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第16話 1904年、エドラッハ——預言者、斃れる

明治37年

・日露戦争の開戦

・仁川沖海戦・旅順口攻撃

・第一次日韓協約の調印

・与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」発表(雑誌『明星』)


 預言者は、約束の地を目前にして斃れる。


 これは、聖書が繰り返し語る物語の型だ。モーセはカナンの地を眼前に望みながら、その地を踏まずに逝った。約束を伝えた者が、約束の成就を見ない——それが、預言者という存在の宿命なのかもしれない。


 テオドール・ヘルツル、44歳。


 1904年。最後の年が、始まった。




1 教皇との会見——最後の扉


 1904年1月26日。ローマ、バチカン。


 ヘルツルは教皇ピウス十世と向き合った。


 これが、彼の外交の「最後の大きな扉」だった。


 ヘルツルはカトリック教会の長に求めた。パレスチナにおけるユダヤ人国家建設への、聖座の支持を。ローマ教会がその声明を出すだけで、世界の何百万人もの信者に向けて、シオニズムの正当性が語られることになる。それはいかなる大国の外交的支持にも匹敵する力を持つはずだった。


 教皇は静かに、しかし明確に言った。


 「ユダヤ人がイエス・キリストを神として認めない限り、教会の長として、その国家建設を支持することはできない」——と。


 信仰の問題だった。それは交渉の余地がなかった。


 ヘルツルは頭を下げ、バチカンを後にした。


 ローマの石畳を歩きながら、彼は何を考えていたか。記録はない。しかし日記には、この会見への落胆よりも、既に次の手を考えていることが滲んでいた。諦めることを、この男は知らなかった。




2 体という限界


 しかし、諦めない精神を持っていても、体は別の話だった。


 4月。


 ウィーンの医師がヘルツルに心臓疾患の診断を下した。


 正確には、それは「診断」というよりも「宣告」に近かった。心臓はすでに深刻なダメージを受けていた。安静にしなければ、命が危うい——と。


 ヘルツルは聞いた。そして言った。「分かった」と。


 しかし止まらなかった。


 運動の書類が机に積み上がっていた。次の会議の準備があった。各国の支持者との往復書簡があった。オスマン帝国との交渉の続きがあった。ウガンダ案の後始末があった。


 医師の言葉と、机の上の書類——ヘルツルは後者を選んだ。


 これが正しい選択だったかどうか、後から問うことは意味がない。彼にとって、運動を止めることは死を意味した。体が死ぬか、夢が死ぬか——その問いを前にして、彼は体を選ばなかった。




3 フランツェンスバードへ


 医師の勧めに従い、ヘルツルは療養のためにフランツェンスバードへ向かった。


 温泉地として知られるこの保養地で、彼は休もうとした。


 しかし「休む」という行為が、この男には本質的に向いていなかった。書類を持ち込んだ。手紙を書いた。訪ねてくる同志と議論した。


 体は休まなかった。


 6月初旬、ヘルツルはオーストリアのエドラッハへと移った。


 ウィーンから南へ約八十キロ、ラックス山の麓に広がる避暑地だった。ハプスブルク家の縁者が別荘を構え、ウィーンの知識人や貴族が夏を過ごすこの地には、静かな品格があった。シュニッツラーもツヴァイクもフロイトも、この近辺の山を歩き、療養地を訪れたことがあった。「サナトリウム・エドラッハ」——ヘルツルが滞在したその施設は、山の空気と水治療で知られていた。


