第5話 vs.馬
目が覚めたとき、最初に見えたのは馬の鼻面だった。
「えっ、へっ、うわっきゃああああ!」
持ち込んだ数少ない荷物のひとつであるネグリジェに身を包み、ワラの香りに包まれて眠りこけていた私は、生暖かい息を顔に吹きかけられて飛び起きた。そして見えたのは馬。馬のドアップ。思わず悲鳴が出た。
「はっ、ここは!?」
屋敷の天蓋付きベッドではない。湖畔の別荘でもない。そして思い出す。そうだ、ここはシュベルトさんの家の馬小屋の片隅にある私の寝床だ。
乾燥させたワラに布を敷いてもらっただけだけれど、とにかく屋根と壁のある場所で眠れたのは幸いだった。もし宿なしで野宿でもしていた日には、早晩オオカミか野犬あたりに食い殺されて骨になっていたに違いない。
そんなことを考えながら、人懐こく鼻を寄せてくる馬の頬ずりを懸命にかわしていたら。
「あら、起きなさったね」
馬小屋の入口からネネさんが顔を出した。ネネさんは七人家族のお母さんで、かっぷくがよくて太陽のような笑顔の持ち主だ。そのネネさんの影から、娘のリリーが子ウサギのようにぴょこんと顔を出す。おしゃまなリリーは七歳、この家の長女だ。
「ミリアちゃん、お寝坊さんだあ。リリーの方が早かったき!」
「そげなこと言うたらあかん。長旅は疲れるものなんじゃからの」
飛び跳ねながらはしゃぐリリーをすかさずネネさんがたしなめているけれど、言われてみれば、昨夜はこの家の子どもたち四人に囲まれて眠っていたはずが今は私ひとりだけだ。リリーの言うとおりすっかり寝坊してしまったらしい。ワラの上に起き上がって赤面する私に、ネネさんは笑顔を向けて言った。
「なんも気にせんでええんよ、ミリアちゃん。母屋に行って朝ごはん食べなんし」
◆
この家は、私が最初に訪ねた『母屋』と隣の『馬小屋』の二軒で構成されている。昨日のひらひらドレスよりは少し大人しめの普段着用のドレス(それでも十分に派手な自覚はあったが)に着替えて馬小屋を出ると、幼い子どもたちがニワトリの卵をかごに取ったり、井戸から水を汲んだりと甲斐甲斐しく働いている姿が見えた。リリーもネネさんを手伝って木と木の間に張ったひもに洗濯物を干している。
「あっミリアちゃん」
「ミリアちゃんおはようやあ!」
子どもたちにくったくのない笑顔で元気にあいさつされて、私も会釈を返した。母屋をのぞくと、家長のシュベルトさんとナナさんが炊事場で片づけをしている背中が見える。
「あ、あの。おはよう……ございます」
「おやミリアちゃん、起きんさったかね」
「そげなとこおらんで、中に入り入り」
ふたりとも寝坊した私を責める様子もなくほがらかに返事をしてくれた。シュベルトさんがお盆にのせたパンとミルクを持ってきてくれる。
「朝ごはんやあ」
「ごめんなさい。私、寝てしまっていて」
「ええよお、子どもらと一緒じゃ寝るに寝れんくて大変じゃったじゃろ。ほい、ミルク飲みなんし」
顔の前で手を振ってシュベルトさんが笑った。ミルクは、有事の際に馬を貸す約束の代わりに、ヤギがいる家から毎日分けてもらっているのだという。カップを両手で包むとほのかな熱が肌に伝わって心地よかった。
「まだあったけえから。パンもあるき」
「黄色い……不思議なパンだわ」
「ヒエメイモで作ったパンだで」
「おイモでパンも作れるの!?」
「そうよお」
声を上げて驚く私に、三人分のお茶を入れてやってきたナナさんが笑ってうなずいた。私がパンをちぎって口に運んでいる間に、シュベルトさんとナナさんは一休みだと言って座りお茶をすすりだす。お茶には庭でとれるハーブを使っているそうだ。
「食べたら村の様子でも見ておいでね。なんにもない村じゃけどねえ」
「ナナさんたちは?」
「私らは夕方まで畑に出るけえ。何かあったら呼んでくれたらええよ」
私の分のお茶が入ったカップを目の前に置いて、ナナさんがそう言った。この家の人たちは、自分たちは朝早くから忙しく働いているにも関わらず、昨日も今日も私には本当になにも要求しない。たまりかねて私の方から聞いてしまった。
「あなたたちは、どうして見ず知らずの私にここまで親切にしてくれるの? 私、迷惑かけてばかりでなにも役に立てていないのに」
思い切って尋ねると、ふたりは顔を見合わせた。代表するようにシュベルトさんが口を開く。
「ミリアちゃん、困っとるんじゃろ?」
「え……」
「困ったときはお互い様じゃけえ、助ける理由ばそんだけで十分よ」
シュベルトさんの言葉に、ナナさんもうなずく。
「せや。難しいこと考えんと、どーんとのんびりしとったらええんよ。まだ若いんじゃけ、そのうちやりたいことも勝手に出てくるじゃろうし」
「やりたいこと……」
「せやせや」
つぶやく私に、ふたりはそろってお茶を飲みながらうなずいた。
「若い人はみんなあれこれせっかちじゃけど、もっとゆっくりでええんよ。うちは迷惑もなんにもあれへんし」
「シュベルトさん……ナナさん……」
無意識に背負いこんでいた荷物が、ばらばらにほどけて溶けていくような感覚だった。困った時はお互い様、そんなシンプルで温かくて強い言葉を私は今まで心から信じられたことがあっただろうか。陰謀、策略、罠、陰口。そんなものばかりのあの虚飾に満ちた貴族社会に。
いや、ちゃんとあったのかもしれない。ただ私が頭から馬鹿にして見ようとしていなかっただけで。
「……ありがとう」
私の小さな声に老夫婦は笑ってうなずいた。
「それに、ミリアちゃん昨日リリーと遊んでくれたじゃろ? あの子は最近ふさぎこんどったけ、あんなにはしゃいだところを見たのは久しぶりじゃったわ」
「え?」
シュベルトさんの言葉に私は驚いた。いつもあんなに明るいわけではないのかと意外そうな顔をする私に、ナナさんが寂しそうに言った。
「リリーは父親と一番上のお兄ちゃんが大好きじゃけ。ふたりが出稼ぎに行っちまってからは、いつもしょんもりして元気がないんよ」
「うちの村がもっと豊かじゃったら、家族みんなで暮らせるんじゃけどなあ」
「良かったら今日も遊んでやってねえ」
「わかったわ」
ふたりの言葉に、私は迷わずうなずいていた。
◆
ーーそれから二週間がすぎた。




