58:魔法
理論上、準備はすべて整っていた。
セレストとレティシアを隔てる核があり、器となり得る精霊の涙がある。
父の集めた魔石を引っ張り出してきて、魔法陣を描くためにセレストの指示通りに並べた。
あとは、その時――夜明けを待つばかりだ。
「少し、話しませんか」
サイラスに手招きされて、レティシアは彼に続いて執務室からテラスへと出た。
夏の終わりの、ひんやりとした夜の空気に包まれる。オルコット家の中庭、そしてその外側に広がる王都の町並みは、まだ暗闇の中でまどろんでいる。
「レティシアさん」
名前を呼ばれて、肩をそっと抱き寄せられた。距離が急速に縮まって、レティシアの心臓はわかりやすく跳ねる。
「寒いですからね」
照れ臭そうに言ったサイラスが、空へと目を向けた。空からは星が消え、東の空が少しずつ明るくなり始めている。
「手紙、ありがとうございます」
心当たりがなくて、レティシアは首を傾げる。サイラスは笑って、胸ポケットから1枚の紙を丁寧に取り出した。
「あ、そ、それは……」
レティシアは真っ赤になって俯く。
「書きかけ、なんです……」
本当は、仕上げてから置き手紙として残してくるつもりだった。けれど夜が明けてしまって、書きかけのまま放置されてしまったのだ。
「それに、もう必要ないですよね。捨ててください」
「嫌です」
サイラスはレティシアが制止するより前に、書きかけの手紙を大事な宝物のように丁寧に畳んで、しまい直してしまった。
「貴女のおかげで、恩師との誓いを破らずに済みました」
魔道書の表面を、長い指でそっと撫でる。
「ティンバー家は、代々魔法に長けた家系です。その跡取りとして、俺はずっと立派な魔法使いになることを期待されていました」
レティシアが知らなかった、サイラスの過去。言葉を紡ぐ彼の表情には、何の陰りも見当たらない。
「それが重くて、家出をしたんですよ。……といってもただの子供に行く当てなどあるはずもなく、最終的に俺がたどり着いたのは、精霊教会の大聖堂でした。そこで、祈っていた彼と出会ったんです」
サイラスの手に力が入る。レティシアは何も言わず、ただ彼を見上げ続けていた。
*
まだ年端もいかない子供が、ひとりで聖堂を訪れたことに疑問を抱いたのだろうか。
「どうしたんですか」
その人は屈んで、サイラスと目を合わせた。家を脱走するために平民と同じ格好していた『ただのサイラス』を、彼だけが対等に扱ってくれた。
そんな彼の柔和な雰囲気に呑まれて、
「魔法の勉強しろってうるさいから、家から逃げたんです」
サイラスは視線を逸らしながらも、気付けば素直に答えていた。
「……そうでしたか」
彼は子供の言葉を否定せず、ただ微笑みを深めた。
「少し、喉が乾いてしまいました。お茶を飲むことにしましょう」
彼は立ち上がって、勝手知ったる様子で聖堂の奥へと歩いていった。途中で足を止め。ちらりとこちらを振り向く。ついて来いと言われた気がして、サイラスは彼の後を追いかけた。
彼は聖堂に併設されている聖職者たちの食堂へ、迷わず入っていった。中にいたシスターたちが「エヴァン様」と彼に呼びかけたから、サイラスは彼の名前を知った。
エヴァンは勝手知ったる様子で厨房に入り込み、手にした魔道書を構えた。ふわりと茶器が宙に浮かび、ひとりでにお茶を淹れ始める。
――魔法。
サイラスが息を潜めて見守る中、あっという間に、この場にいる人数分のお茶が出来上がった。
「まあ、エヴァン様ありがとうございます」
シスターたちが楽しげに笑う。
エヴァンの魔法とその笑顔に、サイラスの中で何かが崩れる音がした。
ずっと、魔法とは義務であり、活用しなければならないものだと思っていた。それが公爵家嫡子としての正しさだった。
だけどエヴァンは違う。サイラスに魔法のすごさを見せびらかしたいのなら、派手な魔法を見せればいい。お茶が飲みたいのなら、手で淹れればいい――
慣れた様子でお茶を受けとるシスターたちを見ていたら、自分にもカップが差し出された。
「ありがとう、ございます……」
戸惑いつつもそれを受け取り、エヴァンを見上げる。彼は人の良さそうな笑みを浮かべて、自分のカップの中身を飲み干した。
「さすがエヴァン様、今日もとても美味しいです」
「ふふ、奥方に振り向いてもらうために毎日一生懸命練習していたこと、今でも昨日のことのように思い出せます」
次々と、シスターたちがエヴァンに声をかける。ここには温かさと笑顔が満ちていた。
「そうですね。いつか娘にも振る舞いたいですから、今でも練習は欠かしていませんよ」
苦笑いを浮かべながら返したエヴァンに、ますますシスターたちの雰囲気が明るくなる。
(この人は……)
魔法で、人の心を動かすことができる人だ。新しい風が、心の中に淀んでいた気持ちを吹き飛ばしていく。
「あの……俺に、魔法を教えてもらえませんか」
気付いたら、エヴァンの服の裾を握って、そう呟いていた。そんな言葉が出たことに、自分でも驚いていた。
*
サイラスの語りがそこで一度、途切れる。
レティシアは口を開きかけて、閉じた。彼の物語を、彼の言葉で聞きたいと思った。
東の空に、赤い色が混ざり始めていた。




