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第19話 1905年、プウォンスク/ワルシャワ——革命の炎と、19歳の決断


 革命は、いつも若者から始まる。


 それは当然だ。既得権を持つ者は、革命を必要としない。失うものを持たない者だけが、世界を変えようとする意志を持てる。1905年のロシア帝国で燃え上がった炎は、若者たちの怒りと絶望から生まれた。


 しかし若者の怒りには方向がある。


 その怒りをどこへ向けるか——ロシアの体制を打倒することに向けるか、それともロシアから離れ、自らの土地を作ることに向けるか。その岐路に立った若者が、ポーランドのプウォンスクにいた。


 ダヴィド・グリーン、19歳。




1 「血の日曜日」の衝撃


 1905年1月9日。


 サンクトペテルブルクで、事件が起きた。


 神父ゲオルギー・ガポンに率いられた約20万人の労働者が、冬宮殿(ツァーリの宮殿)に向かってデモ行進した。彼らが求めたのは労働条件の改善と政治的権利——それを直接ツァーリに訴えるという、ある意味で素朴な請願だった。しかし宮殿の手前で、軍が銃を向けた。


 「血の日曜日」。数百人が死に、千人以上が傷ついた。


 この日、ロシア帝国全土に衝撃が走った。


 「ツァーリは民を守らない」。その絶望が、革命の炎に油を注いだ。ワルシャワでも、オデッサでも、キエフでも、ゼネストと蜂起が相次いだ。帝国の秩序が、内側から崩れ始めた。


 プウォンスクでも、この波は届いた。




2 ダヴィドの選択——「ポアレ・ツィオン」


 革命の熱狂の中で、ユダヤ人の若者たちは分かれた。


 一方には「ブンド(ユダヤ人労働者総連合)」がいた。彼らは言う——ロシアを変えろ。社会主義革命を成し遂げれば、ユダヤ人への差別も消える。ここで戦え、ここで勝て、と。


 もう一方には「ポアレ・ツィオン(シオンの労働者)」がいた。彼らは言う——ロシアは変わらない。変わったとしても、ここはユダヤ人の土地ではない。パレスチナへ行き、自らの手で国家を建てろ、と。


 ダヴィドは後者を選んだ。


 この選択は、一見シンプルに見えて、実は複雑な内面の葛藤の末に出た答えだった。革命の熱狂は本物だった。「ロシアを変える」という夢も、夢として美しかった。仲間の多くがブンドへ流れていった。


 しかしダヴィドには、父アヴィグドルから植え付けられた確信があった。


 「ユダヤ人の問題は、ロシアを変えても解決しない。問題はロシアにあるのではなく、我々が自分の土地を持たないことにある」。


 彼はプウォンスクに戻り、イツハク・タベンキンの家で開かれた結成会議に参加した。そしてポアレ・ツィオン党の地元支部に加入した。




3 仕立屋のストライキ


 19歳の党員ダヴィドは、いきなり動いた。


 プウォンスクの仕立屋と縒り糸職人たちを組織し、ストライキを仕掛けた。要求は明確だった——1日12時間労働の確立。当時の職人たちは日没まで働かされていた。明かりの届く限り働かされた。それを人間的な時間に収めろ、という要求だった。


 ストライキは成功した。


 19歳の青年が、大人たちを説得し、動かし、交渉し、勝ちを取った。


 この経験はダヴィドに、重要なことを教えた。理論ではなく、組織だ。演説ではなく、実務だ。夢を語るだけでは何も変わらない。しかし動けば、変わる。


 後年のベン=グリオンが「実務の人」として知られることになる原型は、この19歳のストライキ指導にあった。




4 ライバルたちとの議論


 プウォンスクにも、ブンドの活動家はいた。


 彼らはダヴィドに詰め寄った。「なぜパレスチナなのか。ここで戦わないのか」。


 ダヴィドは答えた。


 「ここで革命が成功したとしよう。それでユダヤ人は何者になる。ロシア人になるのか。それとも、ロシアに暮らすユダヤ人というまま、変わらず他者であり続けるのか。我々が真に自由になるためには、自らの国家が必要だ。他の誰かの国家の中に生きる少数派として、完全な自由などあり得ない」。


