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第20話 1906年、ヤッファ/ペタク・チクヴァ——土を踏む


 夢と現実の間には、必ず「船旅」がある。


 それは比喩ではない。


 地中海を渡る船の上で、人は変わる。出発の岸は遠ざかり、到着の岸はまだ見えない。何日も揺れに揺れながら、自分が何をしに行くのかを、もう一度問い直す。その問いに耐えた者だけが、岸に降り立ったとき「着いた」と感じる。逃げてきた者は「逃げ延びた」と感じ、夢を追う者は「ようやく来た」と感じる。


 ダヴィド・グリーン、20歳の船旅は、後者だった。




1 父の涙と、出発


 1906年8月末。


 プウォンスクの朝は、いつもと変わらなかった。


 ダヴィドは旅の荷物をまとめた。大して多くはなかった。着替えと本と、若干の食料。そして父アヴィグドルから受け取った旅費。父は息子に金を渡しながら、目を潤ませた。


 前年の秋、ダヴィドは父に手紙を書いた。「来年パレスチナへ行きます」と。その手紙を読んだ父は泣いた——誇りの涙だったと、後に家族は語っている。しかし送り出す朝の父の目には、誇りと並んで、別の何かもあった。


 息子は戻ってこないかもしれない。


 病があった。貧困があった。アラブ人との衝突があった。パレスチナは、夢の土地であると同時に、若者を飲み込む過酷な現実の土地でもあった。


 それを知りながら、父は旅費を渡した。


 「行け」という言葉は出なかった。しかし金を渡すことが、「行け」と同じ意味だった。




2 オデッサ経由、地中海へ


 ダヴィドは友人数人と共に旅に出た。


 プウォンスクからワルシャワへ。ワルシャワからオデッサへ。


 オデッサ——ロシア帝国最大の港湾都市であり、ユダヤ知識人の集散地だった。前年の大虐殺ポグロムの記憶がまだ生々しく、街には不安と怒りが漂っていた。しかし同時に、パレスチナへ向かう若者たちでも溢れていた。


 ここでダヴィドはメナヘム・ウシシキンやリリエンブルムを訪問した。シオニズム運動の先輩格にあたる彼らは、若者の到来を歓迎した。パレスチナへ渡る者が増えることは、運動の血肉だった。


 オデッサの港から、老朽化したロシアの船が出た。


 地中海へ。


 船は揺れた。食事は粗末だった。デッキに立てば、どこまでも続く水の平原が広がっていた。プウォンスクの平野とは異なる「広大さ」が、そこにあった。


 ダヴィドは何を考えていたか。


 記録に残っていない。しかし後年の彼の言葉から推察するなら——おそらく、何も考えていなかった。ただ揺れていた。ただ前を向いていた。思索よりも先に、身体が動いていた。それが彼という人間の本質だった。




3 「人生で最大の日」——1906年9月6日


 1906年9月6日(ユダヤ暦エルール月16日)。


 船がヤッファ沖に停泊した。


 当時のヤッファには近代的な港がなかった。沖に停泊した大型船から、小舟に乗り換えて岸まで渡らなければならない。波は荒く、小舟は揺れ、靴が濡れた。


 それでもダヴィドは降り立った。


 砂地に足をつけた。ヤッファの土だった。


 後に彼はこの日のことを「人生で最大の日」と回想している。その言葉の重さを、数字が裏付ける。彼はこの日から42年後の1948年5月14日、この同じ沿岸の地テルアビブで独立を宣言する。1906年9月6日から1948年5月14日まで——彼の人生の実質的な全てが、この日の上陸から始まった。


 しかし当日の彼は、そんなことを知らない。


 ただ砂地を踏みしめ、あたりを見渡した。


 喧騒があった。アラブ人の荷車引きの声。ヘブライ語とイディッシュ語とロシア語とアラビア語が入り混じる怒鳴り声。潮の匂いと、魚の匂いと、家畜の匂いと、何か甘い果物の匂い。


 これが、聖地の空気だった。




4 ペタク・チクヴァの「土」と「現実」


 上陸したその日の午後、ダヴィドは14人の仲間と共に歩き始めた。


 目指すはペタク・チクヴァ。「希望の門」を意味するこの地は、パレスチナ最古のユダヤ人農業入植地の一つだった。ヤッファから歩いて数時間。夜になって、ようやく到着した。


