51:帰宅
レティシアは深く息を吸って、目の前にある建物を見つめた。見慣れた正門、整えられた庭、その奥に佇む大きな建物――レティシアが出ていった時と何一つ変わらず、オルコットの屋敷はそこに存在していた。
(あの時は、こんな風に戻ってくるなんて想像もしていなかった……)
胸を過る痛みからは目を背けて、レティシアは屋敷へと一歩だけ、足を踏み出した。
「何者だ?」
正門を守る衛兵が、近寄ってきたレティシアを訝しむ。高圧的な態度に思わず後ずさりそうになるけれど、全身に力を入れて逃げ出したい気持ちを押し殺す。
「……レティシアです。叔母様にお話があって帰ってきました。通して頂けませんか」
表面上は、淡々と返す。胸元のネックレスを軽く持ち上げてみせると、衛兵はさっと顔色を変えた。
「……役立たずのお嬢様が、今さら戻ってきたのか」
わざと聞こえるように呟かれた言葉。それは確かに事実だけれど、レティシアには価値があると、一から教えてくれた人がいる。だからレティシアは毅然とした態度を崩さず、真っ直ぐに彼を見据えた。
こちらを睨んだまま、衛兵はしばらく動かなかった。ここで逃げれば、かつての自分と何も変わらない。そう思って、レティシアは目を逸らさなかった。
やがて、衛兵は緩慢な動きではあったが、正門を開けてくれた。
「ありがとうございます」
レティシアは言葉を残し、屋敷の敷地へと足を踏み入れた。庭師が、メイドが、凍りついたようにレティシアを見据える。誰も声をかけようとはしない。遠巻きに眺め、ひそひそと何かを囁き合うだけ。
前を見て歩くレティシアの前に、小柄な人影が立ち塞がる。
「レティシアっ!」
視線の敵意を隠そうともしないのは、従妹のドリス。レティシアを睨みながらも、その意識がネックレスに向いているのはすぐにわかった。
ネックレスを奪われる時の感覚が鮮やかに甦って、レティシアは僅かに顔をしかめる。いつでも身を守れるように、自身の内側にいるセレストが身構えるのを感じた。
「ドリス……」
「何をしに、戻ってきたの。ここは私の家……もう、私の居場所よ」
ふわりと風が吹いた。林檎の甘い香りが漂う。それを振り払うように、ドリスは頭を振った。
「あの頃とは違うのよ!」
ドリスは荒々しい言葉をぶつけてくる。その瞳の奥に、レティシアはかつての自分自身と似た恐怖の色を見た。
「叔母様に会いに来ました。私は、精霊セレストを目覚めさせたいと思っています」
ドリスの表情が凍り、小さく息を呑む。
「叔母様はどちらにいますか?」
レティシアの言葉に、ドリスは俯いた。細い肩が小刻みに震える。
「冗談じゃ、ないわよ……」
呻くような声が、彼女から漏れた。
「あんた、死ぬのよ!? わかってるの!?」
「……はい。例え私が死ぬとしても、守りたいものがあるんです」
ドリスが強く握りしめた手の平から、ぽたりと涙のように溢れたものがあった。
「なによ、それ……ふざけないでっ!」
顔を上げたドリスに、きっと睨まれた。彼女の表情は、痛みと絶望で歪んでいる。
「そんなの、また、お母様が……」
震える、小さな声。聞かれたくなかったであろう独白は、レティシアの耳に届いていた。
手から流れ出た赤いものが、彼女のドレスに点々と染みを作る。
『……レティシア、私に少し、体を貸して頂けませんか』
自分の内側で、セレストの声がする。レティシアが了承すると、ふっと意識が体から遠退いたような感覚がした。意識こそ失っていないけれど、自分の意思では指先ひとつ動かすことができない。
セレストは黙ってドリスに近付き、赤く濡れたその手を取った。軽く治癒魔法をかけると、傷はみるみるうちに塞がる。
(セレスト……)
『彼女も、私の被害者ですから』
平坦な声で、セレストが言う。魔法が終わるのと同時に、レティシアは体の主導権が戻ってくるのを感じた。
それを確かめるように、目をぎゅっと閉じて、開く。目の前にドリスの姿がある。
「何事ですか」
硬直しているドリスの背後から、凛とした声が世界を割った。ドリスの息が止まり、目が見開かれる。呆然と成り行きを見守っていたメイドたちが、慌てて頭を下げた。
悠然とした足取りで姿を現したのは、人形のように整いすぎた美しさを持つ女性。
「レジーナ叔母様……」
彼女がそこに在るだけで、レティシアの心がざわりと揺れる。
レジーナは呆然としたままのドリスと、彼女の手を取るレティシアを見て、ゆっくりと頷く。それから、唇の端ににっと微笑みを浮かべた。
「レティシア、ついに魔法を使えるようになったの。セレスト様との融合が進んでいるなによりの証ね」
歌うように弾んだ声が、この場をたちどころに飲み込む。誰もが、レジーナの言動に注目している。
レジーナはまた前に進み出て、ドリスからレティシアの手を奪い取った。この上なく大切なものに触れるように、白い指で優しく包み込む。
「よくやったわね。さすが、お姉様の娘だわ」
レティシアを通して、別の人を見ている。そんな視線に、ぞわりと悪寒が走った。
「お母様……!」
声を上げたドリスに、レジーナは温度のない眼差しを向ける。大袈裟なくらいのため息に、ドリスはびくりと体を震わせた。それでも、ドリスは視線を決して外さない。
「何か用?」
冷たく、打ち捨てるような響きだった。
「っ! いつもいつも、レティシアばっかりお母様に構われて! 貴女がちょっと先に生まれたからって!」
言いたいことだけを早口でまくしたて、彼女は背を向けて走り出す。
「あの子にも困ったものね」
レジーナはその背を見送ることなく、眼差しはレティシアだけに注がれ続けている。レティシアはただ、目を伏せた。
「よく、帰ってきてくれたわね。とても嬉しいわ」
レジーナが頭を撫でてくる。身を引きたい衝動にかられながらも、レティシアはただ黙って耐えた。
「お茶にしましょう。レティシアも、聞きたいことがあるのではない?」
レジーナの妖艶な微笑みを見つめ返して、レティシアは大きく頷いた。