 これはヘルツルの論理の直系だった。


 「ユダヤ人問題の解決策は同化ではなく、独立した国家だ」——10年前にヘルツルが書いたことを、19歳の青年がプウォンスクの路地で繰り返していた。


 思想は、こうして受け継がれる。




5 ポーツマスの衝撃——「日本にできるなら」


 1905年9月5日。


 アメリカのポーツマスで、条約が結ばれた。


 日露戦争の講和条約だ。日本がロシア帝国に勝った——その事実が、文書として確定した瞬間だった。


 ユダヤ人社会は、この報を特別な感情で受け取った。


 一年半前、ニューヨークのユダヤ系銀行家ジェイコブ・シフがクーン・ローブ商会を通じて日本の戦時公債を引き受けたのは、「ロシアを倒させる」という明確な動機からだった。ポグロムの国ロシア、キシニョフを焼いた国ロシアを、弱体化させる——その賭けが、的中した。


 プウォンスクのダヴィドも、この報を聞いた。


 後年、彼は仲間との会話の中でこう述べたと伝わっている。「日本を見ろ。アジアの小さな島国が、ヨーロッパの最強陸軍大国を打ち倒した。彼らにできて、我々にできないはずがない」。


 これは単純な楽観論ではなかった。


 日本の勝利が証明したのは、「正しい組織と、死を恐れない意志と、近代的な技術があれば、大国に立ち向かえる」という現実だった。ユダヤ人は武器を持たない民族だとされてきた。しかしそれは、武器を持つことを許されなかっただけだ——ダヴィドはそう考えた。


 ブンドの活動家が「ロシアを変えれば差別は消える」と主張するのに対し、ダヴィドはこう返せるようになった。「日本はロシアを変えようとしなかった。自らの国家を守るために戦った。我々がすべきことも、同じだ」と。


 極東の小国の勝利が、プウォンスクの19歳の確信を、さらに強固にした。




6 バーゼルの決着——ウガンダ案、正式に葬られる


 7月。スイスのバーゼルで、第7回シオニスト会議が開かれた。


 ヘルツルの死後、初めて開かれる会議だった。


 議題の中心は、前年から持ち越された「ウガンダ案」の処遇だった。ヘルツルが苦渋の末に提示した東アフリカへの一時入植案——それが、現地調査団の否定的な報告と共に、正式に否決された。


 シオニズムの目標地は、パレスチナのみ。


 これが確定した。


 プウォンスクのダヴィドにとって、この結論は当然だった。アフリカへ行くシオニズムなど、最初から理解できなかった。パレスチナでなければ意味がない——その確信は、ポアレ・ツィオン内でも共有されていた。


 ヘルツルの盟友マックス・ノルダウは、この会議で亡き指導者を偲ぶ演説を行った。55歳の社会批評家は、群衆の前で感情を露わにしながら、ヘルツルの遺志を継ぐことを誓った。ヘルツルのいない会議は、ノルダウの演説によって、ようやくその悲嘆の場から前に進む力を得た。


 この会議には、マンチェスターで化学の研究を続けるハイム・ヴァイツマンも代表として出席していた。彼がイギリス政界との接点を静かに深めていたことを、この場の誰もまだ重く見ていなかった。




7 同じ年のジャボチンスキー——オデッサで戦う


 同じ年、オデッサでは。


 ゼエヴ・ジャボチンスキー、25歳。


 革命の混乱に乗じて激化するポグロムに対し、彼はユダヤ人の自衛組織の設立に奔走していた。「我々はただ逃げるだけでいいのか」——その怒りが、後の「鉄の壁」論の出発点となる。


 10月。皇帝ニコライ2世が「10月宣言」を発した。立憲政治への移行を約束する、その宣言の直後に、逆説的なことが起きた。


 反革命派の「黒百人組」が、オデッサのユダヤ人街を焼いた。


 約400人から1000人のユダヤ人が殺された。


 史上最悪級のポグロムだった。


 この惨劇を目にしたユダヤ人の若者たちにとって、答えは明確だった。ここにいてはいけない。しかし「どこへ行くか」「何をするか」をめぐって、若者たちの意見は分かれ続けた。