 翌日から、仕事が始まった。


 肥料を運ぶ。土を掘る。穴を掘る。苗木を植える。


 それだけだ。


 ヘルツルが描いた夢には、こういう場面はなかった。外交交渉がある。スピーチがある。会議がある。大国の君主との会見がある。しかし農場で肥料を担いで運ぶ場面は、ない。


 ダヴィドは担いだ。


 文句を言う理由がなかった。国家を作るとはそういうことだ——土地に根を張り、作物を育て、雨が降っても日照りが続いても、土から離れないことだ。ヘルツルは設計図を描いた。しかし設計図通りに建物を建てるのは、設計士ではない。職人だ。現場の人間だ。


 自分はその職人になりに来た——ダヴィドはそう理解していた。




5 マラリアという「試練」


 2週間後、ダヴィドは倒れた。


 高熱。悪寒。関節の痛み。頭の中が燃えるような感覚。


 マラリアだった。


 当時のパレスチナは、マラリアの危険地帯だった。入植地の多くは、かつて水はけの悪い湿地帯だった場所を開墾して作られていた。排水が不十分な土地には蚊が繁殖し、蚊がマラリアを運んだ。第2次アリヤー(移住の波)でパレスチナへやってきた若者たちの多くが、このマラリアに苦しんだ。中には命を落とした者もいた。


 ダヴィドは生き延びた。


 しかし以後、マラリアは定期的に彼を襲う宿痾しゅくあとなった。発熱するたびに仕事が止まる。倒れるたびに立ち上がる。その繰り返しが、この男の「パレスチナでの日常」の一部となった。


 病は、夢に代償を要求する。


 ヘルツルは心臓病に蝕まれながら外交を続け、44歳で死んだ。ダヴィドはマラリアと戦いながら開墾を続け、62歳で建国を宣言した。代償を払い続けた者だけが、最後に立っていられる。




6 「なぜユダヤ人が土を耕さないのか」


 ペタク・チクヴァで、ダヴィドは奇妙な現実を見た。


 農場主はユダヤ人だった。しかし農場で働いている労働者の多くはアラブ人だった。


 なぜか。


 農場主の論理は単純だった。アラブ人の方が安く雇える。慣れている。文句を言わない。一方、ロシアから来たユダヤ人の若者たちは、農業の経験がなく、体力もなく、要求だけは多い。実用的な選択をすれば、アラブ人を雇うことになる、と。


 ダヴィドはこの論理に激しく反発した。


 「ユダヤ人の国を作るというなら、ユダヤ人自身が土を耕さなければならない。アラブ人の労働力の上に建った入植地は、ユダヤ人の国家ではなく、外国人労働者を搾取するコロニアルな農園に過ぎない」。


 「ヘブライ労働アヴォダ・イヴリット」——この思想がダヴィドの中で固まったのは、ペタク・チクヴァでの体験がきっかけだった。


 後年、この思想は彼の政治の根幹となる。労働者が国家を建てる。土を耕す者が国家の主人公だ——そのビジョンが、ヒスタドルート(労働総同盟)の設立へと、そしてイスラエルの建国理念へとつながっていく。しかしそれは、まだ先の話だ。




7 ポアレ・ツィオン、第1回大会


 10月。仮庵祭スコットの季節。


 ヤッファで「ポアレ・ツィオン」のパレスチナ支部第1回大会が開かれた。


 ダヴィドはマラリアの熱が引いた体で参加した。


 集まったのは、ロシアや東欧から渡ってきた若者たちだった。共通しているのは、シオニズムへの献身と、労働への信仰と、そして多かれ少なかれマラリアに苦しんだ経験だった。


 大会でダヴィドは5人の中央委員の一人に選出された。


 20歳での中央委員就任。党の綱領「ラムラ・プラットフォーム」の起草に関わった。ユダヤ人労働者の団結と、パレスチナにおける政治的独立という目標を文書に刻んだ。


 プウォンスクで仕立屋のストライキを組織した青年が、今度はパレスチナの労働者政党の指導部に座っていた。


 組織は、やる者が動かす。そのシンプルな原則を、ダヴィドは体で知っていた。




8 同じ年のヤッファ——街が生まれる前夜


 1906年のヤッファは、いくつもの「始まり」に満ちていた。


 世界初のヘブライ語で授業を行う中等教育機関「ヘルツリーヤ・ヘブライ・ギムナジウム」が開校した。教育こそが民族再生の基盤だ——アハード・ハアムの思想が、この学校という形で実体化し始めた。


