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道化師は泣き、女王は笑う  作者: Mel


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26 戻る場所

 ――数日後。

 抜糸を終えた道化師は、軽く片腕を回してみる。

 脇腹に引き攣るような感覚は残っていたが、女医の見立てどおり日常生活に支障はなさそうだった。


「本当にお世話になりました。腕の良いお医者様に診ていただけて、助かりました」


 侍女が丁寧に洗濯してくれた馴染みの衣装に袖を通し、療養室にあった白粉で仮の化粧を施せば、そこにはいつもの道化師の姿があった。

 女医が愉快そうに目を細める。


「若いって、やっぱりすごいわね。もうすっかり元気そうで何よりだわ。でも、あまり無理はしないことよ」

「飛んだり、跳ねたり、踊ったりは、しばらくは控えるつもりです。またここに運ばれて、お手を煩わせては申し訳ありませんので」

「あら、私はいつでも歓迎よ――。……と言いたいところだけれど、実はね。私も、もうこの国を出るつもりなのよ」

「……それは残念な知らせでございます。まさか……見限られたのでしょうか?」


 怪我を癒してくれた恩人であり、療養中の話し相手でもあった人。

 数少ない女王の理解者でもあると勝手に親しみを抱いていただけに、旅立ちの話に、道化師は思わず落胆してしまう。


「そうねぇ。もともと、もう引退を考えていたの。歳だからね。……ただ、陛下が心配で先延ばしにしてたのよ。だけど最近は、すごく頑張っていらしたでしょう? 貴方もいるし……もう大丈夫かなって思ったの」

「ですが……。陛下は、引き留められなかったのですか?」

「ううん。むしろ陛下からの提案だったの。『早く息子のもとへ行ってやれ』って」

「……息子さんが?」

「ええ。聖国にいるの。……ほら、昔は交流があったでしょう? あの国には留学や移住する人も多かったのよ」


 たびたび耳にする「聖国」とこの国との繋がり。

 道化師は足を運んだことはなかったが、教皇を戴く小さな宗教国家だと記憶している。


「あの事件のせいで長らく断絶していた関係も、ようやく回復してきたみたいなの。陛下の外交のおかげでね。関所が開かれて、これからは行き来ができるようになったのよ」


 あの事件というのは――かつてこの国に視察に来た使節団の子息を死なせてしまった件だろう。当時の近衛騎士団の団長がその責を負って自害を命じられたそうだが、聖国との国交断絶を招く忌まわしき事件であったと聞いていた。


「そうとは知らず……。まったく、わたくしはまだまだ勉強不足でございますな」

「仕方ないわよ。どちらも小さな国なんだから。だからこそ貴族院は、侮っていたんでしょうけどね。……まさか使節の家族にまで手をかけるなんて。あれはもう、正気の沙汰じゃなかったわ」


 女王の勢力を削ぐためだけに、団長の責任にすり替えられたというその事件。国際社会からも孤立することになったそうだが――本当に、後先も考えぬ連中の短絡的な思考には辟易するばかりだ。


 だが、女医は仄暗い表情で自嘲気味に笑う。

 溺死として処理されたその子ども。薬を盛られていたことに女医は気付いていたが、口を閉ざしたと。


「我が身かわいさに陛下を見捨てたも同然なんだから、私も同罪なのかしらね。……まあ、この国の連中なんてみんな地獄行きでしょうけど」

「……」


 懺悔とも悔恨とも取れぬ言葉に何も返すことは出来なかった。仮に彼女が声を上げていたとしても、その命もろともかき消されていたであろうことは、容易に想像がついたからだ。

 複雑な思いは残るものの、責める気にもなれない。女王をここまで支えてきた気持ちにまで、嘘があるとは思えなかった。

 

「……そういうわけで、近いうちに職を辞して移住するつもりなの。聖国は、いいところよ。国そのものは長らく貧しかったけれど、陛下の支援の賜物で随分と変わったそうよ。……もっとも、今や国力も逆転しつつあるくらいだから、快く思わない人がいるのも無理はないけれどね」