 その空気の中で、一時的に小康状態を得た。


 しかし、それは嵐の前の静けさだった。




4 7月3日、午後


 7月初旬、肺炎を併発した。


 体は、もう戦えなかった。


 1904年7月3日、午後。


 テオドール・ヘルツルは、エドラッハの水治療施設にて、息を引き取った。


 44歳だった。


 死の間際、彼は支援者のウィリアム・ヘックラーに言葉を残した。


 「私の国民に伝えてくれ。私は国民のために心の血を捧げたのだ」


 また、主治医にはこう語った。


 「彼らは立派な人々だ。君は、彼らが自分たちの祖国に入るのを見ることになるだろう」


 その言葉の通り、四十四年後——1948年——ユダヤ人の国家イスラエルが建国される。しかしヘルツルは、その日を見なかった。


 バーゼルの会議で「五十年後には誰もがそれを認めるだろう」と日記に書いた男は、その五十年を生きることなく、44歳で旅立った。


 ヘルツルはウィーンのデーブリング墓地に埋葬された。しかしそれは、永遠の眠りの場所ではなかった。


 1949年——イスラエル建国の翌年——彼の遺骨はエルサレムへと移された。ヘルツルの丘と名付けられたその丘に、預言者は眠っている。「約束の地を目前にして斃れた」男が、死後になって、ようやく約束の地に辿り着いた。




5 ウィーンの慟哭


 7月7日。ウィーン、デーブリング墓地。


 葬儀が行われた。


 作家シュテファン・ツヴァイクは、後年その日の光景を記録している。


 世界各地から、ユダヤ人が押し寄せた。列車で、馬車で、徒歩で。東欧の貧しい村から、西欧の洗練された都市から。老人が来た。若者が来た。子どもが来た。すべての秩序が打ち砕かれるほどの激しい慟哭が、墓地を包んだ。見知らぬ人々が抱き合って泣いた。


 ツヴァイクはこう書いた。「それは、ただの葬儀ではなかった。それは民族の嘆きだった」


 この日まで、ヘルツルを「妄想家」「危険人物」として嘲笑していた人々も、沈黙した。


 一人の男が、八年間で何を成し遂げたか——それが、この慟哭の大きさに刻まれていた。


 世界シオニスト機構の会長職は、ダヴィド・ウォルフゾーンが引き継いだ。運動は続く。




6 ベン=グリオン、ワルシャワで聞く


 この年、ダヴィド・ベン=グリオン18歳。


 彼はワルシャワに移住し、家庭教師として働いていた。


 ヘルツルの死の報を受けた彼は、友人への手紙にこう書いた。


 「私たちの希望と夢は孤児になった。太陽は沈んだ。しかしその光はまだ輝いている」


 彼は故郷のプウォンスクに戻り、シナゴーグの壇上でヘルツルへの弔辞を述べた。


 18歳の青年が、会ったことのない「設計者」の死を悼んでいた。


 ヘルツルとベン=グリオンは、一度も言葉を交わさなかった。手紙も届かなかった。しかし設計図は引き継がれた。「太陽は沈んだ。しかしその光はまだ輝いている」——その言葉の通りに。


 四十四年後、ベン=グリオンはテルアビブの独立宣言の場に立ち、ヘルツルの肖像画の下で「イスラエル国家の独立」を宣言する。




7 継承の連鎖——同じ年の群像


 ヘルツルが逝った年、遺産の継承はすでに静かに始まっていた。


 ロシアの紅茶王にして、シオニズムの強力な支援者だったクロニムス・ゼエヴ・ヴィソツキーも、この年に世を去った。彼は遺言で、パレスチナの教育・文化施設の設立のために十万ルーブルという巨額の遺産を残した。その実行を委ねられた一人が、ヘルツルの思想的ライバルだったアハード・ハアムだった。


 政治的には正反対に立った二人の「遺産」が、同じ目標のために使われることになった。


 この遺産は後に、ハイファに建設されるテクニオン——イスラエル工科大学——の基盤となる。科学と教育によって民族を強化するという夢が、ここに根を張った。


 パリではマックス・ノルダウが、指導者を失った運動を支える重責を一人で引き受けた。ヘルツルの右腕だった男が、今は大黒柱となった。


 オデッサではジャボチンスキーが、「軍事的自衛」という思想をさらに深めていた。ヘルツルの「外交によって国家を建てる」という路線を継承しながらも、それだけでは足りないという確信を、彼は日々強めていた。


