59:18歳の誕生日
18年前――
サイラスは両親に「勉強に集中したいから」と言って部屋から人払いをし、魔法を使って窓から脱走した。
行き先はもちろん、大聖堂だった。
エヴァンは毎日午前中の間だけ、大聖堂を訪れていた。
毎回、魔法で口説き落としたという奥方と、生まれたばかりの女の子を連れている。その妻が教会のお偉方に呼ばれているらしく、彼女たちが用事を済ませている間、エヴァンはサイラスに魔法を教えてくれた。
エヴァンは結婚するまで、精霊教会所属の精霊研究者だったらしい。それ故の知識や人脈、高度な魔法の腕――どれも誇るべき優秀な男であるはずなのに、彼はそれをひけらかすことは決してなかった。
エヴァンがサイラスに教えたのは、自動で本のページを捲る魔法だとか、手の中でぱっと花を咲かせる魔法だとか、そんなものばかりだった。
「気になる女の子ができたら、これを淹れてみるんですよ」
そう言いながら、エヴァンは例のお茶を淹れる魔法も教えてくれた。正直、女の子の話は余計だと思った。
エヴァンとそうやって過ごしたのは、たった一ヶ月ほど。
その日、エヴァンはサイラスを暗い表情で出迎えた。その隣に並ぶ彼の妻は、泣き腫らしたような顔をしている。腕に抱かれた金髪の女の子だけが、無邪気に笑っていた。
「サイラスくん、申し訳ないのですが、君に魔法を教えるのはこれで終わりです」
その声色からエヴァンも本当はそうしたくないのだとわかって、サイラスは黙って頷いた。
「僕の娘が、このままでは成人するまで生きられないのだそうです」
重い宣告に、サイラスは弾かれたように女の子を見る。彼女は何も知らず、エヴァン譲りの翠の瞳を煌めかせてサイラスに小さな手を伸ばしていた。
指を差し出すと、強く握られた。女の子がきゃっきゃと笑う。その手を優しく撫でてから、サイラスは彼女から一歩、距離を取った。
「僕は娘に生きて欲しい。だから、妻と故郷に戻り、魔法の研究を続けたいのです」
「……はい。大丈夫です」
本当は、もっと彼から魔法を学びたかった。だけどエヴァンは自分の決めた道を歩こうとしている。その邪魔をすることはできない。
「君に、これを託します」
エヴァンが差し出したのは、彼が使っていた魔道書だった。子供には重すぎるそれを、サイラスは両腕でしっかりと抱える。
「それでは。短い間でしたが、楽しかったですよ」
エヴァンは妻を連れて大聖堂を去っていく。扉が閉まり、彼の姿が見えなくなっても、サイラスはそこにひとり佇んでいた。
結局、彼に自分の家名を伝えることは最後までできなかった。ただのサイラスとして、ここに居続けた。
そしてエヴァンもまた、自分の姓を名乗らなかった。それはきっと、互いに同じ理由だったのだろう。
受け取った魔道書に目を落とす。古そうなのに、汚れや傷は一切ない。大切に使われていたことがよくわかる。
それを抱え直して、託されたものの重みを実感した。
貴方のような、誰かの笑顔のための魔法使いになりたい。
祈りにも似た想いが、サイラスの中に残された。
だから。
魔法のお茶で初めての笑顔を見せてくれた女性は、いつの間にかサイラスの、たったひとりの大切な人になった――
*
サイラスの話を聞き終えたレティシアの目から、ひとつの煌めきが溢れた。
「サイラス様……」
指先で流れ落ちるそれを拭って、レティシアは息を吸う。声が震えないように、お腹に力を込めた。
「その女の子は……ネックレスを、持っていませんでしたか」
「え? それ、は……」
サイラスが動きを止める。彼は信じられないものを見るように、レティシアを、胸元のネックレスを、黙って見つめた。
「そう、彼女はネックレスを……瞳の色と同じものを、つけて……」
言葉が、途切れる。固まっているサイラスの手を取って、自分のネックレスへと誘導する。柔らかな光を放つそれを確かめるように、恐々とサイラスが輪郭をなぞる。
「お父様の名前は、エヴァン・オルコット。お母様と結婚する前は、教会で精霊研究の仕事をしていたそうです」
気付けば、レティシアは彼の腕の中にいた。小さく体を震わせる彼の背を、そっと撫でる。
「貴女は、生きていますね」
「……はい」
彼に身を預けながら、告げた。お互いの心臓の音が重なり合い、境目がわからなくなる。
「俺は、彼のような魔法使いになれるでしょうか」
辺りはずいぶんと明るくなり、夜明けが近付いていた。今にも山の稜線から、太陽が顔を出しそうなくらい、東の空は美しい朝焼けに彩られていた。
「はい、きっと」
レティシアは微笑みながら、頷いた。
ふたりで執務室に戻り、描いてあった魔法陣の上に移動する。レティシアは反対側に立つサイラスを見上げた。
彼の背後にある窓から、光が室内へと差し込んでくる。
それを認めた瞬間、レティシアの中で何かがざわめいた。胸元から見えないものが飛び出し、再びレティシアの中に還ってくるような、奇妙な感覚。圧倒的なまでの大きな存在に、レティシアは押し潰されそうになる。
「サイラス様っ!」
レティシアが声を上げると、サイラスは黙って頷いた。彼が持つ魔道書から、魔法が発動する。彼の体が傾ぎ、表情が険しくなった。
レティシアも魔法を発動させる。父の魔石から力を集め、それをサイラスへと注ぎ込む。
ふたつの魔法が合わさり、ひとつの大きな光となり、執務室に満ちる。膨大な魔力と輝きに、レティシアは何も見えないし、何も聞こえなくなる。それでも、自分と共にあったもうひとつの存在が、少しずつ離れていくのを感じる。
身を切られるような痛みが心を貫く。
(でも、大丈夫)
自分で選んだ道を、一緒に歩いてくれる人がいるから。
(セレスト。ずっと一緒にいてくれて、ありがとう)
声を出さずに、心の中で自分の片割れに話しかける。もう彼女の声は聞こえないけれど、レティシアの中には確かに、セレストの想いが残っている気がした。
魔法の光が薄れ、消える。魔法陣は消失し、それを形作っていた魔石も力を失っている。
レティシアが目を開けた時、すぐにサイラスと目が合った。先ほどまで魔法陣の中央だった床に、金髪の少女が倒れているのが見える。目が閉じられているが、その胸は規則的に上下する動きを繰り返していた。
「サイラス様」
自分が自分であることを確かめるように、レティシアは最愛の人の名前を呼んだ。
「レティシアさん」
朝陽を背負いながら、サイラスは微笑む。
「生まれてきてくれて、ありがとう」




