第15話 1903年、キシニョフ/バーゼル/パリ——血と分裂と銃声
明治36年
・第一回白虎隊記念祭(日露戦争前夜の世論の高まり)
・日露協商交渉の難航
夢は、現実によって試される。
美しい言葉で描かれた設計図は、血の匂いが漂い始めると、急に別の顔を見せる。「どこに国家を建てるか」ではなく、「今すぐ逃げ場所が必要だ」——その切迫した問いが、運動の根幹を揺さぶった。
1903年。
この年、シオニズム運動は「夢の段階」を終え、残酷な現実の中に叩き込まれた。
1 キシニョフの血
4月6日。ロシア帝国領キシニョフ(現モルドバ)。
復活祭の祝日だった。
暴徒が街のユダヤ人地区に押し入った。家が焼かれた。人が殺された。女性が暴行を受けた。略奪が行われた。警察は動かなかった。いや、一部は暴徒に加担した。
この虐殺には、「点火役」がいた。
地元紙『ベッサラベーッツ』が、数週間前から煽動記事を掲載していた。「ユダヤ人がキリスト教徒の子供を儀式殺人の犠牲にした」——根も葉もない「血の中傷」だった。しかし言葉は人を動かす。恐怖と憎悪を煽られた民衆が、復活祭の熱狂の中で暴走した。
四日間で、四十九人のユダヤ人が殺された。数百人が負傷した。七百軒以上の家屋と六百の商店が破壊された。
ロシア当局——内務大臣プレーヴェをはじめとする官僚たち——の不作為、あるいは黙認が、国際的に強く非難された。「これは暴動ではない。これは虐殺だ」という声が、世界中から上がった。
ユダヤ人の国民的詩人ハイム・ナフマン・ビアリクは、この惨劇の現場を自ら訪れ、生き残った人々の証言を集めた。そして書いた。詩『殺戮の市にて』——。それは怒りの詩だった。死者への哀悼ではなく、生き残った者への問いかけだった。「なぜ戦わなかったのか。なぜただ殺されるだけだったのか」と。
この問いは、ユダヤ人社会に深く刺さった。
哀れみを乞うのではなく、武器を持って戦う——その意識の転換を、ビアリクの詩は促した。ジャボチンスキーが自衛組織の結成に奔走したのも、この詩の言葉と無縁ではなかった。
ニュースはヨーロッパ中を駆け巡った。
ウィーンのテオドール・ヘルツルのもとにも、その報告は届いた。
読んだ。目を閉じた。
「同化」が不可能なことは、もう分かっていた。ユダヤ国家が必要なことも、分かっていた。しかしキシニョフの死者の数を前にして、「分かっている」という言葉がいかに無力か——それを、この43歳の男は痛感した。
設計図を描いている間にも、人が死んでいる。
2 ジャボチンスキー、怒りを組織する
オデッサで、23歳のゼエヴ・ジャボチンスキーはキシニョフの報を受けた。
彼はジャーナリストとして、その惨状を記事にした。しかし書くだけでは足りなかった。
怒りは、行動を求めた。
ジャボチンスキーはユダヤ人自衛組織の結成に奔走した。次のポグロムが来たとき、逃げるのではなく、戦う。武器を持ち、コミュニティを守る——それが、当時のジャボチンスキーが出した答えだった。
この経験が、彼の思想の核を固めた。
ヘルツルは外交を信じた。言葉と交渉で扉を開けると信じた。しかしジャボチンスキーが見たのは、「扉を開けてもらうのを待っている間に、人が殺される」という現実だった。
強さだけが、弱者を守る。鉄の壁だけが、平和を可能にする——。
3 ウガンダ案——絶望が生んだ「別の地図」
8月。スイス、バーゼル。第六回シオニスト会議。
ヘルツルは演壇に立ち、一つの提案を示した。
イギリス政府から打診があった。東アフリカ——当時「ウガンダ」と呼ばれた地域——への入植を、イギリスが支援する用意があると。面積は広く、気候は農業に適している。何より、今すぐに動ける話だ。
「パレスチナへの道が険しい今、まず安全な「夜宿」(一時的な避難所)として、この地を活用することを検討すべきではないか」——ヘルツルはそう言った。
会場が凍りついた。
次の瞬間、嵐のような怒号が上がった。
「パレスチナ以外はあり得ない」「先祖の地を捨てるのか」「シオンへの帰還こそがシオニズムだ」——ロシアや東欧から来た代議員たちの怒りは、制御できないほど激しかった。
彼らにとって、「ウガンダ」は単なる地名ではなかった。それは「パレスチナを諦めること」の象徴だった。
ヘルツルは言い続けた。これは放棄ではない。一時的な避難地だ。キシニョフの死者たちを思え——今すぐ逃げ場所が必要な人々がいる——と。
票は割れた。
賛成多数で「調査すること」だけは可決されたが、運動は二つに裂けた。
4 ジャボチンスキー、初めての反対票
この会議に、ジャボチンスキーは初めて出席した。
23歳。まだ若い記者だった。しかし会議の場に立つと、彼には迷いがなかった。
