49:いつか見た夜明け
レティシアと共に城を訪れた日の真夜中。
サイラスはここ最近の日課になっている、レティシアの部屋前の見張りをしていた。
手にはいつもの魔道書。暗闇に沈む屋敷の廊下に、サイラス以外の人影はない。
(レティシアさん……)
大切な人の名前を、想っても口に出すことはできなかった。自分にはもう、その資格がない。
レティシアがサイラスを想っているからこそ、セレスト消滅に同意しない。それは、痛いほどにわかっていた。
(だからこそ、俺も譲れはしない)
手の中にある魔道書に目を落とした。ページのあちこちに、子供の字でつたない脚注が記されている。
18年近く前の自分が記した文字を、そっとなぞる。
恩師から魔法を学んだ日々は、短くとも充実していた。そこで学んだ、魔法が秘める無限の可能性。きっと今この時のために、サイラスは研究を続けてきたのだろう。
誰よりも大切な人を、絶対に救ってみせる。
そんな決意を秘めた視線の先、レティシアの部屋の扉が、ゆっくりと開かれた。
「セレスト」
固い声で呼びかける。
精霊セレストはレティシアの姿で、サイラスに向かって頭を下げた。寝間着ではなく、白いワンピースを身に纏っている。耳元には、サイラスがレティシアに贈ったイヤリングが輝いていた。
セレストの表情はいつもとどこか違う――緊張のようなものが混じっている気がした。
「……まだ起きていましたか。レティシアに、何かあったのですね」
セレストの言葉に、サイラスは唇を噛む。
セレストはレティシアの『感情』を把握していた。その事実が示すものは――ふたりの同一化が進んでいるということに他ならない。サイラスは、大切な人の死を強く意識した。
時間がない。
「貴女を消滅させようと言ったら、反対されてしまいました」
「……そう、ですか」
セレストは痛みを堪えるように俯いた。胸元の『精霊の涙』は淡く輝いている。
「でも、良かった。サイラスさんは、私を殺すことに賛成なのですね」
「はい。レティシアさんの命がかかっているので」
迷わずに言いきった。セレストは弱々しく微笑む。
「私も、器になってしまった巫女たちを殺したくはなかった……だけど歴代の巫女たちには、誰も助けてくれる人がいなかったのです。だから彼女たちは、何も知らないまま――18歳で死にました」
サイラスは隠し部屋で見た古い記録のことを思い出した。巫女となる女性は素性不明で、いきなり18歳で御披露目されていた。きっと、彼女たちは聖職者たちに囲われ、セレストの器という扱いしかされてこなかったのだろう。
「レティシアは巫女ではありません」
強く、否定する。レティシアを、彼女たちのように死なせはしない。
「はい。私も彼女を死なせたい訳ではない。だから、貴方に私の殺し方を伝えます」
セレストは一歩、サイラスから距離を取る。
「レティシアから、巫女の条件を奪うこと、です」
告げられた言葉に、サイラスの顔色が変わる。
巫女の条件。
生涯未婚であること。それは、つまり。
「俺とレティシアさんが結ばれればいい……そう言いたいということですか」
セレストは黙って頷く。
(それ、は……)
一瞬頭を過ってしまった、甘美な妄想。頭を振ってそれを振り払う。
「できる訳がない」
理性で口にした言葉は、震えていなかった。それに安堵する。
そう、できる訳がない。そんなことをすれば、レティシアは絶対に悲しむ。彼女を大切にしたい。
だけど、彼女は死なずに済む――
「他の方法を探します」
強い口調で宣言し、流れそうになる思考を引き戻す。彼女を生かす、その目的は変わらない。
死にたがっているセレストを消滅させて、生きたがっているレティシアを生かす。それでなんの問題もない。
そう、思うのに――城で見たレティシアの表情が、目蓋の裏に焼き付いたようで、離れない。
「そんな方法が存在するかもわからないのに、ですか」
「探します。精霊も生物だから、消滅させる方法はあるはずです。レティシアさんを死なせない。絶対に」
セレストは真顔でじっと見つめてきた。踊るような足取りで、こちらに近付いてくる。
「貴方がそういう人だから、レティシアは貴方に惹かれて止まないのでしょうね」
セレストの語り口に、ふと違和感を覚えた。
なぜ、彼女は世間話のようなことを言って、会話を引き伸ばす?
