番外編2:ロードリック
カマル・ロードリック・ナーセルは、人の意識を僅かに自分へと傾ける力がある。そのため、子供の頃から無条件に周囲に好かれていた――
忘れもしない、生まれ故郷ハリージュ王国でのこと。
ロードリックは代々王に仕える名門の家で、近衛兵をしていた。主であり、十年来の友人でもある男は、気さくで善良な人間だ。
「ロードリック」
その妻が、鈴のような声でこちらに呼び掛ける。彼女はふたりきりの時、必ずこちらをアルヴェイン王国式の名前で呼ぶ。混血であることが貴方らしさなのだから、と言っていた。
ロードリックは膝を着き、頭を下げた。
「奥様、何かご用でしょうか」
「もう。他人行儀はやめてくださいって、いつも言っているじゃないですか。私たち、幼なじみでしょう?」
笑い声が降ってきて、ロードリックは立ち上がる。夫人は、何年経っても変わらない控えめな笑顔をこちらに向けていた。
「ですが、貴女はもう主の妻ですから」
「あら。結婚するまでは、あんなに毎日毎日綺麗だとか、好きだとか言っていたのに、ですか?」
その軽口に溶かした本音に、彼女は気付いていただろうか。
彼女はこちらに振り向かなかった。もうひとりの幼なじみである彼女の夫だけを、心から愛していた。
だから、距離を取る。彼らはロードリックのことを色眼鏡で見ず、友人として接してくれていた。
「人妻に手を出すことはしませんよ。僕はそこまで落ちぶれてませんから」
大袈裟に肩をすくめてみせる。
この関係を維持すること、それだけが望みだった。なのに、いつの間にか――いや、ロードリックが、その手で壊していた。
「……真面目ですね」
彼女の声が寂しげに曇っていたことから、目を背け続けていた。
「ロードリック、私は――」
「やめて下さい」
彼女の声を強い口調で遮る。その視線を見たくなくて、きっぱりと背を向けた。
人に好かれる体質。そんなもの、その場にいるだけで人間関係を破壊する疫病神でしかない。
都合の悪いことから目を逸らしてばかりの、自分の愚かさを嗤う。
「僕は、国を出てアルヴェインへ行きます」
離れなければ、取り返しがつかないことになる。
彼女はもう、何も言わなかった。
砂漠の国ハリージュでは、『女性がアルヴェインへ渡ると精霊に捧げられ、二度と帰らない』――そんな迷信が、今でも信じられている。
だから彼女は追いかけてこない。かつてロードリックの母がしたのと同じように、この国に残るしかないのだ。
船旅は快適だった。なにせ女性がほぼいない。船室に引きこもっていれば当たり障りなくやり過ごせた。
それが崩れたのは、長い船旅を終え、アルヴェイン王国の港町へ降り立ったときのこと。ロードリックの力に惹かれた女性に囲まれてしまったのだ。
やっとの思いで逃げ出したロードリックの前に、その人は現れた。
「貴方は、面白い力を持っていますね」
赤髪の男は、そう言ってにっこりと笑ってみせた。
*
レティシアは、ただひとりロードリックが安心できる女性だった。魔法が効かない彼女には、厄介な体質が一切効かない。それを確かめた瞬間は、本当に嬉しかった。
ロードリックの軽口に合わせるでも、乗るでもなく、冷静な言葉と態度で返すレティシア。その姿勢がどれだけロードリックを救うか、きっと彼女は気付いていない。
「ロードリックさん」
庭の手入れをしていたら、声をかけられた。顔を上げると、翠の瞳と目が合う。
ガゼボでサイラスとお茶をしていたというのに、レティシアは立ち上がって、こちらに向かって歩いてきた。サイラスがその後に続く。
「レティシア様は今日もお美しいですね。僕に何かご用でしょうか?」
いつものように口に出してしまったことを、内心焦る。レティシアはサイラスの婚約者だ。それに、今の彼女の内側には精霊がいない――つまり、魔法を無効化する体質は消えてしまっている。
何年も前の記憶が首をもたげた。縫い止められたように動けなくなる。
レティシアは、いつも通りに微笑んだ。
「お庭のこと、いつもありがとうございます。あの、今度私にもお手伝いさせてもらえませんか」
「……あ、ええ、それはもちろん……」
答えがしどろもどろになってしまう。不思議そうなレティシアを見て、サイラスが笑った。
「良かったですね」
「はい。これで、また植物を育てることができます」
レティシアがサイラスを見る視線には、誰が見ても明らかなほどのまっすぐな熱がある。彼はそれを穏やかに受け止め、同じだけの気持ちを返している。そう見えた。
レティシアの気持ちは、揺らがない。
微笑み合う姿が眩しくて、思わず目を逸らす。
「ロードリック」
今度は、サイラスから呼び掛けられた。
「明日の午後、研究室に来てくれるかな。君のピンブローチを新しいものに交換しよう」
理知的な青い瞳は、すべてを見透かすようだった。
(ああ、この人には敵わないな)
年下の主に、素直にそう思う。
「わかりました。これでようやく、僕だけをちゃんと見てくれる恋人が作れそうですよ」
つい、気持ちを誤魔化して軽口を叩いてしまう。最初はただ相手に取り入るためだったそれはもう、ロードリックという人間の一部になっていた。
ロードリックは空を見上げる。青空の彼方で、秋の太陽が明るく輝いていた。




