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20/21

第二十話 モンテッソーリ教育

前野は「ネタ」を抱えてロッカールームに入る。

昨日の日曜日は公休のパート従業員が多く話せなかったため、今日の月曜日に持ち越したのだ。


「お疲れさまー!ねぇ、皆聞いてよー!昨日めちゃくちゃ面白い事件があったのー!」

「前野さん、お疲れさま!どうしたの?」

「昨日ね、釘本さんが店長のことを"豚野郎"って呼んだんだよー!」

「ぶ・・・!?ど、どういうこと?」

「店長がふとした時に揚げ物をつまみ食いしたところを見て、釘本さんはそう言ったんだと思うー!店長も店長で、周りに気づかれずに食べたつもりなんだろうけど、口の周りに揚げ物の食ベカスがついてるからバレバレなんだよー!」

「は、はは!そうなんだ!」

「それにねー、フロアのイケメン桜井君がいるでしょ?彼が店長に用事があって作業場に来た時、釘本さんは"チリチリキノコ"って罵ったんだよー!ひどくなーい?」

「う、うわ~それはひどいわね~。」

「それにもう一つ・・・白石さん、離婚するんだってー!」

「え!?まだ小学生の娘ちゃんがいるでしょうに!?」

「旦那さんが役立たずだから別れて嬉しかったとも言ってたよー!っていうか白石さん、旦那さんからの養育費で生活費を賄えるなんて勘違いしてるんだよー!そんなにたくさんもらえるわけでもないのに、勘違いして笑っちゃうよねー!」

「え・・・あ、あ~そうね。」

「でしょでしょー!惣菜部門っていつも事件ばっかり起きちゃうのー!ほんっっと面白いよねー!」

「は、ははは・・・。」

「そ~だね、面白い面白い・・・。」

「また何かあったら面白い話聞かせてあげるねー!じゃあ、お疲れさまー!」

「は~い。」

「お疲れさま。」


前野は他のパート従業員よりも先にロッカールームを出て行く。

それを確認し、パート従業員たちは呆れ果てて口を開く。


「前野さん、また?」

「まただよ!いつも惣菜のパートさんをバカにして悪く言うんだから!」

「本当よ。聞かされる人間の身にもなって欲しいわ・・・本当に疲れる。」

「本人はあれで面白いと思ってるんでしょうけど、あんなにあけっぴろげに晒し物にするってことは、私たちもきっと他の場所では悪く言われてるのかもね。」

「嫌よね~!杉田さんも怖い人だけど、あの人は裏表が無いからまだ信用はできるし!」

「そうそう。一番厄介なのは、親切ぶって人を陥れる前野さんかもしれないね!」

「あまり関わらないでおきましょ!」

「それにしても、釘本さんがそんなこと言うなんて意外!もっと取っつき難い人だと思ってたけど、豚野郎は傑作(笑)確かに店長は豚さんみたいだもの(笑)」

「皆が心の中で思ってた感想を言っちゃうし、イケメン桜井君のことなんか眼中にも無さそうで、逆に好感度上がっちゃうかも!」(私のライバルじゃないって意味で)

「分かる~!こんなにサッパリとした女性だとは知らなかった!私もちょっと見直したかも!」(釘本さんには松山君がいるから、桜井君を狙えるチャンスじゃない!)


パート従業員たちは、内心では前野のことを快く思っていないようだ。

そして、サンセット一番人気のイケメン・桜井を狙う枠が一つ減ったことに安堵しているようだ。

若いイケメンの桜井が、果たして年増な彼女たちを相手にするとでも思っているのか?という疑念は一切無い。

このスーパーに、「まともな人」は誰一人居ないようだ。

夕方。

今日の夕飯は何にしようか(出来合い)と考えていると、松山からLINEが入った。


「かおりさん、こんにちは!」

「こんにちは。勝手に下の名前で呼ぶな!」

「良いじゃないですか、一緒にご飯を食べた仲ですから!それは置いといて、実は今日杉田さんが"神田饅頭"を赤山さんと僕に持って来てくれたんです。以前言っていた、杉田さんの母方の老舗お饅頭屋さんの、看板商品だそうです!いつもお弁当を手伝ってくれるお礼ですって。釘本さんの分は"明日白石さんが居ると渡しづらいから"と僕が預かりました。つまり、杉田さんは前野さんと白石さんにお饅頭をあげる気は一切無いようです。僕は今仕事が終わったんですけど、釘本さんの家に持って行っても良いですか?住所を教えてください!」

