34 拒絶
散々セリムの武勇伝に付き合って、寝室に戻ったのはもう午前二時を回っていた。
「フレイアはもう寝てるかな」
でももし寝ていなかったら…「キスの先」ができるかもしれない。
「期待しすぎるな」と言い聞かせながら、寝室の扉をそうっと開ける。
いつもの、大きすぎる寝息が聞こえない。
まだ戻っていないのだろうか。それとも寝ずに僕を待っている?
だけど目に飛び込んできたのは…
「な…っ!?」
割れた鏡。引き裂かれた緑と金のドレス。脚が折れた椅子。ベッドの天蓋を支える支柱には、剣でつけられたような傷。
フレイアの姿はない。
「フレイア…?フレイア、どこだ!!」
誰がこんなことを…?披露宴にフレイアの敵が紛れ込んでいた?
フレイアはどこだ?攫われた?無事なのか?
落ち着け、部屋に血の跡はない。怪我はしていないはず。
城兵を呼ぼうと思ったとき、「ぴちゃん」と湯殿から水音がした。
ぎりっと剣を握って、そうっと湯殿の扉を押す。
フレイアに手を出す奴は、誰であっても、殺す。
「フレイア!?」
湯船には真っ赤な顔のフレイア…だけだった。
「しっかり!」
「ん…」
布で彼女をくるんで湯船から引き揚げ、部屋まで運んで寝かせる。
呼び鈴を鳴らしてメイドを呼び、メイドが「お医者を呼んでくる!」と走る。
夜中に叩き起こされた老齢の医者は「のぼせたんじゃな」とつまらなそうに呟いて、メイドに氷嚢を用意させ、フレイアの脇にぐいぐいと遠慮なく押し込んだ。
「そんな乱暴な!もっと優しくしてください」
「あん?フレイアじゃぞ」
「フレイアだからですよ」
「わしの流儀に文句があるなら旦那がやれ。ほれ、太い血管にあるところに」と言われて、僕は氷嚢を布でくるんで彼女の太ももにそっと当てた。
「でも…のぼせるだなんて。フレイアは長風呂なんてしないのに。もしかして湯殿になにか仕掛けられたとか…」
「考えすぎじゃろう。湯からも変な匂いはせんよ」
「でも部屋も荒らされてるし…」
「賊が部屋を荒らしたなら、フレイアがゆっくり湯に浸かっているのも変な話じゃ。頭から湯に突っ込まれてるなら別じゃが」
そうはそうだ。
「旦那はまだテムを甘く見とるようじゃが、さすがに女王の周りでずさんな警備はしとらんよ。とくに今日のように多くの人間が城に来るような日にはな」
だとすれば、考えられるのはひとつ。
「フレイアが自分で部屋を荒らして、自分で風呂に浸かって長風呂してのぼせた…?」
「そんなとこじゃろ」
《まったく…夫婦の色恋沙汰で老人の貴重な眠りを邪魔するとは、罪深いわい。まあ…それも若さじゃが。かく言うわしも若い頃はハンリナと…》
「お、ちょうど目が覚めたようじゃから、あとは本人に聞いてくれ。仲裁役はごめんじゃから、わしは失礼するぞ」
「とにかくしっかり冷やせ」と言い残し、老人医師はメイドにも「巻き込まれたくなかったら下がれ」とアドバイスして、ひょこひょこ帰って行った。
布一枚にくるまれたフレイアと、そんな彼女の太ももに氷嚢を当てている僕だけが残される。
「フレイア、気づいた…?」
フレイアは僕から目を逸らした。《顔、見たくない》と、太ももに触れている手から声が伝わってくる。
今まで《目を合わせたら死にそう》《心臓発作が起こる》と言われたことはあるけど、《顔を見たくない》と言われたことはなかった。
初めての、明確な拒絶。
嫌悪すら感じる。
無理やりキスしたのが悪かった…?でも《嬉しい》《大好き》と言ってくれていたはずだ。
ならば…能力がバレたのか?だから顔を見てくれないのか?
僕ははっとする。思い当たることはある。
きっと、ウィナと話してるのを聞かれたんだ。能力に関するところは心の中で話していたはずだけど、浮かれてしまって現実の声が漏れたんだ。
そう気づいたら、世界が色を失って、空気が冷えてくる。
…終わりだ。
嫌われた。
もう顔も見てくれない。
「…ごめん。僕に触られるのは嫌かもしれないけど、ひとまずベッドまで運ばせて」
意外なほど軽い彼女を抱き上げて、ベッドに降ろす。
《早く出てって》
すうっと全身の血が下がっていく。
…僕は、フレイアに捨てられるんだ。
フレイアのそば以外、僕に居場所なんてないのに。
「氷嚢を当てて身体を冷やして…ゆっくり休んで」
「…」
僕に向けられた背中からは、何の声も聞こえない。
もうここにはいられない。すがりついたところで、彼女から化け物を見るような目で見られたら…
彼女の緑の目が嫌悪に歪むのを想像して、僕は目をつぶった。
「…さようなら、フレイア。本当にごめん」




