第22話 1912年、イスタンブール——帝国の教室
武器には、種類がある。
銃がある。剣がある。組織がある。演説がある。そして法律がある。
法律は、最も静かな武器だ。しかし使いこなせれば、銃より遠くまで届く。法律で権利を守れれば、銃を使わなくて済む。法律で土地を確保できれば、戦争をせずに国家の礎を作れる。
1911年末、テッサロニキの港に降り立った26歳のダヴィド・ベン=グリオンは、その「静かな武器」を手に入れるためにオスマン帝国の心臓部へと向かっていた。
1 テッサロニキの冬——トルコ語との格闘
1911年から1912年にかけての冬、ベン=グリオンはテッサロニキに滞在した。
テッサロニキ——オスマン帝国第2の都市であり、青年トルコ革命の揺籃の地だった。人口の過半数がセファルディムで占められ、「バルカンのエルサレム」と呼ばれていた街だ。ヘブライ語が路地に流れ、ラディノ語(ユダヤ系スペイン語)が市場に満ちていた。ベン=グリオンにとって、ここはある意味でパレスチナの延長だった。
しかし彼がここに来た目的は、快適に過ごすことではなかった。
トルコ語を習得することだった。
考え方は明確だった。パレスチナはオスマン帝国の領土だ。ユダヤ人入植者の権利を守るためには、帝国の法律を使わなければならない。帝国の法律を使うためには、帝国の法廷に立たなければならない。法廷に立つためには、帝国の言語と法体系を完全に習得しなければならない。
だから、まずトルコ語だ。
彼は猛烈に勉強した。語彙を丸暗記し、文法を叩き込み、会話を繰り返した。プウォンスクからパレスチナへ渡った青年が、今度はオスマン語という全く異質の言語体系と格闘していた。
テッサロニキのユダヤ人コミュニティの支援を受けながら、彼は数か月で実用的なトルコ語を身につけた。その集中力は、後年「ベン=グリオンは何かを決めたら、それ以外が見えなくなる」と言われた特質の、初期の発現だった。
2 イスタンブールへ——試験の日
1912年6月。
ベン=グリオンはイスタンブールへ渡った。
オスマン帝国の首都——モスクの尖塔が空を刺し、ボスポラス海峡をはさんでヨーロッパとアジアが向かい合う、二つの大陸の継ぎ目にある都市だ。人口100万を超える帝国の心臓部に、パレスチナから来た26歳のユダヤ人青年が入り込んだ。
目的地はイスタンブール大学法学部。
入学試験は難関だった。受験資格の書類はイツハク・ベン=ツビの助力で何とか揃えた。しかし試験そのものは、誰も助けてくれない。オスマン語の読み書き、法学の基礎知識、帝国の歴史——全てトルコ語で答えなければならない試験に、ベン=グリオンは臨んだ。
結果は、満点に近い成績だった。
テッサロニキの冬の格闘が報われた瞬間だった。
1912年10月14日、ベン=グリオンはイスタンブール大学法学部の学生となった。
父アヴィグドルはこの知らせを受け、学費と生活費を工面した。息子がパレスチナへ行くと言えば旅費を渡し、イスタンブール大学に合格すれば学費を送る——この父親は、ユダヤ人の夢を実現するために息子が選んだどの道も否定しなかった。
3 帝国の教室——未来の指導者たち
キャンパスには、パレスチナから来た同志たちが揃っていた。
イツハク・ベン=ツビ、イスラエル・ショハト、ダヴィド・レメズ。そして当時18歳の若者、モーシェ・シェルトク——後にモーシェ・シャレットと名乗り、イスラエルの初代外務大臣、第2代首相となる男だ。
建国の父、大統領、首相、外務大臣——それがイスタンブール大学の同じ教室に座り、同じトルコ語の講義を受け、夜な夜な未来の国家像を議論していた。静かに、しかし確実に、歴史が動いていた。
彼らはトルコ風の赤いフェズ帽を被った。
帝国のエリートとして、帝国のルールに従いながら、帝国の内側から自分たちの権利を勝ち取る——それが戦略だった。敵の要塞には、正面から突っ込まない。門をくぐり、内部に入り込み、その構造を熟知してから動く。
ベン=グリオンはユダヤ人学生協会の書記に選ばれた。
組織があれば動く。動ける場があれば仕切る。これは彼の本能だった。プウォンスクで仕立屋のストライキを組織した時も、パレスチナでポアレ・ツィオンの中央委員になった時も、エルサレムで機関紙の論文を書いた時も——常に「組織の中心」に向かっていた。
4 同じ年の世界——「東洋の奇跡」の影
ベン=グリオンがイスタンブールで法律を学んでいたこの時期、パレスチナのユダヤ人社会では日本への言及が続いていた。
自衛組織「ハショメル」の活動が各入植地に広がる中、その精神的な背景として繰り返し参照されたのが日本の武士道だった。「主のために死を恐れない」「規律と忠誠を最高の徳とする」——こうした思想が、ハショメルの隊員たちの倫理として語られた。