「何を勝手に話進めてんの。私の家に来られても困るから、私が松山邸に取りに行くわ。」


"神田饅頭"ってグルメ番組でもよく取り上げられるけど、あれは杉田さんのご実家だったんだな。

世間ってせめぇ~な。


「分かりました!ついでに今日も夕飯食べて行きますか?お饅頭の件を母さんにも言ってみたら"それならかおりちゃんも連れていらっしゃい!"とウェルカムしてます!それに、今日父さんは魚市場で鯛を6尾買って来たみたいなので、父さんもかおりさんを家に連れて来てもらう気満々ですよ!」

「私に決定権は無いんかい。まあ良いけど。じゃあ今日もお言葉に甘えてゴチになります。・・・ていうか、6尾?」

「やった~!お待ちしてます!実は今、白石さんと離婚を決意した和也さんと娘の絵美ちゃんが離れに泊まりに来てるんですよ!」

「え!?絵美ちゃんが来てるの?」


白石が離婚するだのどうのこうのは、日曜日の出勤で耳にしたから驚いてはいない。

しかし、夫(だった人)の和也氏と絵美ちゃんが、なぜ松山邸に泊まりに来てるんだ?

私は白石の娘である絵美ちゃんともよく顔を合わせているから、彼女のことは知っている。

でもなんか・・・気まずいなぁ。

う~ん・・・まあいいか。


「大丈夫。行く!」

「OK~!それにしてもこんな夕飯時に即決できるなんて、もしかしてかおりさん、夕飯を作る気が無かったんじゃないですか?もしかして、お呼ばれする気満々だったんじゃないですか?」

「・・・バレた?なんとなく第六感で、今日は誘われそうな気がしてたんだよ。でもこの前もシャトーブリアンのステーキをごちそうしてもらったばかりだし・・・なんか気の毒だな。」

「大丈夫です!父さんはそんなことでああだこうだ言うような器の小さい男ではありませんから!では、お待ちしてます!」


でしょうね、松山父は只者じゃなさそうだもの。

鯛かぁ・・・今日は鯛の煮付けを作ってくれるのかな?


それより、絵美ちゃんはお魚の煮付けって食べられるのかな?

小さい子や若い子は「魚の骨を取るのが大変だから」と魚を食べない人も多いって聞くし。

でも、この大変さを味わわせるのも教育ってもんよ。

もしその場に白石がいたら「私が絵美のために魚の骨を全部取ってあげる!」「娘は母親の言うことを聞いてればいいの!」なんてムダに干渉するんだろな。

まるでうちの母親みたいに。


・・・・ぐわぁぁああーーーーー!!

また私の脳内で母親の嫌な記憶がチラつきがやる!!

くそ、くそ、出て行けーーー!!


嫌な記憶がフラッシュバックしかかったので、私はとっさに高速阿波踊りを踊った。

これは私なりの応急処置だ。

「霊的な存在を感じ取った時、下ネタを連呼すれば霊は"こいつには近づかんとこう"と引いて逃げていく」と言われている迷信のようなものだ。

苦い記憶が蘇りそうになった時に高速阿波踊りでも踊れば、だいたい発作が収まる。


よし、落ち着いてきた。

私は松山邸に向かうことにした。


* * *


ピンポ~ン♪


「は~い!あ!かおりちゃん、いらっしゃい!」

「どうもこんばんは。またごちそうになります・・・。」

「良いのよ!さあ上がって!」


松山母は例のごとく、私を「松山の学校のお友達」のように歓迎してくれる。

そういえば松山は「和也氏と絵美ちゃんが離れに泊まりに来てる」って言ってたけど、離れがあるの?

