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第21話 1910年、パレスチナ/エルサレム——名を刻む


 国家は、ある日突然に誕生するのではない。


 布告文が読まれる日、独立が宣言される日——そういう「歴史的な一日」は確かに存在する。しかしその一日は、無数の地味な積み重ねの上にのみ成立する。土地の購入、農地の開墾、学校の開設、自衛組織の結成、都市の建設、機関紙の創刊——これらの一つひとつが、国家という建物の煉瓦だ。


 1906年にパレスチナの土を踏んだダヴィド・グリーンは、その後の4年間を煉瓦積みに費やした。


 ただし、彼は単なる煉瓦職人ではなかった。




1 ガリラヤの労働——移動する青年


 1907年、1908年、1909年。


 ダヴィドは動き続けた。


 ペタク・チクヴァ、ガリラヤ、ガデラ、セジェラ——パレスチナの入植地を転々としながら、農場で働き、党の集会に出席し、論文を書いた。住所は定まらなかった。所持金もほとんどなかった。マラリアは相変わらず定期的に彼を倒した。それでも彼は動いた。


 この時期のダヴィドにとって、労働は思想の実践だった。


 「ヘブライ労働アヴォダ・イヴリット」——ユダヤ人自身が土を耕すという原則を、彼は言葉だけでなく身体で実行した。汗をかき、作物を植え、収穫し、また次の農場へ移った。


 しかしこの青年の特異性は、鍬を握りながら同時に考え続けたことにある。


 何を考えていたか。組織のことだ。どうすれば入植地のユダヤ人労働者を一つの力に束ねられるか。どうすれば「労働者の国家」という理念を現実の政治に変えられるか。鍬の柄を握る手の中で、その答えがゆっくりと形を成していった。




2 自衛の思想——バル・ギオラからハショメルへ


 1907年。


 ヤッファの一室に、7人の若者が集まった。


 イツハク・ベン=ツビを中心とするこの集まりで、秘密の自衛組織「バル・ギオラ」が結成された。名称はローマに抵抗した古代ユダヤの英雄シモン・バル・ギオラから取られた。


 設立の動機は単純だった。


 当時、ユダヤ人入植地の警備は、雇われたアラブ人やチェルケス人の手に委ねられていた。それを「ユダヤ人自身の手に取り戻す」という、これもまたダヴィドが論じていた「ヘブライ労働」の軍事版だった。自分たちの土地は、自分たちで守る。


 2年後の1909年、バル・ギオラを母体に組織を拡大・再編した「ハショメル(守護者)」が設立された。


 ハショメルの隊員たちは、アラブの騎馬戦士のスタイルを取り入れた。馬に乗り、銃を携え、夜の入植地を巡回した。彼らは「戦う農民」であることを誇りとした。


 この組織の精神的な背景に、奇妙な影響源がある。


 日本だ。


 ハショメルの若者たちの間では、日本の武士道への関心が広まっていた。「武士は死を恐れない」「主君への忠誠は生命に優先する」——そういう思想が、ユダヤ人の自衛組織の倫理として語られた。日露戦争でロシアを打ち破った日本は、この時代のパレスチナのユダヤ青年たちにとって、「小国が自力で国家を守る」という生きたモデルだった。


 ダヴィドもこの時期、日本への関心を公言していた。


 「日本人は数十年で自らを近代化し、大国ロシアを敗北させた。ユダヤ人も同じことができる——いや、しなければならない」。彼は友人たちに、日本語を学ぼうとまで呼びかけた。実現はしなかったが、その提案が示す熱量は本物だった。


 東洋の島国の歴史が、地中海沿岸の砂漠に吹き込んだ風は、確かにそこにあった。




3 砂丘に街が生まれた日——1909年4月11日


 1909年4月11日。


 ヤッファ北部の砂丘で、60家族が集まった。


 彼らは貝殻を地面に並べ、そこに番号を書いた。そしてくじ引きをした——砂丘の中のどの区画を、誰が受け取るか。


 このくじ引きが、テルアビブの誕生の瞬間だった。


 「アフジャット・バイット(家屋の敷地)」と名付けられたその計画は、ヤッファの喧騒と不衛生から離れた、清潔で近代的なヘブライ語の街を建てるという構想だった。砂しかない場所に、街を作る。


