大な石造りの証だった。


 しかし——この時の幼いテオドールにはまだ分からなかった——この「証」が成立するためには、ハンガリー社会の側もユダヤ人を受け入れるという前提が必要だった。建物は美しかった。だが前提は、砂の上に立っていた。



三 父ヤーコブという人物


 テオドールの父、ヤーコブ・ヘルツルは、この時代の「進歩的なユダヤ人」の典型だった。


 銀行関係の仕事で頭角を現し、後には木材商として成功を収めた。経済的には中産階級の上位に位置し、家族に不自由のない生活を与えた。信仰においては、ドハーニ街大シナゴーグの改革派ユダヤ教に属しており、安息日の礼拝は欠かさなかったが、宗教的な律法の細部に縛られることよりも、ユダヤ人としての文化的アイデンティティを保つことを重んじた。


 政治的には、ハンガリーの自由主義的な潮流を支持した。


 1867年、オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立とともに、ハンガリーのユダヤ人は完全な法的平等を獲得することになる——テオドールがまだ七歳の頃のことだ。ヤーコブにとってそれは、長年の夢の実現だった。法の下での平等。制度上の差別の撤廃。これ以上、何が必要だというのか。


 ヤーコブは、善良で誠実な人物だった。


 だがその善良さは、ある種の楽観主義と表裏一体だった。「制度が変われば、心も変わる」という信念。「教育と努力が実れば、偏見は消える」という確信。これは、彼の息子テオドールが最終的に否定することになる信念だった。


 父と子の間には、愛情があった。深い愛情が。


 しかしその愛情の奥底に、見えない断絶があった。父は「同化」を信じ、息子は最終的に「同化の不可能」を確信することになる。その断絶が表面化するのはずっと後のことだが、種はすでに、この家庭の空気の中に蒔かれていた。



四 母ヤネッテという力


 テオドールの母、ヤネッテ・ヘルツル(旧姓ダイアモント)は、息子にとって太陽のような存在だった。


 彼女はハンガリー系ユダヤ人の家庭に生まれ、高い教育を受けた聡明な女性だった。音楽を愛し、文学を愛し、そして何より「美しいもの」に対して鋭い審美眼を持っていた。その審美眼を、彼女は息子に惜しみなく伝えた。


 ヤネッテの教育方針は、夫ヤーコブよりもさらに明確に「ドイツ文化への同化」を志向していた。家庭の言語はハンガリー語よりもドイツ語が優先された。読ませる本はゲーテであり、シラーであり、ハイネだった。ユダヤ的な伝統教育——ヘブライ語の学習、タルムードの学習——は、ヤネッテの家庭では副次的な位置に押しやられた。


 「あなたはドイツ語で考え、ドイツ語で夢を見るべきよ」と、彼女は息子に言った。あるいは、言葉にせずとも、毎日の生活の中でそれを体現して見せた。


 テオドールは母の影響を深く受けた。


 彼の文体——後年、ジャーナリストとして、そして思想家として磨かれていく文体——はドイツ語の美文だった。翻訳調の固さではなく、ネイティブの感覚から生まれた流れるようなドイツ語。それはヤネッテが息子に与えた最大の贈り物だった。


 同時に、それは最大の矛盾の種でもあった。


 これほどドイツ語に染まった魂が、なぜ「ユダヤ人国家」を夢見たのか。外から見れば、そこには逆説がある。しかし内から見れば、逆説ではない。完全に同化しようとした者だけが、同化の不可能を完全に知ることができる——その痛みが、後のヘルツルの思想の燃料となる。



五 シナゴーグの隣で育つということ


 幼いテオドールにとって、ドハーニ街大シナゴーグとはどのような存在だったのか。


 毎朝、目を覚ますと窓の外にあった。学校から帰れば、夕暮れの光を受けて二本の塔が金色に輝いていた。安息日には、そこから歌声が聞こえてきた。


 彼は礼拝に連れて行かれた。父と並んで長椅子に座り、ヘブライ語の祈りを耳で聞いた。しかしその祈りの言葉は、彼には半分しか届かなかった。ヘブライ語の教育を受けていなかったからではない——それ以前に、この宗教的な「様式」が、彼の感性と微妙にずれていたからだ。