ふと玄関から左手の方を見ると、確かに離れがあった。

離れというか、ほぼ一軒家だ。

デカい豪邸の敷地内に、もう一つ平屋が立っているという感じだ。

・・・この家の敷地面積はどのぐらいあるんだよ。


リビングに入ると、松山父、和也氏、絵美ちゃん、松山が談笑していた。


「かおりさん!いらっしゃい!今日は鯛の煮付けを作るからね!」

「釘本さん、お久しぶりです。娘がお世話になってます!」

「あ、ママのお友達だ!」

「皆さん、どうもこんにちは。」


こういう談笑中の席に入る時、さっきまでの楽しげな空気感が静止し、全員が私に注目して話が止まる感じが苦手なんだよな・・・。

もしくはグループディスカッションで、他の陽キャたちがワーワー楽しく騒ぎながら意見を言い合った後、私の番になると一気に空気が無になるというか、急に皆楽しくなさそうに真顔になる時とかも辛い。

私がコミュ障過ぎるせいか、いつも空気を悪くさせてるような気がして申し訳なくなる。


「かおりさん!はい、これ。かおりさん!杉田さんがくれた"神田饅頭"ですよ、かおりさん!」

「かおりさん、かおりさんって呼ぶな!いつ私が下の名前で呼ぶことを許した!?」

「だって釘本かおりさんなんだから、どちらでもいいじゃないですか~!かおりさん!もしかして照れてるんですか?かおりさん!」

「やめろ!海に沈めるぞ!」

「ははは!優とかおりさんは本当に姉弟みたいで仲が良いなー!」

「ふふっ。ごめんなさい、釘本さんってそんなキャラだったんですね!元妻と談笑してた時は控えめな人だと思ってたんですが、なかなかファンキーですね!」

「ママのお友達ー!ことばが"ブルー戦士"のお姉ちゃんみたいでカッコイイー!」

「え!?」


松山のしつこい「かおりさんコール」にブチギレていると、皆が笑い出した。

良い空気が・・・続いているだと?

私は場をしらけさせる経験しかしたことがないため、和やかな雰囲気が続いていることに驚く。

松山の方をチラッと見ると、ニコニコしながらウインクしてやがる。

まさか、私のコミュ障を見抜いての発言だったのか?

こいつ、やっぱりポンコツじゃねぇな?

などと考えていると、松山母がDDRコントローラーを持って来たことに気づく。

これから、何に使うというのか。


「皆、ちょっと夕飯前に運動しても良いかしら?ダンスダンスレボリューションで♪」

「わ、懐かしい!結婚する前はよくゲーセンで遊んでたな~!松山弁護士の奥様も、ダンスダンスレボリューション好きなんですね!」

「はい!これは私の"宅トレ"の一種で、ウォーミングアップとしていつもやってるの!」

「おばちゃん、私もやりたーい!」

「いいわよ~絵美ちゃん!やり方は知らないわよね?まずはおばちゃんが一曲踊って見せるから、あとは絵美ちゃんのやり方を見つけてみて!一番絵美ちゃんに合ってる曲を探し出すのも楽しいわよ!私は横で見守ってるわ!助けが必要な時におばちゃんに話しかけてね!さあ、遊びましょ!」

「え?いいの?言うとおりにしなさいって、おばちゃんは言わないの?ゲームは30分しかダメって、言わないの?」

「おばちゃんは言わないよ~!自由に!絵美ちゃんの好きなように!遊びましょ!おなかが空くまで遊ぶわよ~!」

「やったあああーー!」


なんということだ。

今までに一度も見たことがない絵美ちゃんの笑顔だ!

松山母は白石とは正反対に「ダメ」とか「従え」とかネガティブワードを使わない。

それを絵美ちゃんが驚き、こんなに喜んでいるということは、今まで相当抑圧されていたのだろう。


「白石さん!俺たちも少し遊びましょっか!」

「え?松山弁護士?」


そう言うと、松山父はダイニングルームの食器棚・・・食器棚だと思っていたスライド式の隠し扉を横にスライドした。

なんということでしょう!

食器棚は食器棚としての役割を果たしながら、実はダイニングルームに隣接する小さなゲームセンターの隠し扉でもあったのです!

というか、自宅にゲームセンターがあるって、どうなってんの?