些細なそれが気になって、思わず魔道書を掴む手に力が籠る。
彼女が近付くと共に、圧倒的な圧力を感じる。セレストは本当に人の理とは違うもの――精霊なのだと、すべてを圧倒するほどの魔力が物語っている。
セレストは躊躇いがちに、視線を伏せた。その仕草が、レティシアによく似ている。
「サイラスさん。……失礼します」
名前を呼ばれると同時に、がくりと体が脱力する。立っていられず、床に膝をついた。それでも魔道書は手放さない。思考が霧の中にいるように白み、遠ざかる。
「セレスト、貴女は……」
気力で顔を上げる。魔法だ。対象を眠りへと堕とす、失われたはずの禁忌の魔法。
事も無げにそれを使いこなした精霊は、哀しそうに微笑んだ。
「すみません。私はレティシアの味方です。彼女が私の生を望んでくれるのなら、それに応えたい……」
「……っ! そのために、彼女が死ぬとしても!?」
叫ぶ。セレストの表情は変わらない。彼女はもう、己の道を決めてしまっている。
サイラスは震える手で魔道書を構えた。セレストの魔法に抗うための魔法を放つ。普通の人間の魔法ならば一瞬で跳ね除けられるはずなのに、効きが悪い。出力を上げた。
少しずつ、手足に力が戻ってくる。
「……すみません。それでも私は、レティシアの味方であることを選んだのです」
セレストの言葉は、決しておざなりなものではなかった。
セレストはさっと踵を返し、レティシアの部屋へと駆け込む。立ち上がれるまでに回復したサイラスも、その背中を追いかける。
レティシアの部屋の中には、爽やかな風が吹いていた。机の上に置かれていた紙が、風に流されて床に落ちる。
南側、バルコニーに面した側の窓が大きく開けられていた。
いつか見た暁の空は、深い青から朱へと移り変わっている。その下で、ひとりの少女が背を向けていた。足音に気付いたのか、彼女が振り向く。
「サイラス様」
彼女が微笑む。美しい金髪が風に靡き、朝陽に煌めく。彼女の翠の瞳は、真っ直ぐに、サイラスだけを見つめている。
サイラスが特別だと思った、ただひとりの女性。
「レティシアさん……」
名前を呟くと、彼女はほんの少しだけ頬を赤く染めた。それは間違いなく、愛しい相手を前にした時の反応。
ここにいるのは、間違いなくレティシアだ。
サイラスの唇からため息が漏れた。
「最後に、お会いできて良かった」
はにかむ笑顔で、レティシアが告げるのはお別れの言葉。
サイラスは走った。彼女へと手を伸ばす。その手は虚しく宙を掻いた。レティシアは手摺りを軽々と飛び越え、中庭へと落下していく。
「レティシアさん!」
下を覗き込んだサイラスの目に映ったのは、金色に光輝く魔法のペガサスだった。ペガサスが嘶き、翼を広げる。キラキラと羽根が舞い散った。
風の魔法でその背にふわりと着地したレティシアは、サイラスを見上げる。
「ごめんなさい。……今まで、ありがとうございました」
短い言葉を残して、ペガサスは羽ばたく。光の粒子を残して、少女と魔法生物は夜明けの空へと飛び去っていった。太陽の方角――東の空、王都の外へと。
サイラスは手摺りを掴み、ただ彼女を見送ることしかできなかった。
「貴女は……本当に、ひどい人だ」
呟いた言葉は、迷子の子供のようだった。
小さくなる影が空の彼方へ消えるまで、サイラスはただ、そこに立ち尽くしていた。