 彼が感動するのは、シナゴーグの荘厳な建築だった。光と影の劇的な配置。石の柱の量感。集まった人々の顔に浮かぶ、何かへの畏れと期待の表情。そういった「劇場的な要素」に、劇作家の卵としての本能が反応した。


 信仰の中身よりも、信仰の形式が彼を捕らえた。


 これは批判ではない。むしろ、この感性こそが後の彼の強みになる。人々を動かすためには、論理だけでなく「見せ方」が必要だということを、ヘルツルは幼い頃から本能的に知っていた。


 シナゴーグの隣で育った子供は、宗教の演出力を骨の髄まで学んだのである。



六 1860年のペスト——時代という舞台


 テオドールが誕生した1860年、ペストという街自体が、歴史の大きな転換点にいた。


 オーストリア帝国は、前年(1859年)のイタリア統一戦争でフランス・サルデーニャ連合軍に敗れ、国威を大きく損なっていた。帝国の求心力が弱まる中、ハンガリー人の自治要求は高まりつつあった。この政治的な動揺が、七年後の「妥協(アウスグライヒ)」——オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立——へとつながっていく。


 同年、ヘルツルより十一歳年上のマックス・ノルダウは十一歳になっていた。同じペストで、ラビの息子として育ちながら、すでに旺盛な知的好奇心を発揮していた。幼いテオドールとこの将来の盟友が、幼少期に同じ街で実際にすれ違ったかどうかは分からない。しかし同じ空気を吸い、同じドナウの風に当たり、同じ時代の歪みを皮膚で感じていたことは確かだった。


 ウクライナでは、四歳のアシャー・ツヴィ・ギンズベルク——後のアハード・ハアム——が、まったく異なる世界でまったく異なる問いに向かって成長しつつあった。厳格なハシディズムの家庭。ヘブライ語とタルムードの世界。西欧的な洗練とは縁遠い、ユダヤの伝統に深く根差した環境。


 同じ年に、これほどまでに異なる揺り籠で育っている。


 それが後に同じ問いを問い、しかし正反対の答えを出すことになる——歴史の配置とは、時として精巧な謎かけのようである。


---


七 最初の問い


 テオドールが最初に「ユダヤ人」という言葉の重さを意識したのは、いつだったのか。


 正確な日付は記録されていない。しかし、おそらくそれはシナゴーグで礼拝を終えて家に戻る道すがら、あるいは学校の廊下で、あるいは父が夕食の食卓で何気なく語る言葉の端に——そういった日常の断片の中に、問いの種は蒔かれた。


 ユダヤ人とは何か。


 この問いへの答えとして、父ヤーコブは「信仰と文化の継承者」と言っただろう。母ヤネッテは「それよりもまず、ドイツ文化の担い手たれ」と言っただろう。ドハーニ街大シナゴーグは、その巨大な石の塔をもって「ここに誇りを持って存在する者たち」と答えただろう。


 どれもが、一つの真実を含んでいた。


 しかしどれもが、もう一つの真実——「ヨーロッパはユダヤ人を、最終的には受け入れない」——から目を逸らしていた。


 幼いテオドールは、その答えを知らなかった。問いすら、まだ形にならなかった。


 ただ、タバク通りの家の窓から、毎朝シナゴーグの塔を見上げた。その塔は美しく、誇らしく、そして——この時の彼にはまだ分からなかったが——ある意味で儚かった。


 人は、失いかけて初めて、自分が何を愛していたかを知る。


 テオドールがユダヤ人であることの意味を本当に問い直す日は、まだ遠い。しかしその問いへの感受性は、この街で、この窓の前で、静かに育まれていた。

ペスト:ハンガリーの首都ブダペストのドナウ川東岸地区。かつては独立した都市だった。


ドハーニ街大シナゴーグ:1859年完成。現在も欧州最大級を誇るユダヤ教の礼拝堂。


イグナーツ・ゼメルヴェイス:消毒法の先駆者。産婦人科医として手洗いの重要性を提唱した。


マックス・ノルダウ:ヘルツルと共にシオニズム運動を主導した医師・思想家。


アウスグライヒ:1867年、オーストリア帝国がハンガリーに大幅な自治を認めた体制転換。

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