「ま、松山弁護士!何ですかそちらの部屋は!?」

「ははは!ビックリしました?実は家にもゲーセンが欲しいと思って、趣味で昭和レトロなアーケードレースゲームを買っちゃったんですよ!隠し扉の部屋に置くってのも、男のロマンってやつです!」

「うわああっ!懐かしいぃぃっ!最新機種じゃなくて昭和のカーレースゲームってのが良いっ!あ、すみません・・・取り乱しました。」

「ははは!白石さんもゲームがお好きなんですね!絵美ちゃんと春子もゲームを始めちゃったし、俺たちも対戦しましょうか!腹が減るまで!」

「良いんですか!?ぜひっ!!」

「絵美ちゃーん!ちょっと和也パパとおじちゃん、今からゲームで遊ぶからねー!」

「パパとおじちゃんもゲームするのー?ママは大人はゲームしちゃダメって言ってたよ?」

「本当は大人もゲームして良いんだよー!ママは悪の大王だから、パパがヒーローになるのを邪魔してただけなんだよー!今からここにいる人皆、絵美ちゃんのヒーローだ!鯛の煮付けも一度煮込んでるから、遊んでる間に味がしみ込んでもっと美味くなるぞ!ははは!さあ遊ぶぞ遊ぶぞー!」

「んおおおーーーっ!!昔の血が騒ぐぜえええーーーっ!!」

「おお!白石さん、威勢がいいねー!俺も、行っくぞおおーーーっ!!」


突如、和也氏は赤山さんのような咆哮を上げて、ケンシロウみたいな構えで松山父に勝負を挑み始めた。

松山父も対抗すべく、レイ・ウーロンの龍の構えみたいなポーズで威嚇を始める。

男って、やっぱりいつまでもお子ちゃまなんだな。

でも、この光景、嫌いじゃない。

言って女の私も、まだまだ子供だし。


大人のおじさんおばさんが自由に遊ぶ姿を見せることで、絵美ちゃんは今まで抑圧されていた教育から解放されていくかもしれない。

私のように、大人になってから「過干渉の洗脳」に気づくよりも、絵美ちゃんは軽傷で済むかもしれないと考えると、自分みたいな犠牲者が救われたような気がして、関係ないはずなのに私はホッとする。


「かおりさん!こうなったら僕たちも・・・勝負するしかないですよね?」

「勝負?」

「はい!このゲームはどうでしょう!?」


松山は「爆弾で壁をぶち壊したり爆弾でライバルを倒したりするゲーム」のPS版を持って来た。

おわっ!懐かしっ!

昔は弟とよく対戦してたな~。

弟は今や「母親のお飾り」になってしまったが、昔の弟の姿を思い出し、自然と頬が緩む。


「いいぜ、松山!私、手加減しねぇから!」

「お!かおりさん、乗り気ですね!・・・勝負だっ!!」


しろボンの声真似をする松山が昔の弟と重なり、ちょっと可愛く見えてしまった。

いやいや!別に好きじゃねえし!!

松山のぼっちゃん、オンライン勢の私を舐めるんじゃねぇぞ!!


いつの間にか、私たちおじさんおばさんと絵美ちゃんは、食前の熱きゲーム対戦で盛り上がってしまった。

誰にも縛られない、自由って、楽っしいぃーーーーー!!!

ああーー!黒ボン死んだぁーー!

結局、私たちおじさんおばさんと絵美ちゃんは一時間近くゲーム対戦に熱中してしまった。

こんなに子供っぽい時間を過ごすのって、何十年ぶりだろうか。

正直、めちゃくちゃ楽しかった。


全員でおなかをグーグー鳴らしながら、私たちは夕飯をいただくことにした。

私が予想していた通り、絵美ちゃんは魚を食べるのに苦戦している。


「お魚さんのほね・・・むずかしい~。」


和也氏、松山父、松山母はあえて絵美ちゃんに自由に食べてもらいながら、談笑しながらチラチラと見守っている。

この人たちの教育、なんか好きだな。

白石のように「私がやってあげる」感を出すと子供の成長の妨げになるし、かといって「手は出さないけどしっかり見守ってる」視線の圧を与えると、子供は委縮してできることもできなくなる危険性がある。

放置し過ぎなければ干渉もし過ぎない、この絶妙な距離感がとても良い。


(あ~、その骨はちょっとデカくて危ない!いやダメダメ、口出ししたら元妻と同じ教育になってしまう、落ち着け落ち着け・・・。)

(ははは!白石さん、肩の力抜いてー!それにしても、絵美ちゃんは豪快でいいねー!)

(大丈夫よ、白石さん!万が一魚の骨を飲み込んだら、すぐに緊急外来に電話する準備はできてるわ!)


彼ら三人は、絵美ちゃんにバレないよう視線で談笑する。

私の隣で食事をする松山はと言うと・・・おいおい、どうした?


