54:たとえ、失ったとしても
メルヴィンを帰らせたサイラスは、主がいなくなったレティシアの部屋を訪れていた。甘い花のような香りが、ふわりと優しくサイラスを包む。
部屋は、あの朝のまま、何一つ変わっていなかった。
部屋にあるのは元々の調度品くらいで、彼女の息遣いはほとんど残っていない。
サイラスは迷わず、テラスへと向かった。その片隅に、植木鉢がちょこんと置かれている。ほんのりと色付いている蕾が、レティシアが確かに存在していたことを物語っている。
譲れないと思っていた。レティシアを失うことなど、考えたくもない。だからセレストを消滅させる魔法を編み出した。そこに迷いはない。
なのに、この部屋にいるとひどく不安になった。彼女を『救う』ことは、彼女を傷つけること。それは本当に間違っていないことなのかと、心の中で問いかけてくるもうひとりの自分がいる。
(結局、メルヴィン殿下のことをとやかく言える立場ではないな)
蕾を眺めながら自嘲する。サイラスと彼は何も変わらない。レティシアの意思を無視して、自分のやりたいようにしている――
堪えきれなくなって視線を逸らした先、目に飛び込んできたのは、机の上に出しっぱなしの筆記用具だった。他は綺麗に整理整頓されているのに、それだけは無造作に置き去りにされている。
机の下には、紙が一枚落ちている。
手を伸ばしたことに、特に理由はなかった。ただ彼女の残り香のようなそれに、触れたかっただけ。
拾い上げて、ひっくり返す。
『サイラス様へ』
一番上にその文字列を見つけて、サイラスの手が小刻みに震えた。レティシアらしい丁寧な文字が、その下に続いている。
『長い間、お世話になりました。貴方が私を想ってくれていることは、とても嬉しい……でも、私はどうしても、自分の気持ちを裏切ることができないのです』
悩みながら書いたのか、所々にインク溜まりがある。
『それが私の我が儘であることは承知しています。それでも、私は貴方が好きです。貴方に笑っていて欲しい』
「……本当に、貴女はひどい人ですね」
呟いた声は、誰にも届かずに静寂に消える。
「貴女がいない世界で、どうやって笑えと言うんですか」
問いかけても、返事はない。彼女は決して答えをくれない。滲みそうになる視界を瞬きで誤魔化して、サイラスは続きへと目を向ける。
『貴方が、貴方らしくいられることを願っています。ずっと』
息が、止まった。その一言が、重くサイラスの胸に突き刺さる。
既に乾ききっている文字を、サイラスは指でそっとなぞった。何度も、繰り返し。手紙はそこで途切れている。余白は半分以上ある。その先に、彼女は何を書こうとしていたのだろうか。
見えない文字が、見えるような気がした。
「レティシアさん……」
会えない人の名前を吐き出す。
彼女はまだ、魔法を信じるサイラスを愛し、守り続けてくれている。
それが伝わってきて、サイラスはただ立ち竦んだ。
「俺は……」
もう一度、最初から最後まで手紙に目を通した。
大切な人が遺した想いを、サイラスが受け止めなくてどうするというのだろう。
開け放たれたままの窓から、風が吹き込む。
レティシアの手紙を、潰れないように優しく抱く。不思議と、彼女の温もりを感じるようだった。胸の奥に灯る熱が、サイラスの心を揺さぶり、突き動かす。
彼女が好きで、一緒に生きていきたい――そんな風に綺麗に飾り立てた愛を振りかざし、自分が耐えられない未来からは目を逸らしていた。
「貴女が俺を信じてくれるのなら……」
脳裏にレティシアの顔が浮かぶ。
魔法のお茶を出して、彼女が初めて微笑んでくれた――あの笑顔を、見たいと思った。これからもずっと、隣で。
その未来が何よりも欲しい。
「その気持ちに、応えたい」
呟いて、それが自分の気持ちが嘘偽りのない言葉であると確かめた。
間に合わないかもしれない。レティシアが死んでしまうかもしれない。
そう思うと背筋が凍るような思いに囚われる。それでも、探したかった。レティシアも、セレストも、両方が生きる奇跡のような手段は――彼女の笑顔を守る道は、きっとある。
だって、魔法の可能性を信じているから。
「ロードリック」
レティシアの部屋を飛び出したサイラスは、仕事中のロードリックを呼び止める。
「おや、良い顔ですね」
「早急に頼みたいことがある」
ロードリックの軽口を流し、用件を伝える。彼はふざけた態度を瞬時に切り替え、深く頷いた。
「オルコット夫妻の事故を、調べ直してもらうよう手配してくれ」
「10年前の? あれは、純然たる事故だったと結論が出ていたはずですが」
ロードリックは眉をひそめる。こんな状況で何を言っているんだと、そう言いたげな視線だった。
10年前、レティシアの両親が領地から王都の屋敷に戻ってくる際のこと。荒天の中、馬車ごと崖崩れに巻き込まれてふたりは亡くなっている。レティシアはひとり王都の屋敷で留守番をしていて無事だったと聞いていた。
伯爵夫妻の事故だ、国から信頼できる調査員が派遣され、人為的な事故でないことははっきりしている。その事故の調査にティンバー家からも人員を貸し出しているから、改竄された可能性もない。
「そう、あれは事故だ。だけど、なぜ夫妻はあの日、あの道を通っていたのか、それが気になる」
サイラスの言葉に、ロードリックは息を呑んだ。
夫妻は大回りになる街道ではなく、道のりは短いが整備が追い付いていない峠道を進んでいた。その理由を、調査隊は『王都に残してきた一人娘が心配だったからではないか』と推測していたが――
レティシアのネックレスの裏に刻まれたメッセージ。両親を愛し慕うレティシアの姿。
それらを見れば、オルコット夫妻がどれだけレティシアを愛していたかは手に取るようにわかる。その夫妻が、レティシアが死ぬとわかっている状況を知った上で放置するとは、サイラスにはどうしても思えなかった。
「レティシアさんを救う方法を、ふたりは見つけ出していたのかもしれない。だからふたりの足取りを調べたい。クレアとセシルにも協力してもらってくれ。彼らの力は、必ず活用できるはずだよ」
「わかりました。急ぎます」
ロードリックは返事だけ残し、足早に立ち去る。サイラスもまた、王都の残っている事故の調査記録を洗い直すために動き始める。
レティシアと、未来を掴むために。




