9 白くて美しい手
「待てよ」
僕は青ざめた。自分が一度も彼女に礼を言っていないことに気付いたのだ。
なんて失礼なのだろう。
動揺していたことにして明日言えばいいのかもしれないが、「命を助けてもらって礼も言わない奴」だとは思われたくない。これから夫婦としてやっていくためにも、信頼関係はきちんとしておきたい。
僕は起き上がって部屋を出て、ぱたんとしまったばかりの部屋のドアをノックした。
「何だ」
「陛下、アルヴィンです」
がさがさっと物音がして、どどっと足音がして、すごい勢いで扉が開いて、僕は思わず一歩下がる。
「どうした?さっきの飯で腹でも痛くなったか?」
「い…いいえ」
「じゃあ何だ。忙しいんだが」
「手短にいたします」
心の声を聞いてしまうのは申し訳ないけれど、お礼はきちんと目を見てしなくては。
僕は目線を彼女の眉間から、緑の目に移す。
《もしかして夜這い?ちょま、アルヴィンって見かけによらず野獣系?そのギャップはなんですかご褒美ですか?可愛い下着とか持ってきてないけど大丈夫そ?しかもリトたちも同じ宿に泊まってるから、音がみんなに聞こえたら絶対明日あれこれ聞かれて…》という妄想にまみれた声が聞こえ始める。
さっきまでの思いやりに満ちた心の声との落差がすごくて、同一人物とは思えない。けれど惑わされている場合ではない。
《でも、私の身体には…》と一瞬声が小さくなったタイミングを狙う。
「陛下に!お礼を!申し上げたくて参りました!!馬車から助け出してくださったことも、介抱して付き添って下さったことも、本当にありがとうございます!!先ほどはお礼も申し上げず、失礼をいたしました!」
何とか心の声に負けずに、言い切った。自分を褒めたい。
《なあんだ、そういうことか。まったく真面目なんだから。緊張して損したじゃん》
損させて申し訳ない気持ちも込めて、できる限り深く深く頭を下げる。
「ふん、本当にとんだ無礼者だな。顔を上げろ。礼など今更遅いわ!」
顔を上げて目が合うと、心の声が流れ込んでくる。
《ううん、本当はすごく嬉しい。ゆっくり休んでくれてたらいいのに、わざわざ来てくれてありがとう》
「本当に申し訳ございません」
何も知らない人がはたから見れば、「謝っているのに許してもらえない情けない夫」と「謝罪を受け付けない強硬な妻」に見えるだろう。内実は全然違うけれど。とにかく謝罪の気持ちは通じたようでほっとする。
「…それで、本当にどこも痛まないのか?」
「はい」
「嘘をつけ。さっき背中を痛そうにしていただろう。私に対して嘘は許さん。腕を折るぞ」
《痛いことや苦しいことがあるなら、隠さずに全部教えてほしい。だって…私はアルヴィンの…つつつつつつ妻なんだから》
それならば背中を痛そうにしていた僕の腕を折って新たな痛みを与えてどうするつもりなのだろう、僕の妻は。
「嘘ではございません。先ほど陛下に介抱していただき、温かいお食事をいただいて、痛みはすっかりとれました。陛下のおかげです」
「なっ…!?」
《私がやったことでアルヴィンが元気に?この世でやり残したことはない…我が人生に悔いなし…みんな今までありがとう…》
身体から離れて昇天しようとしている女王の魂を地上に呼び戻すべく、僕は慌てて言葉を継ぐ。
「あとその…もしお許しいただけるのであれば、陛下の傷の手当てを僕にさせていただけないでしょうか」
女王の手の甲を覆う鎧は変形していて、その下には生々しい傷がある。
馬車を破壊したときにできたのだろう。右手の傷がひどいから、左手で処置をするのは大変なはずだ。ほんの少しだけれど、お礼の言葉だけではなくて、彼女に何かお返しがしたい。
「必要ない」
女王は目を伏せて、手を背中の後ろに隠してしまった。
目を見られないと、本当に必要ないのか、変な理由で一方的に照れているのか、彼女の本音はわからない。
だから自分は引き下がったほうがいいのか、食い下がったほうがいいのかもわからない。
だけどもし、本当は引き下がったほうがいいのだとしても。
「この傷は僕を助けるため、馬車を殴り壊したときにできた傷ですよね」
「そうだ。だがお前ごときが気にすることではない」
そこは僕ごときであっても譲れない。
「いいえ、気になります!《《妻》》の白くて美しい手が傷ついたのに、何も思わないわけがありません!」




