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第18話 1904年、ワルシャワ/プウォンスク——太陽は沈んだ、しかし


 預言者が逝った。


 1904年7月3日。テオドール・ヘルツル、44歳。エドラッハのサナトリウムで息を引き取った。


 世界中のユダヤ人が、その報を受けた。泣いた者もいた。沈黙した者もいた。「これで終わりだ」と呟いた者もいた。しかし終わりではなかった。夢は、それを引き継ぐ者がいる限り、終わらない。


 では、誰が引き継ぐのか。


 この問いへの答えは、すぐには出なかった。しかし答えを生きることになる人物は、この年すでに動き始めていた。


 ポーランドのワルシャワで、18歳の青年が知らせを受けた。




1 ワルシャワの青年


 1904年。ダヴィド・ヨセフ・グリーン、18歳。


 後にダヴィド・ベン=グリオンと名乗るこの青年は、この年ワルシャワに出ていた。故郷のプウォンスクを離れ、家庭教師として生計を立てながら、シオニスト青年運動「エズラ」の活動を続けていた。


 背は低かった。しかし目に力があった。言葉に力があった。


 父アヴィグドルの膝元でヘブライ語と共に刷り込まれたシオンへの夢が、この青年の骨の髄に染み込んでいた。ヘルツルの『ユダヤ国家』を読んだのは、まだ少年だった頃だ。ページをめくりながら、「この男が言っている通りだ」と思った。「国家が必要だ。パレスチナに。今すぐでなくとも、必ず」と。


 その男が、死んだ。




2 「太陽は沈んだ」


 ヘルツルの死の報を受けたダヴィドは、友人シュムエル・フックスへの手紙を書いた。


 「私たちの希望と夢は孤児になった。太陽は沈んだ。しかしその光はまだ輝いている」


 この言葉は、18歳の青年の言葉とは思えない成熟を持っていた。


 「孤児になった」——預言者を父と仰いでいた世代が、突然親を失った感覚。「太陽は沈んだ」——あれほどの輝きを持った人物が、もうこの世にいないという喪失。「しかしその光はまだ輝いている」——それでも夢は生きている、という確信。


 ダヴィドはプウォンスクに戻った。シナゴーグの壇上に立ち、ヘルツルへの弔辞を述べた。


 会ったことのない男への弔辞だった。手紙も届かなかった。一度も言葉を交わさなかった。しかし「父を失った」という感覚は本物だった。


 会ったことのない男のために泣いた声が、44年後、同じ地の空へ向かって別の言葉を紡ぐことになる。設計者と建設者は、こうして時代を超えてつながっていた。




3 1904年の世界——日露戦争という地殻変動


 ヘルツルが死んだ1904年、地球の反対側では、もう一つの歴史的な戦いが進んでいた。


 日露戦争。


 2月、日本はロシア帝国に対して宣戦布告した。


 アジアの島国が、ヨーロッパの最強陸軍大国に挑む——世界の多くは「日本の無謀」と見た。しかしユダヤ人社会は、この戦争を別の眼で見ていた。


 ロシアはポグロムの国だった。キシニョフを焼いた国だった。ユダヤ人を居住制限区域に閉じ込め、虐殺を黙認し、あるいは扇動した国だった。その国が敗れれば——。


 ニューヨークのユダヤ系銀行家ジェイコブ・シフは、動いた。


 クーン・ローブ商会の代表として、彼は日本の戦時公債を引き受けた。一回ではなく、繰り返し。「ロシアを倒すために日本に勝たせる」——それがシフの動機だった。ロシアの敗北が、ロシアのユダヤ人への圧力を緩める可能性を開くと信じて。


 この決断が、日本の戦費調達を決定的に支えた。




4 極東と中東の奇妙な交差


 日本とユダヤ人——一見まったく接点のない二つの存在が、「打倒ロシア」という一点で交差した。


 日露戦争の帰趨は、シオニズム運動にとっても無縁ではなかった。


 ロシアのポグロムを逃れたユダヤ人の多くが、パレスチナへの移住を選んでいた。これが「第1次アリヤー(移住の波)」の流れを形作っていた。ロシアの支配が続く限り、この流れは続く。そしてロシアが弱体化すれば——ユダヤ人に対する直接的な圧力が変わる可能性がある。