 エルサレムでは「ベツァレル美術デザイン学院」が開校した。ユダヤ人独自の芸術様式を確立するという試みだった。


 そしてヤッファの住民たちの間で、別の構想が動き始めていた。


 ヤッファの北側、砂丘が広がる荒地に、新しい街を建てるという構想。ユダヤ人だけが住む、清潔で近代的な都市を。ヤッファの過密と不衛生から解放された、ヘブライ語の街を。


 この構想が実現するのは3年後のことだ。その街の名は、テルアビブという。


 しかし1906年には、まだ砂しかなかった。


 ダヴィドはそこに何を見たか。


 砂だけの場所に、街が生まれる可能性を見た。可能性を、現実に変える仕事が、眼の前にある。




9 シフ来日——極東に結ばれた縁


 1906年春。地球の反対側、東京で、一つの式典が行われた。


 ジェイコブ・シフ——ニューヨークのユダヤ系銀行家——が、明治天皇に謁見した。


 日露戦争の戦費を支えた男への、日本からの正式な謝礼だった。シフはクーン・ローブ商会を通じて日本の戦時公債を繰り返し引き受け、ロシアと戦う日本の財政を支え続けた。その総額は2億ドルに達したとも言われる。彼はこれを「ポグロムの国への報復」として行った——ロシアを弱体化させることで、ロシアのユダヤ人を救おうとした。


 宮中晩餐会に招かれたシフは、民間人として初めてその席に座り、勲一等旭日大綬章を授与された。


 シフはパレスチナへのシオニズム運動にも資金を提供していた人物だ。日本政府への投資と、ユダヤ人の土地への投資——これは彼にとって矛盾ではなく、同じ信念から出た二つの賭けだった。「弱者が強者に立ち向かうとき、支援する」という信念だ。


 ダヴィドはこのシフ来日を知っていたか。


 直接知っていたかどうかは分からない。しかし、日本とユダヤ資本の間で結ばれたこの縁の恩恵を、彼は間接的に受けていた。ロシアのポグロムを逃れた若者たちがパレスチナへ流れ込むその資金の流れの一端に、シフの人脈と影響力があったからだ。


 ダヴィドがヤッファの砂地を踏みしめたその年、遠く東京では、日本とユダヤ人の間に「共闘の記憶」が公式に刻まれた。


 世界は、見えないところでつながっている。




10 「ここから始まる」


 1906年のダヴィドは、まだ何者でもなかった。


 パレスチナに着いたばかりの20歳。マラリアに倒れ、肥料を担ぎ、農場主に叱られ、党の会議で発言した。世界はまだ彼の名を知らなかった。


 しかしダヴィドは、知っていた。


 ここから始まる、と。


 ヘルツルは設計図を残した。その紙の上に、自分の手と足で現実を積み上げる——それがここへ来た理由だ。


 夢は語るだけでは消える。土を踏み、水を引き、種を蒔き、嵐に耐え——その積み重ねの果てに、初めて国家は生まれる。


 1906年。


 土を踏んだ。


 それで十分だった。

* メナヘム・ウシシキン

 ロシア系シオニスト指導者。土地購入と入植推進を重視し、後にユダヤ民族基金の中心人物となる。


* モーシェ・レイブ・リリエンブルム

 宗教改革運動からシオニズムへ転じた思想家。オデッサを中心に活動し、東欧シオニズム形成へ影響を与えた。


* ヤッファ

 古代から続く港湾都市。近代シオニスト移民の主要上陸地点で、後のテルアビブ建設の母体となった。


* ペタク・チクヴァ

 1878年創設の初期ユダヤ人農業入植地。「希望の門」を意味し、近代シオニスト農業開拓の象徴。


* マラリア

 蚊によって媒介される感染症。20世紀初頭のパレスチナ入植地で大きな脅威となった。


* ヘブライ労働

 ユダヤ人自身の労働によって国家基盤を築くべきだとする労働シオニズムの理念。


* ヒスタドルート

 1920年創設の労働組織。労働運動・経済事業・防衛支援を通じて建国の基盤を形成した。


* 仮庵祭

 古代イスラエル人の荒野生活を記念する秋祭り。収穫祭としての意味も持つ。


* ヘルツリーヤ・ヘブライ・ギムナジウム

 1905年設立。近代ヘブライ語教育を本格的に実施した最初期の中等学校。


* ベツァレル美術デザイン学院

 1906年創設。ユダヤ民族芸術復興を目的とした美術教育機関で、現在のイスラエル美術教育の源流。


* テルアビブ

 1909年に建設開始された近代ユダヤ都市。後にイスラエル独立宣言の舞台となる。


* 勲一等旭日大綬章

 日本の最高位級勲章の一つ。国家への特別な功績に対して授与された。

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