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第4話 1865年、ペスト——神童と変わる街

慶応元年

・長崎の大浦天主堂で「信徒発見」が起こる

・兵庫開港要求事件

・幕府が武蔵国などに「武州一揆(世直し一揆)」の発生を招く社会不安の増大

・長州藩で高杉晋作らが「功山寺挙兵」を経て藩の主導権を握る

・坂本龍馬らの仲介により長州藩が薩摩藩名義で武器を購入

・柴田剛中を使節としてフランスへ派遣


 天才というものは、往々にして最初の一撃で自らの本質を露わにする。


 後年、幾千の言葉を駆使してユダヤ人の心を動かし、皇帝を動かし、歴史を動かすことになるこの男が、最初に征服したのはアルファベットだった。


 わずか二週間で。




一 文字という魔法


 1865年。テオドール・ヘルツル、五歳。


 ヘルツル家に、家庭教師アルフレート・イリッツがやってきた。目的は、テオドールとその姉パウリーネ(六歳)に読み書きの手ほどきをすること——小学校入学を翌年に控えた、ごく普通の準備教育である。


 結果は、ごく普通ではなかった。


 イリッツの後年の回想によれば、二人の子どもはわずか二週間で読み書きを完全にマスターした。通常の子どもが数ヶ月かけて習得する過程を、まるで遊びのように駆け抜けた。特にテオドールは、新しい知識を吸収するたびに目を輝かせ、覚えたばかりの文字を組み合わせてすぐに言葉を作り、言葉を組み合わせてすぐに文を作った。


 文字が言葉になる瞬間、言葉が意味になる瞬間——その変換の喜びを、この五歳の子どもは本能的に理解していた。


 イリッツは後に記している。「あの子は文字を覚えたのではなく、文字の力を覚えたのだ」と。


 正確な観察だった。テオドールが生涯を通じて信じたことがあるとすれば、それは「言葉は現実を作る」という確信だった。書かれた言葉が国家を生み出す——そういう人間が、ここにいた。




二 ペストの空気、1865年


 この年のペストは、一種の浮き足立った空気に満ちていた。


 オーストリア帝国は前年(1864年)の対デンマーク戦争には勝利していたが、二年後に迫るプロイセンとの決戦の影が、既に政治の水面下を揺らしていた。帝国の求心力は揺らぎ、ハンガリー人の自治要求はいよいよ高まりつつあった。


 ユダヤ人にとって、この政治的動揺は複雑な意味を持った。


 帝国が弱体化するとき、歴史は二つの顔を見せる。一方では、体制が変わることで新しい権利が生まれる可能性がある。他方では、社会が不安定になるとき、その不満は弱者——とりわけユダヤ人——に向かいやすい。


 父ヤーコブは楽観的な方の顔を見ていた。変化は解放をもたらす、と。この信念は、二年後の1867年に部分的に実現する。オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立とともに、ハンガリーのユダヤ人は完全な法的平等を獲得するからだ。


 しかし五歳のテオドールには、そういった政治の論理はまだ届かなかった。


 彼が感じていたのは、もっと単純な、しかし鋭い何かだった。街の空気の質感。大人たちが声を潜めて語る言葉の断片。父の眉間に刻まれた、普段とは違う皺。


 子どもは、言語化できないものを、皮膚で感じ取る。




三 パウリーネという存在


 姉のパウリーネ・ヘルツルについて、歴史は多くを語らない。


 彼女は1859年生まれ、テオドールより一つ年上だった。家庭教師イリッツのもとで弟と共に読み書きを覚え、同じ知的な空気の中で育ちながら、しかし歴史の舞台には現れなかった。女性であったからだ。当時のヨーロッパでは、どれほど聡明な女性であっても、社会が彼女たちに用意した役割は限られていた。