 シフの計算は、単純な金融論理ではなかった。それはユダヤ民族の将来への、一つの賭けだった。


 日本はこの年、旅順を包囲し、奉天に迫り、日本海海戦に向けて着々と力を蓄えていた。その戦費の背後に、ウォール街のユダヤ系資本があった。歴史とは、こういう形で織られる。




5 ポスト・ヘルツル——誰が旗を持つか


 ヘルツルの死後、世界シオニスト機構はダヴィド・ウォルフゾーンが引き継いだ。しかし誰の目にも、ヘルツルの空白を埋める人物は現れていなかった。


 運動は続いた。しかし「炎」の質が変わった。


 ヘルツルは一人の力で世界を動かした。大国の君主を訪ね、議会で演説し、新聞を作り、会議を組織した。そのカリスマが運動を前進させていた。


 しかしヘルツルが逝った後、運動は「個人のカリスマ」から「組織の力」へと、その推進力を変えなければならなかった。


 複数の流れが、同時に動き始めた。


 オデッサではジャボチンスキーが、軍事的自衛という思想を磨いていた。マンチェスターではヴァイツマンが、化学と外交を武器にイギリスへの接近を図り始めていた。プウォンスクの青年ダヴィドは、「パレスチナへ行く」という決意を固めつつあった。


 夢を引き継ぐ者は、一人ではなかった。それぞれが、それぞれの武器を手に、同じ方向を向いて歩き始めていた。




6 ダヴィド、決意を固める


 1904年、ワルシャワのダヴィド・グリーン。


 この年の彼の内面で、何かが確定した。


 ヘルツルは夢を描いた。しかし夢は「描く」だけでは実現しない。現地で土を耕し、言語を育て、コミュニティを作り、防衛の力を蓄え——そういう地道な積み上げによってのみ、国家は生まれる。


 それをやるのは、誰か。


 ダヴィドの答えは、シンプルだった。


 「自分がやる」


 パレスチナへ行く。ヘルツルが描いた地図の上に、自分の手と足で現実を作る。18歳の青年の決意は、その後の彼の一生を方向付けた。


 実際にパレスチナへ渡るのは、翌1906年のことだ。しかしその決意は、この1904年——ヘルツルが死に、太陽が沈んだ年——に固まった。




7 時代の空気——1904年という転換点


 1904年は、複数の意味で「転換点」だった。


 ひとつの時代が終わった。ヘルツルという「カリスマの時代」が。


 別の時代が始まった。「実務の時代」が。夢を語る者から、夢を実現する者へ——シオニズム運動の重心が移り始めた。


 日露戦争は、ヨーロッパの秩序が必ずしも絶対ではないことを世界に示しつつあった。アジアの小国が大国を苦しめるという現実は、「不可能と思われていたことが実現する」という感覚を、世界中に広げていた。


 パレスチナでは、第2次アリヤー(ユダヤ人の移住の波)の準備が静かに整いつつあった。ロシアのポグロムから逃れた若者たちが、「逃げるのではなく、建てに行く」という気概を持ってパレスチナを目指し始めていた。


 その波の中に、やがてダヴィド・グリーンも加わることになる。


 彼はまだワルシャワにいた。しかし目はすでに、南東の方角を向いていた。


 地中海の向こうに、乾いた大地がある。


 その大地に、国家を建てなければならない。

* シュムエル・フックス

 若きベン=グリオンがヘルツル死去の際に手紙を書き送った相手。


* エズラ

 東欧ユダヤ青年によるヘブライ語普及・民族再建運動。


* ダヴィド・ウォルフゾーン

 ヘルツル死後に運動の指導部を引き継いだ人物。


* マンチェスター

 20世紀初頭、ユダヤ系知識人・活動家が集まったイギリス産業都市。


* プウォンスク

 東欧ユダヤ人コミュニティを抱えた町。ベン=グリオンの故郷。

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