1911年、日本では大逆事件が起き、社会主義者たちが処刑された。
パレスチナの知識人たちはこのニュースも受け取っていた。「日本が近代化の速度を上げるほど、その影の部分も大きくなっている」という観察は、一部の鋭い知識人によって記録されている。強さを持つことの代償——それを日本は体現していた。
ベン=グリオンはこの矛盾を知りながら、日本のモデルから学ぶことを止めなかった。
完璧なモデルなど存在しない。歴史の中の全ての先例は、光と影を持っている。大切なのは、影から目を逸らさず、光の部分を正確に抽出することだ——それが彼の態度だった。
5 バルカン戦争の砲声
1912年10月。
ベン=グリオンが法学部に入学したのと、ほぼ同時だった。
バルカン半島で、戦争が始まった。
セルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシャの4か国がオスマン帝国に宣戦布告した——第1次バルカン戦争だ。
火種は長年くすぶっていた。オスマン帝国の支配下に置かれてきたバルカン諸民族の独立への欲求、1908年の青年トルコ革命後の帝国の不安定化、1911年のイタリア・トルコ戦争による軍事力の消耗——これらが重なり、遂に爆発した。
イスタンブールに、戦争の空気が押し寄せた。
大学の講義が乱れた。街に負傷兵が溢れた。物資が不足し始めた。オスマン帝国軍がバルカン戦線で連敗を重ねるにつれ、首都の空気は重くなった。
帝国が揺れていた。
ベン=グリオンが「法律という武器で内側から働きかける」という戦略を立てた相手——そのオスマン帝国が、外側から崩されていた。
6 退場——そして予感
入学からわずか1か月。
ベン=グリオンはパレスチナへ戻った。
戦争で授業が成立しなくなったこともあった。しかしそれ以上に、彼はあることを感じ取っていた。
帝国は終わる。
バルカン戦線での惨敗、崩壊する前線、混乱するイスタンブールの街——これらが告げていたのは、「オスマン帝国はあと数年で消える」という現実だった。帝国の法律を武器にしようとしていた戦略の前提が、崩れ始めていた。
これは敗北だったか。
そうは言い切れない。
帝国の法学部で学んだ数週間の経験は、彼に別の問いを植え付けた。「帝国が終わった後、パレスチナを誰が支配するか」。そしてもう一つ——「その新しい支配者に対して、ユダヤ人はどう動くべきか」。
この問いの答えを、ベン=グリオンは次の数年間で探すことになる。
パレスチナへ戻る船の上で、彼は考えた。
帝国が崩れるなら、その廃墟の上に何かを作る機会が生まれる。嵐の後には、地形が変わる。変わった地形の上に、新しい何かを建てられる——その確信が、このイスタンブールでの経験の、最も重要な収穫だった。
地中海の波が、船を揺らした。
その揺れの中で、26歳のベン=グリオンは目を開けたまま、来るべき嵐の形を想像していた。
* テッサロニキ
当時はオスマン帝国領。セファルディ系ユダヤ人が人口の多数を占め、「バルカンのエルサレム」と呼ばれた港湾都市。
* セファルディム
15世紀末のスペイン追放後、オスマン帝国各地へ移住したユダヤ人集団。ラディノ語文化を保持した。
* ラディノ語
セファルディ系ユダヤ人が使用した言語。中世スペイン語を基盤に、ヘブライ語やトルコ語などの影響を受けた。
* 青年トルコ革命
青年トルコ党系将校・知識人による革命。憲法復活と近代化を掲げ、オスマン帝国政治を大きく変化させた。
* イスタンブール
オスマン帝国の首都。ヨーロッパとアジアを結ぶ帝国中枢都市。
* イスタンブール大学
帝国期から続く高等教育機関。近代法学・行政学教育の中心だった。
* イスラエル・ショハト
ロシア帝国出身の労働シオニスト。自衛組織形成に深く関与した。
* ダヴィド・レメズ
後にイスラエル政府閣僚を歴任する政治家。労働運動・通信行政分野で影響力を持った。
* モーシェ・シャレット
当時はモーシェ・シェルトクを名乗っていた。後に外交路線を担う建国世代の中心人物。
* フェズ帽
赤い円筒形の帽子。19〜20世紀初頭のオスマン帝国官僚・学生層に広く用いられた。
* 第1次バルカン戦争
バルカン同盟諸国がオスマン帝国へ宣戦布告した戦争。帝国の欧州領土の大半を失わせた。
* セルビア
バルカン同盟の主要国家の一つ。対オスマン戦争を主導した。
* ブルガリア
1912年のバルカン同盟参加国。オスマン軍に大打撃を与えた。
* モンテネグロ
バルカン同盟の一員としてオスマン帝国と戦った小国。
* ギリシャ
バルカン戦争でオスマン帝国から領土を奪取した国家。後にテッサロニキを獲得する。
* イタリア・トルコ戦争
イタリア王国とオスマン帝国の戦争。北アフリカのリビア支配権を巡って行われ、オスマン帝国弱体化の一因となった。




