13:図書室の住人
レティシアの午前中は、屋敷の家事から始まる。
今までは屋敷に不馴れなレティシアのために、クレアはいつも一緒にいてくれているのだけれど、この日は違っていた。
「私は先にサイラス様のお部屋を掃除してきます。レティシア様は図書室に行っていてもらっていいですか? 後から合流します」
クレアの言葉に、ほんの少しだけ心細いと感じる。
まだここにきて数日なのだ、ここの住人たちと多少言葉を交わしているとはいえ、クレアとサイラス以外はまだまだ知らない人という感覚が抜けない。
それに、まだ会ったことがない人もいるだろう。そういう相手と鉢合わせた時、うまくやれる自信がない。
「……私もお手伝いしましょうか?」
聞いてみたけど、クレアは力強く首を横に振った。断固拒否、という雰囲気だ。
「絶ッ対ダメです。あんなところを見せたら幻滅される……じゃない、ええと、サイラス様のお部屋は研究資料とか色々ありますから、慣れないと大変なんですよー」
(幻滅?)
クレアが言いかけた言葉が気になった。
研究室の散らかり具合を考えると、私室もきっと本や資料で溢れているのだろう。だから多少整理整頓ができていなくても、レティシア的には特に気にならないのだけれど――クレアの勢いに押されて、レティシアは「わかりました」と頷くしかなかった。
「じゃあ、図書室で合流しましょう!」
明るく言い残して、クレアが去る。レティシアも掃除用具を握りしめ、図書室を目指した。
図書室は研究エリアに入ってすぐのところにある。1階と2階にそれぞれ出入口があるので、中で繋がっているのだろう。場所は知っているけど、入るのは初めてだった。
緊張で固くなりつつ、静かに1階側の扉を開ける。途端に目に飛び込んできたのは、ずらりと一面に並べられた本棚たち。吹き抜けになっていて、螺旋階段で行き来ができるようになっている。背の高い採光用の窓もあり、植物の鉢があちこちに置かれており、明るく過ごしやすそうな雰囲気だった。
呼吸をすると、紙とインクの香りがいっぱいに広がる。
かなり広いから、クレアとふたりでも今日だけでは終わりそうにない。気を引き締めつつ、掃除に取り組もうと部屋の隅に歩いていって――
本棚の影になり光が当たらないテーブルに、小柄な男性がつっぷしていることに気が付いた。驚きのあまり、びくっと体が硬直する。
箒を盾のように構えるレティシアになど見向きもせず、彼は同じ姿勢を保ち続けている。その瞳は閉じられていて、規則正しく、静かな呼吸音が聞こえてきた。
(……寝ている?)
レティシアの予想通り、彼はあどけない顔でよく眠っているようだった。14歳くらいだろうか。夜空を思わせる紺に近い黒色の髪が特徴的だ。少年の横には綴じられた書類が置かれている。
(どうしよう……)
書き物の途中で眠ってしまった、という様子の少年を起こすべきか、少し悩む。
起こして、ベッドで休むように言うのが親切なのだろう。けれど知らない人に声をかける勇気がないし、なにより彼が穏やかに眠っていたから、邪魔したくないと思った。
レティシアがそっとこの場を去ろうと決意した瞬間、彼の睫毛が震え、目がゆっくりと開かれた。
固まっていたレティシアと視線が交わり、少年は二度瞬きをする。それから、勢いよく顔を背けられた。
「見るなよ」
第一声がそれだった。刺々しい言葉にレティシアはたじろぐ。少年は椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がると、素早くレティシアの脇をすり抜けて走っていってしまう。
背後でバタン! と扉が閉まり、図書室は静寂を取り戻した。
(彼に悪いことをしてしまったかも……)
寝顔を見られるのは誰だって嫌だろう。素早く行動できなかったことをレティシアが反省していた時、ふと机の上に取り残された書類が目に入った。
少年の忘れ物だ。
魔法と精霊に関する研究が書かれているのはわかるけれど、詳しい内容は難しくて理解できない。欄外に脚注のようなものが丁寧に、かつたくさん書き込まれており、そのインクはまだ新しそうだった。少年が書いたものだろうか。