 パウリーネは、弟テオドールをよく理解していた。


 彼が夢中になって文字を追いかけるとき、彼女はそれを静かに見守った。弟の才能を誰よりも早く見抜き、誰よりも率直に称えた。テオドールにとって姉は、最初の「読者」であり、最初の「批評家」だった。


 今はただ、1865年のペストで、六歳の姉と五歳の弟が、並んで文字の練習帳を前にしている姿を思い描けばよい。




四 少年ノルダウ、同じ街に


 テオドールが文字を覚えたこの年、十六歳のマックス・ノルダウも同じペストの空気を吸っていた。


 ノルダウはこの時すでに、少年とは呼べない年齢だった。ラビの父シモン・スュドフェルトのもとで伝統的なユダヤ教育を受けながら、同時に独学で近代思想の扉をこじ開けつつあった。ダーウィンの進化論、哲学、自然科学——伝統と近代の間で、彼の知性は激しく揺れていた。


 二年後の1867年、十八歳のノルダウはジャーナリストとしての第一歩を踏み出す。


 この時点で、テオドール・ヘルツルとマックス・ノルダウは同じ街に住みながら互いを知らなかった。一方は文字を覚えたばかりの五歳の子どもであり、他方は知的な青年として世界へ踏み出そうとしていた。二人がパリで出会い、生涯の盟友となるのは、まだ三十年近く先のことである。


 ウクライナでは、九歳のアシャー・ツヴィ・ギンズベルクが、タルムードの海に深く潜っていた。


 三人の軌道は、まだ別々の星のように、広大な闇の中を独立して走っていた。




五 言葉の子の、最初の問い


 読み書きを覚えたテオドールは、当然のように「読むこと」を始めた。


 家の書棚には、ドイツ語の本が並んでいた。母ヤネッテが揃えた、文化的な中産階級にふさわしい蔵書である。ゲーテ、シラー、ハイネ。テオドールはこれらをまだ完全には理解できなかった。しかし、文字を指でなぞりながら、言葉の響きと意味の輪郭を感じ取った。


 ハイネ——ハインリヒ・ハイネ——の名前は、特別な重みを持っていた。


 ハイネはユダヤ人だった。キリスト教への改宗という「入場券」を買うことでドイツ文学の世界へ参入し、ドイツ語文学史上に燦然と輝く詩人となった。しかし死ぬまでドイツ社会に完全には受け入れられず、晩年をパリで過ごした。


 テオドールはその頃、ハイネのこういった経緯を知っていたわけではない。ただ、詩の言葉が美しかった。そしてこの詩人が、ユダヤ人だということを、何かの拍子に知った。


 美しい言葉を書いた人が、自分と同じ「ユダヤ人」だった。


 それは、五歳の子どもに、小さな誇りを与えたかもしれない。あるいは——この疑問は後から植え付けられたものかもしれないが——なぜその人は改宗しなければならなかったのか、という問いの種を蒔いたかもしれない。


 問いの芽は、土の下で静かに根を張っていた。




六 ペストからブダペストへ——変わる街


 テオドールが小学校に入学した翌年、1867年。


 オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した。ハンガリーは形式上、オーストリアと対等な地位を得た。そしてハンガリーのユダヤ人は、この歴史的変化によって完全な法的平等を手にした。


 父ヤーコブの顔に、久しぶりの笑みが浮かんだ。


 「これでようやく、本当の意味でハンガリー人になれる」


 同じ年、遠いウィーンではヨハン・シュトラウス二世が「美しく青きドナウ」を初演した。軽やかなワルツの旋律が帝都の空気を満たし、ハプスブルク帝国の繁栄を高らかに宣言するかのようだった。


 ウィーンはこの時期、空前の大変貌を遂げつつあった。皇帝フランツ・ヨーゼフ一世が十年前に命じた城壁の撤去と「リングシュトラーセ」の建設が、いよいよ全貌を現しつつあった。1865年に主要区間が開通したこの環状大通りには、国立歌劇場(1869年完成)、国会議事堂、市庁舎、ウィーン大学——石造りの文明の殿堂が次々と聳え立った。中世の城壁を壊して近代を建てる。その壮大な身振りが、帝国の自信を象徴していた。