 翌1910年、街は正式に「テルアビブ」と命名された。


 「テル」は丘、「アビブ」は春を意味する。ヘブライ語で「春の丘」。


 この名はヘルツルの小説『アルトノイラント(古い新しい国)』のヘブライ語訳に由来する。ヘルツルが描いた理想の都市の名が、現実の街の名になった。


 ダヴィドはこの時期ガリラヤで農作業をしていたが、テルアビブ誕生の知らせは彼のもとにも届いた。「砂の上に街ができた」という事実は、彼が信じていたことの証明だった。砂地には可能性がある。可能性は現実になる。それを信じて動けば、動いた分だけ前に進む。




4 最初のキブツ——デガニアの誕生


 1910年。


 ガリラヤ湖の南端、ヨルダン川が湖から流れ出す場所に、最初のキブツが正式に設立された。


 デガニア——ヘブライ語で「穀草の花」を意味する。


 キブツとは何か。


 土地の共同所有、労働の共同分担、収穫の共同分配——あらゆるものを「共同」にする農業共同体だ。私有財産は持たない。指導者は選挙で選ぶ。食事は共同の食堂で取る。子供は共同で育てる。


 この仕組みは、単なる農業の形態ではなかった。これは「新しいユダヤ人」を作るための社会実験だった。


 2000年にわたって他の民族の社会の中に寄留し、商業と知識労働に従事してきたユダヤ人——その「ガルート(離散)の人間」から、土を耕し、自らを守り、共同体に奉仕する「新しいユダヤ人」へ。デガニアはその変容の最初の実験場だった。


 ダヴィドはこの変容のビジョンを、自分自身の身体で既に実践していた。プウォンスクの法律家の息子が、パレスチナの農場で肥料を担いでいた——それ自体がすでに「新しいユダヤ人」への変容だった。


 デガニアの設立は、その変容が個人の選択から「社会の制度」へと昇格した瞬間だった。




5 エルサレムへ——そして名が生まれた


 1910年6月14日。


 ダヴィドはエルサレムへ移った。


 きっかけは、ポアレ・ツィオン党の機関紙『ハ・アフドゥット(統一)』の編集委員への選出だった。推薦したのはイツハク・ベン=ツビとラヘル・ヤナイトだった。農場労働者として各地を転々としていた青年の文筆の力を、彼らは正確に見ていた。


 エルサレムで彼が借りた部屋は、「フロイドの中庭」と呼ばれる一角にある地下室だった。


 薄暗く、湿っていた。家賃は払えない月もあった。食事も満足にできない日があった。しかし机があり、インクがあり、紙があった。書けた。


 創刊号に、彼は2つの論文を書いた。匿名で。


 オスマン帝国のユダヤ教最高指導者ハイム・ナフム・エフェンディへの批判だった。「あなたはユダヤ教の宗教指導者であるにとどまらず、この地のユダヤ民族全体の利益を代弁すべきだ」——そう論じた。宗教の枠を超えた「民族の代表」という概念を、彼は宗教指導者に突きつけた。


 そして第2号に、彼は初めて署名した。


 **D・ベン=グリオン**。


 ダヴィド・グリーンという名が、ここで歴史から消えた。


 「ベン=グリオン」——西暦1世紀、ローマに抵抗したユダヤ自由政府の指導者ヨセフ・ベン=グリオンの名にちなむ。「ベン」は「息子」を意味する。グリーンという亡命者の名を脱ぎ捨て、抵抗と自由の歴史に自らを接続する——その意志が、この名には込められていた。


 名を変えることは、自分を変えることだ。


 プウォンスクのダヴィド・グリーンは、ここでエルサレムのダヴィド・ベン=グリオンになった。




6 論文と構想——国家の青写真を書く


 1910年末。


 ベン=グリオンはエルサレムで、初の本格的な政治論文を書いた。


 オスマン帝国全土のユダヤ人を代表する「国家的な政治組織」の設立を呼びかける論文だった。


 内容は野心的だった。いや、無謀とも言えた。


 オスマン帝国の支配下にあるパレスチナで、「ユダヤ人の国家的組織」を作れ——それは帝国の法に抵触しかねない主張だった。しかし彼は書いた。書くことが、次の現実の入口だからだ。