尊敬するヘルツルが提案している。その事実は分かっていた。ヘルツルがキシニョフの惨劇を受けて、苦悩の末に出した答えだということも。
しかし、ノーだった。
ジャボチンスキーは反対票を投じた。
パレスチナ以外に、ユダヤ人の国家はあり得ない。アフリカの地にユダヤ国家を建てても、それはユダヤの歴史と精神的なつながりを持たない「空洞の器」に過ぎない——それが彼の確信だった。
奇妙なことに、この点においては、ジャボチンスキーとアハード・ハアムは同じ側に立っていた。思想は正反対でも、「パレスチナこそが唯一の地」という一点では一致した。
5 アハード・ハアムの「泣く者たち」
会議が終わり、代議員たちが散り散りに去った後。
アハード・ハアムは、オデッサで筆を取った。
論文の題は「泣く者たち(ハ・ボヒム)」。
彼は書いた。バーゼルで泣いている人々がいる。ウガンダ案に反対し、「シオンへの道が閉ざされた」と泣く人々が。彼らの涙は正しい。
しかし、なぜそこまで追い詰められたのか。
それは、政治的な成功を急ぎすぎたからだ。外交の成果を求めるあまり、民族の内面を育てることを後回しにしてきたからだ。「器」だけを作ろうとして「魂」の準備を怠ってきたからだ——と。
「バーゼルで生まれたシオニズムは、バーゼルでその魂を失った」
この言葉は、鋭く、そして痛烈だった。
ヘルツルはアハード・ハアムのこの批判を読んだ。返答はしなかった。
ヘルツルには、もはや論争に使う時間も体力も、残っていなかった。
6 パリの銃声
1903年8月10日。パリ地下鉄二号線で列車火災が発生し、八十四人が死亡した。
「光の都」の地下で起きた惨事は、街に暗い影を落とした。しかしパリは止まらなかった。この事故をきっかけに、地下鉄の安全基準が世界的に見直されることになる——それもパリらしい、惨劇を知識に変える力だった。
地上では、芸術が爆発していた。
保守的なサロンに反旗を翻す新しい展覧会「サロン・ドートンヌ」が第一回を開催した。アカデミズムの束縛を嫌う若い芸術家たちが集い、後にフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれる運動の揺籃となった。スペインからパリへと拠点を移していた若きパブロ・ピカソは、親友の自殺に深く傷つき、「青の時代」と呼ばれる憂鬱で孤独な傑作群を描き続けていた。
東で血が流れ、西で美が生まれていた。
同じ年の、同じ地球の上で。
12月19日。ハヌカの祝宴が開かれていた。
マックス・ノルダウが席に着いていた。彼はウガンダ案を支持し、ヘルツルとともに会議を主導した。その立場への怒りを抱えたロシア人留学生ハイム・ゼリグ・ルバンが、拳銃を取り出した。
二発の銃弾が放たれた。
幸い、外れた。ノルダウは無事だった。
しかし会場は混乱に陥り、ルバンは取り押さえられた。
ヘルツルはこの知らせを聞いて、長い沈黙の後、こう言ったという。「ウガンダ案は放棄する」——と。
銃弾が外れても、その意味は届いた。シオニズム運動の内部の対立は、もはや言葉の戦いではなかった。人を殺そうとするほどの憎悪が、同じ民族の間に生まれていた。
これ以上、この分裂を続けることはできない。
パレスチナへの帰還——それ以外に、運動を一つにする言葉はなかった。
7 ゴルダの父、アメリカへ
同じ1903年。キエフ。
ゴルダ・マボヴィッチの父モシェは、決断した。
ロシア帝国での生活に見切りをつけ、単身アメリカへ渡ることにした。キシニョフのような惨劇が、いつキエフで起きないとも限らない。5歳の娘と妻と家族を守るためには、新天地を切り開くしかない。
モシェはニューヨークへ旅立った。
残されたゴルダと家族は、ピンスクへと移った。父が仕事を見つけ、渡航費を貯め、家族を呼び寄せる日まで、東欧で待ち続けることになった。
5歳のゴルダには、父の旅立ちの意味がどこまで分かったか。
しかしその後の数年間、ピンスクで母が生計を立て、姉が懸命に働き、貧しさと不安の中で生き延びていく日々——その記憶が、この女の子の骨の髄に「生存への意志」を刻んだ。
何十年か後に、国連の演壇でイスラエルの権利を訴える女性の声の底には、ピンスクの寒い冬の空気が染み込んでいた。
8 ヘルツル、最後の冬
1903年の冬。テオドール・ヘルツル、43歳。
体は、もう限界に近かった。
心臓の病が悪化していた。医師から安静を命じられていた。しかし止まれなかった。
12月、パリではマリー・キュリーとピエール・キュリー夫妻がノーベル物理学賞を受賞した。放射能の研究で史上初の女性受賞者となったマリーは、同年パリ大学で博士号も取得していた。「不可能」と言われた壁を、科学という武器で打ち破った女性——ヘルツルが「不可能」と言われた夢を外交という手段で追い続けたように、マリーもまた、誰もやったことのない道を切り開いた。
