番外編1:クレア
クレア・エルマンは、魔力の流れを見ることができる。それは時に、相手の感情さえ見えてしまうほど強い力だった――
「クレア、これをつけてみてくれるかな」
サイラスはクレアにピンブローチを差し出した。青い薔薇があしらわれたそれは、今クレアが身に付けているものと見た目はそっくり同じだ。
目の前にいるサイラスから、温かな感情が伝わってくる。彼は優秀な魔法使いだ。普段クレアに接する時は、その感情――つまり、魔力の流れを完璧に隠している。
なのに今、サイラスの気持ちがクレアに感知できているのは、それだけ彼の感情が大きいから。
クレアは彼の隣に座るレティシアに視線を移した。穏やかに微笑む彼女がいることが、彼の漏れの原因だろう。
「わかりました」
震える手でピンブローチを受け取って、今までのものと交換する。
――瞬間、世界の在り方が変わった気がした。絶えずクレアに流れ込み続けていたものが止まり、目に見える世界がくっきりと感じられる。
ゆっくりと瞬く。景色の見え方は、変わらない。
クレアはサイラスを見た。好奇心でキラキラ輝く瞳を隠そうともしないから、彼が何を考えているかなんて一目でわかる。
「サイラス様、そんなに結果が気になるんですかー?」
あえて呆れたように言ってみる。サイラスは眉根を寄せた。
「まさか、失敗か? セレストにも協力してもらって、理論上は外からの魔力を遮断できているはずだが……」
真剣な顔で考え込むサイラスに、レティシアが笑いかけた。その表情には隠しきれない思慕が滲んでいる。
「サイラス様、違いますよ。全部顔に出ていました」
「え? ああ、そうか」
サイラスは慌てて真面目な顔を作ったものだから、クレアは思わず吹き出してしまった。
「成功、してると思います。今はもう、内面は何も読み取れません」
「そうか……!」
サイラスは心底嬉しそうに、一緒にピンブローチを開発したレティシアと顔を見合わせていた。二人きりじゃないというのに、いつの間にか手を握りあっている。
そんな風にいちゃついていても、サイラスの気持ちはもう読み取れない。
初めての『わからない世界』に、クレアは安堵の息を吐いた。
*
クレアは貧乏な子爵家に生まれた。家族は感情を言い当てるクレアを不気味がり、家の中でずっとひとりぼっちで過ごしていた。
利用価値があるとほくそ笑んだ母親に、さる侯爵家の令嬢の侍女として奉公に出されたのが14歳の時だった。
母はきっと、クレアが能力を使って令嬢に気に入られ、侯爵家とのコネを作ることを望んでいたのだろう。
それは実際、2年ほどは上手くいっていた。クレアは令嬢の気持ちも、周囲の気持ちも、完璧に読める。だから侍女の中で、クレアが最も令嬢に重宝されていた。
令嬢が王太子ハワード殿下の婚約者に選ばれたことで、風向きは大きく変わった。彼女は妃教育のため、愛する人のため、身を削るようにして努力を始めた。
その様子に、クレアは心を痛めた。殿下は彼女を心から愛している。クレアはそれをはっきりと知っていた。
けれど令嬢は彼の愛を信じられず、相応しい者であるようにと励み続けていた。
表向き平静を装っていたけれど、彼女は疲れきり、休みたいと思っていた。だから――
「そんなに、頑張らなくてもいいんですよ」
そう、言ってしまった。
彼女に寄り添う言葉を告げたつもりだった。クレアの言葉を聞いた令嬢の顔から、笑顔が消えた。
「……貴女だけは、応援してくれると思っていたのに」
失敗したと思った。心を読めるから、表向きの感情に囚われていた。その奥に隠された彼女の不安や恐れに、気付けなかった――
言葉を失ったクレアに、彼女ははっと息を呑んだ。
「ごめんなさい。貴女に酷いことを言ってしまいました。忘れてください」
そう言われても、もうクレアには何と返すのが正解なのかわからなかった。ずっと人の顔色を伺って生きてきたことに、今さら気が付いた。
クレアは荷物をまとめ、その日のうちにお屋敷を辞した。実家には帰れない。行く当てもない。
空っぽなまま、裏門から屋敷を出た。
そこに、その人は立っていた。暗い赤髪に青い瞳が印象的な、身なりの良い男。
「クレアさん、ですよね。ハワード殿下経由で、ここのご令嬢から貴女のことを頼まれました、サイラス・ティンバーです」
「……ティンバー公爵様……?」
変わり者公爵の噂は、クレアにも聞いたことがあった。魔法の研究が大好きで、魔法的な体質を持つ人間を『拾って』回っていると。
知られていたのだと、ここで初めてわかった。心を読めることを隠しきれていると思っていた、自分の愚かさに涙が浮かびそうになる。
思わず、屋敷を振り向く。自分が出てきたそこに令嬢が立っていて、目が合ったクレアに微笑みかけた。それから、彼女はサイラスに向かって頭を下げる。
「クレアさん、その体質、一緒に治してみませんか」
優しく声をかけられ、クレアはサイラスに向き直った。彼の感情は見えにくい。けれどそこに純粋な好奇心が宿っているのだけは、はっきりと伝わってくる。悪意は、きっとない。
もしもこの体質が何とかなるのなら、普通の人と同じように相手とやり取りができるのなら、彼に託してみたいと思った。
なにより、それを望んでくれている人がいる。
「……はい。よろしくお願いします」
だからクレアは、彼の手を取ることにした。
*
「成功して、本当に良かったです」
夜、自室となった客室に戻ってから、レティシアは心底嬉しそうに笑みを浮かべた。
「レティシア様……こちらこそ、ありがとうございます」
そう言って、深々と頭を下げることしかできなかった。
クレアには、魔力がないレティシアの感情は最初から全く読み取れなかった。彼女には自分の処世術が通用しない。だから、彼女と接するのは実はとても緊張していたのだ。
レティシアは、多分気付いていない。
レティシアとのやり取りを通して、クレアは人との付き合い方を知った。彼女と出会えなかったら、完全に自分の体質を抑える勇気は持てなかったかもしれない。
クレアの恩人であるレティシアは、寂しげに目を伏せた。
「でも、体質が治ったから、クレアさんは出ていってしまうでしょう? それが、少し悲しいと思います」
レティシアの発言に、クレアは目を丸くした。
「そんなこと、しませんよ!」
「え? でも、クレアさんは体質を治しに来ていたのですよね?」
「きっかけはそうですけど……でも、私はレティシア様と離れたくありません!」
クレアの主張にレティシアは息を呑んで、それからへにゃりと力の抜けた笑みを見せてくれた。
「良かった……私も、クレアさんと一緒がいいですから」
その笑顔を見て、クレアの胸がじわりと熱くなった。
読めないからこそ、ひとつひとつの言葉を大切にする。それが、クレアの新しい処世術だ。