 1897年のヘルツルを思い出す。


 ヘルツルはバーゼルで「ユダヤ国家を建国した」と日記に書いた。現実にはまだ何もなかった。しかしその宣言が、運動を動かした。言葉が先に走り、現実がそれを追いかけた。


 ベン=グリオンも同じ方法論を、意識的かどうかはともかく、実践していた。


 書く。宣言する。そして動く。


 エルサレムの地下室で、24歳の男が未来の設計図を書いていた。




7 同じ年の世界——1910年という座標


 1910年。世界はどこにいたか。


 ロシアでは、トルストイが死んだ。82歳。「戦争と平和」の作家の死は、一つの時代の終わりを告げた。


 日本では、大逆事件が起きた。幸徳秋水ら社会主義者・無政府主義者が、天皇暗殺を計画したとして処刑された。「日露戦争に勝った日本」の内側に、体制への深刻な亀裂があることが露わになった。


 そして同年、日本は朝鮮を正式に併合した。


 この「韓国併合」の報は、パレスチナの知識人たちにも届いた。受け取り方は複雑だった。日本への尊敬と、植民地支配への不快感が、同時に存在した。「自力で独立を守る強さ」への憧憬と、「強さが別の民族への支配に転化した」という違和感——その両方がそこにあった。


 ベン=グリオンは、日本のモデルを参照しながら同時にその影も見ていた。


 力を持つことは必要だ。しかし力を持った後に、何を目指すかが問われる。強い国家を建てることが目標ではない。その国家の中で、どういう人間として生きるかが問題だ——この問いは、彼がこの後も抱え続けることになる。




8 1907年〜1910年という時間の意味


 この4年間で、何が作られたか。


 バル・ギオラが生まれ、ハショメルが生まれた——自衛の意志が組織になった。テルアビブが生まれた——砂丘が都市の可能性になった。デガニアが生まれた——個人の変容が社会の制度になった。


 そしてダヴィド・ベン=グリオンという名が生まれた——一人の青年の決意が、歴史的な名前を纏った。


 ヘルツルは設計図を残した。


 しかし設計図には、材料の名前が書かれていない。材料は、誰かが現地で調達しなければならない。土地を買い、農場を作り、街を作り、組織を作り、名を刻む——それが「建設者」の仕事だった。


 1910年末。


 エルサレムの地下室でベン=グリオンは机に向かっていた。


 インクが紙に走る音が、夜の静寂の中で聞こえた。


* イツハク・ベン=ツビ

 ロシア帝国出身のシオニスト活動家。労働シオニズム系組織の中心人物で、後にイスラエル建国指導層の一角を担う。


* バル・ギオラ

 1907年に結成された秘密自衛組織。ユダヤ人入植地をユダヤ人自身で防衛することを目的とした。後のハショメルの前身。


* ハショメル

 1909年設立のユダヤ人自衛組織。「守護者」を意味する。後のハガナー、さらにイスラエル国防軍へ連なる系譜の原点。


* シモン・バル・ギオラ

 1世紀の対ローマ反乱指導者。ユダヤ民族抵抗の象徴的人物。


* テルアビブ

 1909年、ヤッファ北部の砂丘地帯に建設が始まった近代ヘブライ都市。後にイスラエル建国宣言の地となる。


* アルトノイラント

 ヘルツルが1902年に発表した未来小説。理想的ユダヤ国家像を描き、「テルアビブ」という名称の由来になった。


* デガニア

 1910年に正式成立した最初のキブツ。共同労働・共同所有を理念とする農業共同体。


* キブツ

 労働・財産・生活を共同化するシオニスト共同体制度。建国初期イスラエル社会の中核的モデル。


* ラヘル・ヤナイト

 女性活動家・教育者。労働シオニズム運動の重要人物で、後にベン=ツビの妻となる。


* ハ・アフドゥット

 「統一」を意味する新聞。労働シオニズム運動の理論形成に重要な役割を果たした。


* ハイム・ナフム・エフェンディ

 オスマン帝国下ユダヤ社会の宗教指導者。外交能力に優れ、帝国内ユダヤ人社会を代表した。


* ヨセフ・ベン=グリオン

 1世紀ユダヤ戦争期の人物。ダヴィド・グリーンが「ベン=グリオン」の姓を採用する際の由来。


* レフ・トルストイ

 『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』で知られる文豪。1910年死去。


* 大逆事件

 幸徳秋水ら社会主義者・無政府主義者が天皇暗殺を企てたとして処罰された事件。明治国家の弾圧強化の象徴。


* 幸徳秋水

 明治期の社会主義・無政府主義運動家。大逆事件で処刑された。


* 韓国併合

 日本が大韓帝国を正式に併合した出来事。東アジア国際秩序を大きく変えた。

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