 ふう、と女医は頬に手を添え、ひとつ溜息を吐いた。


「陛下をお一人にするのは、やっぱり心配だけれど……あなたがいるなら安心ね。ごめんなさいね、ひとり逃げてしまって」

「……陛下も後押しされたのであれば、わたくしに言えることは何もございません。残念ですが、笑顔でお見送りするべきでしょうね。では、せめて餞別にこちらを!」


 そう言って、道化師は片手を大きく開いた。

 小指から順に折り畳み、親指からひとつひとつ指を立てていくと――その掌には、白い花が一輪ふわりと現れた。


「まあ!」


 少女のような声を上げて、女医が手を叩いた。


「いいものを見せてもらったわ。本当に……魔法みたいね」

「種も仕掛けもございますがね。それに……今生の別れではないでしょう。陛下がもっと力をつけられれば、いずれ聖国への視察もあるかもしれませんし」

「それは素敵な話ね。老後の楽しみが増えてしまったわ」


 そう言って微笑んだ女医は、薬瓶の口に白い花を差し、指先でそっと花弁を撫でた。


「……あなたたちが来るまで、生きていなきゃね。……ごめんなさい。陛下を、よろしくお願いします」

「はい。しかと承りました」


 療養室をあとにする道化師の手には、女医から持たされた茶菓子が詰まった包みがあった。

 そのひとつを頬張りながら、彼は長らく留守にしていた女王の居室へと歩を進めた。


 *


 扉の前に立っていたのは、いつもの近衛兵だった。

 久方ぶりに顔を合わせた気がしたが、彼は心なしか穏やかな表情で「よお」と気さくに片手を挙げた。


「治ったか。思ったよりかかったな」

「おかげさまでこのとおりでございます。本当に、ありがとうございました」

「礼などいらん。お前のためだけじゃない。……陛下は、すっかりお疲れのご様子だ。お前がいなくても何も変わらないと思っていたが……違ったな」


 意味深な言葉に道化師が首をかしげると、近衛兵は「……何でもない」と軽くかぶりを振り、顎で部屋の中を示した。


 道化師はポケットから鍵を取り出し、その感触を懐かしむように握りしめる。

 そしてそっと鍵穴に差し込み、深く息を吐いてから扉を押し開いた。


 出迎えたのは、懐かしい空気と香り。

 長い療養生活のあいだ、何度も思い描いた静謐な空間だった。


 帳の向こうに目を向ければ、そこに女王の影があった。

 寝台の上に、静かに横たわっている。

 鈴を鳴らさぬようそっと歩み寄れば、目を閉じ、深い眠りに沈んでいた。


 ――近衛兵の言った通りだった。


 女王の顔には、疲労の色がくっきりと刻まれていた。

 呼吸は浅く、揺れる胸元がかろうじて生の証を示しているだけ。

 心配になってそっと耳を寄せたとき、長い睫毛が微かに震えた。


 ゆっくりと瞼が開く。だが、その黒い瞳には――やはり、影しか宿していなかった。


「……お前か」

「戻りました。ずいぶん、お待たせしてしまいました」

「待ってなどいない。……なんだ、静かな夜も、昨日で終わりだったか」

「またまた。わたくしの声が恋しくなった頃合いでしょう?」

「……ふざけたことを」


 まだ夢の残り香に包まれているような声だった。

 道化師はそっと寝台の傍らに腰を下ろし、静かに物語を紡ぎ始める。


 ――砂漠の夜。星々が瞬き、月光が砂を撫でてゆく話。

 柔らかな光と静寂に満ちた世界に、女王は導かれるように目を閉じていく。


「……道化よ」

「はい。なんでございましょう」


 よほど疲れていたのか。それとも小卓に乗る薬の副作用か。

 うとうとと眠たげな声に、道化師もまた眠りに引き寄せられそうになりながら、穏やかに返す。


 ……この寝顔を見ることを許されているのは、自分だけ。

 言葉にならぬ想いが、胸の奥にじわりと滲み広がっていく。


 そんな道化師の心情を知ってか知らずか。

 女王は、まどろみの中でぽつりと呟いた。


「……私はいま……人であろうか……」


 なぜそんなことを問うたのか、道化師には分からない。

 けれど――確かに彼女は、人だ。

 どれほど感情を閉ざしていても。

 人形のように振る舞っていたとしても。

 傷つき、哀しみ、……喜びを知るはずの、ひとりの人間だった。

 

「――人でございますよ。昔から、ずっと」

「……そうか。……それは……困ったな……」


 それだけ言い残し、女王は深い眠りへと落ちていった。


 鳥籠に囚われた孤独で美しい人が――今はただ、安らかに眠っていた。

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