 ペストも、負けじと変貌しつつあった。


 ウィーンのリングシュトラーセに対抗するように、パリのシャンゼリゼ通りをモデルにした「アンドラーシ通り」の建設が1872年に始まった。ドナウ川ではたびたび洪水を起こした流れを制御すべく護岸工事が進み、石造りの美しい堤防が川沿いに築かれていった。一八七二年にはフランスの技師によるマルギット橋の建設も始まり、ブダとペストを結ぶ橋が一本また一本と増えていった。


 テオドールが育った街は、文字通り、毎年その姿を変えていた。


 製粉業もこの時期に飛躍した。最新のローラー製粉機を導入したペストの工場群は、アメリカのミネアポリスと並ぶ世界最大の製粉都市としての地位を確立しつつあった。ハンガリーの小麦がドナウを下り、ヨーロッパ中の食卓に届く——その中心にペストがあった。演劇やオペラも盛んになり、国立劇場はハンガリー文化の発信地として活況を呈した。


 しかし、1873年。


 ウィーンは万国博覧会を開催した。プラター公園を会場に、世界中から人と技術と資本が集まった。日本が公式参加した初めての万博としても記録されたこの祭典は、帝国の栄光の絶頂を演出するはずだった。


 しかし万博の開幕からわずか九日後、「暗黒の金曜日」が訪れた。


 株式市場が崩壊した。帝国全土を覆っていた投機の熱気が一瞬で冷え、無数の企業と銀行が倒産した。中産階級の貯蓄が消え、失業者が街にあふれた。ペストも直撃を受けた。しかし都市開発の勢いは止まらなかった——大恐慌の嵐の中でも、建設の槌音はやまなかった。


 繁栄の幻が砕け散った後に残ったのは、長く深い不況と、その不満を誰かに向けたいという民衆の渇望だった。


 その「誰か」として名指しされたのが——ユダヤ人だった。


 「投機を煽ったのはユダヤ人だ」「銀行を牛耳っているのはユダヤ人だ」——根拠の薄い言説が、不況の苦しみの中で急速に広まった。父ヤーコブが「法的平等を手にした」と喜んだわずか六年後に、社会の空気は逆方向へと流れ始めていた。


 そして、同じ1873年。ペストはブダ、オーブダと合併し、「ブダペスト」という一つの首都として生まれ変わった。テオドール、十三歳。少年から青年へと移行する年齢のことである。


 「ドナウの真珠」——人々はこの新しい都市をそう呼んだ。輝かしい名だった。しかしその真珠の内側に、砂粒のような不満と憎悪が静かに堆積していることを、十三歳のテオドールはまだ知らなかった。

アルフレート・イリッツ:ヘルツル姉弟の家庭教師。後にヘルツルの並外れた学習能力について証言を残している。


ハインリヒ・ハイネ:19世紀ドイツの詩人・作家。ユダヤ系として生まれ、キリスト教に改宗したが、その板挟みの苦悩は作品に色濃く反映されている。


ヨハン・シュトラウス二世:ウィーンの「ワルツの王」。1860年代の多幸感あふれる帝都の空気を音楽で象徴した。


リングシュトラーセ:ウィーン中心部を囲む環状大通り。古い城壁を撤去して作られた、近代都市計画の記念碑的遺構。


アンドラーシ通り:ブダペストの目抜き通り。「ハンガリーのシャンゼリゼ」と呼ばれ、世界遺産にも登録されている。


1873年ウィーン万国博覧会:ウィーンで開催された大規模な博覧会。日本政府(明治新政府)が初めて公式参加し、日本文化が欧州に紹介される契機となった。


暗黒の金曜日:1873年5月9日、ウィーン証券取引所で起きた株価大暴落。これを機に世界的な大不況が始まった。

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