ヨーロッパでは別の火種も燻っていた。6月、セルビアで国王が軍部によって暗殺されるクーデターが起き、バルカン半島の不安定化が進んでいた。オスマン帝国の衰退、オーストリア=ハンガリーの圧力、ロシアの南下——バルカンという「ヨーロッパの火薬庫」は、少しずつ温度を上げていた。
ヘルツルには、そこまで見える時間がなかった。
ウガンダ案を撤回した後、彼は再びオスマン帝国との交渉に戻ろうとしていた。イギリスとも継続的な接触を保っていた。ロシアとの交渉も模索していた。
それに加えて、運動の内部の亀裂を修復しなければならなかった。ウガンダ案で生まれた「二つのシオニズム」の間の橋渡しを。アハード・ハアムとの思想的な対立に何らかの答えを出すことを。
抱えるには、重すぎた。
しかしヘルツルは、弱音を日記に書くことはなかった。
「預言者の役割とは、方向を示すことだ」——バーゼルの会議で骨の髄から理解したそのことを、彼はまだ信じていた。
扉は開き続けなければならない。自分の体が続く限り。
* ハイム・ナフマン・ビアリク
ヘブライ語近代文学を代表する詩人。キシニョフ虐殺後に現地調査を行い、『殺戮の市にて』を執筆。受動的な被害者意識を厳しく批判し、ユダヤ人の自衛意識形成に大きな影響を与えた。
* 殺戮の市にて
ビアリクによる代表的な詩。キシニョフ虐殺を題材にし、「なぜ抵抗しなかったのか」という苛烈な問いを共同体へ突きつけた。後の武装自衛思想や修正主義シオニズムにも影響を与える。
* キシニョフ
当時はロシア帝国領ベッサラビア州の中心都市。1903年のポグロム(虐殺事件)は世界的衝撃を与え、近代シオニズムの転換点の一つとなった。
* ベッサラベーッツ
キシニョフで発行されていた新聞。反ユダヤ的な煽動記事や「血の中傷」を流布し、虐殺の空気を煽ったことで悪名を残す。
* 血の中傷
「ユダヤ人がキリスト教徒の子供を儀式殺害する」という中世以来の虚偽の告発。ヨーロッパ各地で迫害や暴動の口実として利用された。
* ヴャチェスラフ・プレーヴェ
ロシア帝国の保守強硬派官僚。キシニョフ虐殺への不作為・黙認疑惑で国際的批判を受けた。後にヘルツルとも接触している。
* ユダヤ人自衛組織
ポグロムへの対抗として東欧各地で形成された武装集団。ジャボチンスキーらの思想形成に直結し、後のユダヤ軍事組織の原型となった。
* 第六回シオニスト会議
ウガンダ案を巡って激しい対立が起きた会議。政治的シオニズム内部の亀裂を決定的に可視化した。
* ウガンダ
実際には現在のケニア高地周辺を含む英領東アフリカ地域を指す。当時のシオニズム内部では「一時避難地」か「理念の裏切り」かで激論となった。
* ウガンダ案
イギリス政府が提示したユダヤ人入植案。キシニョフ虐殺後の緊急避難策として提案されたが、シオニズム運動を深刻に分裂させた。
* 泣く者たち
ウガンダ案への批判文。「政治的成果を急ぐあまり魂を失った」として、政治中心のシオニズムを厳しく批判した。
* サロン・ドートンヌ
保守的サロン制度に対抗して創設された芸術展。後のフォーヴィスムや前衛芸術運動の拠点となる。
* フォーヴィスム
強烈な色彩表現を特徴とする前衛絵画運動。「野獣派」とも呼ばれる。
* パブロ・ピカソ
20世紀最大級の芸術家の一人。1903年前後は「青の時代」にあり、貧困・孤独・死を主題とした作品を制作していた。
* 青の時代
青系統の色彩を基調にしたピカソ初期の芸術時代。憂鬱や孤独感を特徴とする。
* ハヌカ
古代ユダヤの神殿奪還を記念する祭り。「光の祭り」とも呼ばれる。
* ハイム・ゼリグ・ルバン
ウガンダ案に激怒し、ノルダウ暗殺未遂事件を起こしたロシア系ユダヤ人学生。
* ピンスク
東欧ユダヤ文化圏の重要都市。ゴルダ・メア幼少期の生活地の一つ。
* マリー・キュリー
放射能研究の先駆者。1903年にノーベル物理学賞を受賞し、史上初の女性受賞者となった。
* ピエール・キュリー
マリー・キュリーの夫で共同研究者。放射能研究でノーベル賞を共同受賞した。
* ノーベル物理学賞
1903年、放射能研究によりキュリー夫妻とアンリ・ベクレルへ授与された。
* 五月クーデター
セルビア国王アレクサンダル1世夫妻が軍部によって暗殺された事件。バルカン半島情勢を不安定化させ、第一次世界大戦前夜の緊張を高めた。
* バルカン半島
民族・宗教・列強利害が複雑に交錯する地域。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。