 ダヴィドは既に答えを持っていた。




8 全国大会へ——19歳のワルシャワ


 12月。ダヴィドはプウォンスク代表として、ワルシャワで開かれたポアレ・ツィオン党の全国大会に出席した。


 プウォンスクの田舎町から出てきた青年が、帝国の大都市で、同志たちの議論を聞いた。ロシア全土のユダヤ人社会主義者たちが集まり、「革命か移住か」「武装か説得か」「今すぐか段階的にか」を巡って激論を交わした。


 ダヴィドは聞いた。そして発言した。


 後年の回想によれば、この時期の全国大会での経験が、組織運営と党内政治の基礎を彼に叩き込んだという。議論に参加するだけでなく、議論の構造を読む目。誰が何を求めているかを察する感覚。そして「今この場で何を言えば最も効果的か」を計算する政治的知性——これらは、ワルシャワの大会という実地訓練の場で磨かれた。


 しかし大会の議論がどれほど熱くなろうとも、ダヴィドの心の中の答えは変わらなかった。


 パレスチナへ行く。


 そこで土を耕し、組織を作り、国家を建てる。


 演説で世界を変えようとしたヘルツルの夢を、鍬と組織で実現する——それが自分の仕事だ。




9 1905年という年の意味


 1905年は、イスラエル建国史において「準備の年」だった。


 表舞台で大きな事件が起きたわけではない。ウガンダ案が葬られ、第7回会議が開かれ、そしてロシアで血が流れた。ダヴィドはストライキを組織し、大会に出席し、議論を続けた。


 しかしこの一見地味な年に、重要な何かが固まった。


 シオニズムの目標地がパレスチナに一本化された。ポグロムの恐怖が第2次アリヤー(移住の波)への動機を強化した。そして若いダヴィド・グリーンは、「いつかパレスチナへ」という夢を「来年、パレスチナへ」という具体的な計画に変えた。


 1905年の年末、ダヴィドは父に手紙を書いた。


 「お父さん、私は来年パレスチナへ行きます」。


 この手紙を受け取ったアヴィグドルは、泣いたという。悲しみの涙ではない。誇りの涙だった。自分が食卓で語り続けた夢を、息子が現実に変えようとしている——父の夢が、息子の決断になった。


 1905年。プウォンスクの19歳の青年が、歴史の助走を終えた。

* 血の日曜日事件

 1905年1月9日、サンクトペテルブルクで発生。平和的請願デモに対し帝政軍が発砲し、多数の死傷者を出した。1905年革命の決定的契機。


* ゲオルギー・ガポン

 労働者請願行進を率いた司祭。帝政支持者から革命側へ転じ、後に暗殺された。


* ブンド

 1897年創設のユダヤ人社会主義組織。イディッシュ文化と労働運動を重視し、シオニズムには批判的立場を取った。


* ポアレ・ツィオン

 「シオンの労働者」を意味するシオニスト左派運動。ユダヤ人国家建設と社会主義を結びつけた。


* イツハク・タベンキン

 後にキブツ運動の理論家となる人物。若年期からポアレ・ツィオン運動に関与した。


* ポーツマス条約

 アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で締結。日本の勝利を国際的に確定させた。


* セオドア・ルーズベルト

 日露戦争講和を仲介し、後にノーベル平和賞を受賞。


* 第7回シオニスト会議

 ヘルツル死後初の会議。ウガンダ案を正式否決し、パレスチナ路線を確定した。


* 黒百人組

 皇帝支持・反革命・反ユダヤ主義を掲げた民族主義団体群。ポグロムに深く関与。


* オデッサ・ポグロム

 1905年革命期に発生した大規模虐殺。多数のユダヤ人死者を出し、自衛思想拡大の契機となった。


* 第2次アリヤー

 主にロシア帝国からの若い社会主義系移民が中心。後のイスラエル建国指導層を多く生んだ。


* アヴィグドル・グリーン

 敬虔なシオニスト。息子ダヴィドの思想形成に強い影響を与えた。


* 労働シオニズム

 「労働・農業・共同体建設」を通じてユダヤ国家を築くべきだとする思想潮流。後のイスラエル労働運動の基盤となる。

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