 ウィーンでは、別の「遺産」が動いていた。グスタフ・マーラーが交響曲第五番をケルンで初演し、ウィーン宮廷歌劇場の改革を断行し続けていた。建築家オットー・ワーグナーが、鉄筋コンクリートとアルミニウムを使った「ウィーン郵便貯金局」の建設に着工した。古い帝国の外皮の下で、新しい時代の建築と音楽が産声を上げていた。


 世界は、ヘルツルの死を悼む間もなく、前へと動き続けた。




8 設計図は残った


 1896年、36歳のヘルツルは世界に向かって叫んだ。「ユダヤ人は一つの民族だ。その民族には国家が必要だ」——と。


 1897年、バーゼルの演壇に立ち、「私はユダヤ国家を建国した」と日記に書いた。


 1904年7月3日、44歳で逝った。


 建国は、彼の死から四十四年後に実現した。


 設計者は、建物の完成を見なかった。


 しかし設計図は残った。


 ヘルツルが残したものは、論文でも演説でも組織でもなかった——もちろん、それらすべてでもあったが、最も深いところでは——それは、「不可能だと言われていたことを、可能だと信じた者がいた」という事実だった。


 その事実が、後に続く者たちを動かした。


 ベン=グリオンを。ヴァイツマンを。ジャボチンスキーを。ノルダウを。


 預言者は斃れた。しかし炎は消えなかった。


 この炎がどこへ向かうのか——

* ピウス10世

 1903年から在位したローマ教皇。1904年、ヘルツルと会見し、ユダヤ国家構想への支持を拒否した。


* バチカン

 カトリック教会の中心地。ヘルツルはここで教皇との会見に臨んだ。


* フランツェンスバード

 ボヘミア地方の温泉保養地。ヘルツルが療養のため滞在した。


* エドラッハ

 ラックス山麓の避暑・療養地。1904年7月3日、ヘルツルは当地で死去した。


* ウィリアム・ヘックラー

 ヘルツルを支援した英国人牧師・外交仲介者。ヨーロッパ王室との接触にも協力した。


* デーブリング墓地

 ヘルツルが最初に埋葬された墓地。1949年に遺骨はイスラエルへ改葬された。


* ヘルツルの丘

 イスラエル建国後にヘルツルの遺骨が移された国立墓地。現在は国家的記念空間となっている。


* シュテファン・ツヴァイク

 ウィーン出身の著名作家。ヘルツル葬儀の群衆と慟哭を後年回想録に記録した。


* ダヴィド・ウォルフゾーン

 ヘルツル死後に世界シオニスト機構を率いた実務家。シオニズム運動継続の中心人物となる。


* クロニムス・ゼエヴ・ヴィソツキー

 紅茶事業で成功した大富豪。シオニズム運動や教育事業への大規模支援で知られる。


* ヴィソツキー・ティー

 ヴィソツキー家が築いた巨大茶業企業。東欧ユダヤ社会の経済的成功例として有名。


* テクニオン

 ハイファに設立された理工系大学。近代イスラエル科学技術教育の中心機関。


* ハイファ

 地中海沿岸の主要港湾都市。テクニオン設立地としても知られる。


* 交響曲第五番

 1904年に初演されたマーラーの代表作の一つ。後の「アダージェット」で特に有名。


* オットー・ワーグナー

 ウィーン分離派・近代建築を代表する建築家。装飾から機能性への転換を象徴した。


* ウィーン郵便貯金局

 ワーグナー設計による代表的モダニズム建築。鉄筋コンクリートとアルミニウムを大胆に用いた。


* 水治療

 温泉・冷水・気候療法などを組み合わせた当時の代表的保養治療法。


* フランツ・シュニッツラー

 世紀末ウィーン文学を代表する作家。心理描写と退廃的都市文化で知られる。


* ジークムント・フロイト

 無意識理論を提唱した思想家。世紀末ウィーン文化を象徴する人物の一人。


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