「うわ~、上手く食べられないよ~!絵美ちゃん、頭の近くの身はどうやって食べたの~?お兄ちゃんにも教えて欲しいな~!」

「そこはねー、こうやるんだよー!」


なるほど。

あえて魚を食べるのが下手なお兄ちゃんを演じ、絵美ちゃんにお手本になってもらい、自己肯定感を上げるサポートをしているのか。

それとも、本当に魚を綺麗に食べられないポンコツぼっちゃんなのか。

そして、絵美ちゃんは時間をかけたものの綺麗に魚を食べきった。


「やったぁあああーーー!絵美ちゃんは魚を残さず食べて偉いぞぉーーー!」

「フォーーー!絵美は何でもできるぞーーー!」

「やったじゃない!絵美ちゃ~ん!」

「絵美ちゃん!絵美ちゃんのおかげで僕もお魚綺麗に食べられたよ!ありがとう!美味しかったね~!」


まるでWBCで日本が優勝したかのように、彼らは歓声を上げた。


「やったー!パパ、おじちゃん、おばちゃん、お兄ちゃん、ありがとー!」

「フォーーー!レベルアップだぜーーー!」


この家に来てから、深刻な赤山化が進む和也氏は、またハードゲイみたいな雄叫びを上げる。

皆、盛り上がってて良いな。

私はこんな場面でも、周りに順応して騒ぐことができず、いつも置いてきぼりだ。


「ママの友達もー!見ててくれてありがとー!」

「え?」

「他のみんながお天道さまなら、ママの友達はお月さまだよ!やさしく見ててくれてありがとー!」

「こ、こちらこそありがとう。それとごめん。私はもう、ママのお友達じゃないんだ。」

「え?ママの友達じゃないの?」

「うん。ごめん。」

「そっかー、じゃあおばちゃんは、私のヒーローだね!」

「ヒーロー?」

「うん!ママは悪の大王だから、ママの友達じゃないおばちゃんは、私のヒーローだよ!」

「あ、ああ、ありがと。」


絵美ちゃんは詩人のように、無口な私のことを「お月様みたい」だとポジティブに表現してくれた。

こんな褒められ方をしたのは初めてだ。

学生時代は「ぼっち」「陰キャ」「コミュ障」と呼ばれ、社会人になってからは「雰囲気ブス」「つまらない人」「ガルちゃんで悪態ついてそうな人」などと嘲笑されてきたので、私は驚いている。

褒められ耐性のない私は、T-800がぎこちなく笑うみたいな気味の悪い笑顔で応対する。


食後、和也氏と松山父がもう一勝負をしにゲーセン部屋に入り、絵美ちゃんと松山母は知育玩具で遊び始めた。

絵美ちゃんは小学二年生なので、知育玩具で遊ぶには少し大きくなり過ぎてる気もするが、もし幼少期に白石からまともな教育を受けてないとすれば、再び学び直すのも良いかもしれない。


「あんな意見もあればこんな意見もある」「一つの結論が必ずしも正しいわけではない」「皆違って皆良い」と感じてもらうことも必要だ。


私も松山に別のゲームをしようと誘われたが、三人以上のコミュニティーに長時間居るとどっと疲れる体質なので、帰らせてもらうことにした。

松山邸の玄関はオートロックなので、この家に二度訪れたことのある私は松山のお見送りを断り、一人で玄関に向かうことにした。


あ、"神田饅頭"をリビングに忘れて来た!


おそらく、明日の出勤で杉田さんは饅頭の味の感想を聞いてくるだろう。

松山に預けたはずの饅頭を私がもらってすらいないとなると、せっかく丸くなりかけている杉田が再び刺々しい杉田に戻りかねない。

私は仕方なくリビングに戻ることにした。


あれ・・・リビングの扉ってどれだっけ?

玄関は廊下の突きあたりにあって、一目瞭然だから迷わない。

しかし玄関から廊下を向くと、扉が多過ぎてどれがリビングか分からない。

前回もトイレを借りて迷ったのに、またやっちまった。


え~っと、さっきリビングから「左手側に玄関があるのを見た」から、「右手側のどれかの扉がリビング」で良いんだよな?

行く道と戻る道が反対になると方向感覚がバグるのは、方向音痴あるあるだ。


とりあえず、しらみつぶしでも良いから右手側の扉を片っ端から開けていくことにした。

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