書類を手に取る。
(あの子は……)
似ていると、レティシアは思った。部屋の隅、光が差さないところでひっそりと息をしていた姿が、オルコット家にいたころの自分と重なる。
レティシアから目を逸らしたのも、まるで人を恐れ、拒んでいるように感じられた。
その彼が、熱心に書き込みをしたであろう書類を置いていってしまった。レティシアにとってネックレスがとても大切なもののように、彼にとってこの研究資料がとても大切だとしたら――
そう思ったらいてもたってもいられなくなって、箒をその場に起き、資料を手にして、レティシアも図書室を出た。
廊下にもう少年の姿はない。代わりに廊下の向こうから、落ち着いた足取りでサイラスが歩いてくるところだった。
「オルコット嬢、おはようございます」
サイラスがいつもの笑顔で挨拶をしてくれる。もうお昼近いのに、おはようと言われたことに少しだけ違和感を覚えた。
「おはようございます。あの、黒髪の男の子を見ませんでしたか?」
突然の質問にも、サイラスは嫌な顔ひとつしなかった。
「セシルですね。彼なら、玄関ホールから階段を上がって行くのを見ましたよ」
「ありがとうございます」
サイラスにぺこりと頭を下げてから、レティシアは走り出した。2階への階段を駆け上がったところで、東に向かう廊下に少年――セシルの後ろ姿が見える。
臆病風が吹いて、声をかけることを一瞬躊躇ってしまう。でも、ここまで来たのだから。レティシアは足に力を込めて一歩を踏み出す。
「あのっ!」
咄嗟に大きな声が出て、自分でも驚いた。
セシルが立ち止まり、振り向く。顔こそレティシアの方を向いているけれど、その瞳は床の絨毯に向けられている。
「……なに?」
そっけない一言が玄関ホールに響く。
サイラスと出会った時のレティシアも、極力人との関わりを避けるようにしていた。こんな風に視線をずっと落として、相手のことを見られなかった。
レティシアは一度呼吸をしてから、彼と数歩の距離まで近付く。セシルにも見えるように、下から書類を差し出した。
その瞳が、大きく見開かれる。
「忘れ物、ですよね?」
問いかけても、セシルは沈黙を続けている。
書類を差し出したまま、じっと彼の答えを待った。サイラスが自分に対してそうしてくれたように。
なるべく優しい雰囲気を作ってみたつもりだけど、サイラスと違ってレティシアは笑顔が苦手だから、うまくできているかわからない。
待つこと数秒。
セシルの手が伸び、レティシアの手から躊躇いがちに書類を受け取った。
「なんで」
消え入りそうな声で、彼が言葉を漏らす。
「わざわざ届けなくても、放っておけばいいじゃん」
書類を潰さないように、けれど大切そうに抱える彼の仕草に、息がしにくくなるような錯覚がした。
「貴方にとって、大切なものだと思ったんです」
レティシアが答えても、セシルは顔を上げなかった。ただ、その雰囲気から刺々しさが僅かに和らぐ。
サイラスのようにはいかなくても、こうして誰かに寄り添うことはできる。そう思えた気がした。
「……ありがと」
呟きを残し、セシルは廊下を走り去った。その背中が見えなくなるまで見守る。
(私でも、誰かの役に立てた)
小さいけれど、確かな達成感に包まれる。
その時だった。
「セシルと仲良くなったんですね」
穏やかな声が聞こえて、ぱっと後ろを振り向いた。レティシアを追いかけてきたのか、そこにはサイラスが立っていて、セシルが去った方向を見つめている。
「仲良くは、ないと思います」
「そうでしょうか? 彼は俺の助手ですが、誰にも心を開かずにいるんです。その彼が、自分から質問するなんてね」
サイラスは言いながら、こちらを見る。セシルのことを口にしながらも、その青い瞳はレティシアの心を見透かすようだった。なんとなく、落ち着かない。
(でも、嫌じゃない)
彼はかつての自分のようだから――本当に誰にも心を開けずにここにいるのなら、とても勿体無いなと思った。
もしまたセシルと話す機会があれば、また自分から声をかけてみよう。
レティシアは彼が去った廊下を眺めながら、そう思った。




