25 せめて夢の中では
縫合を終えたあとに女医から安静を命じられた道化師は、療養室に匿われるかたちで、ただ何もしない時間を過ごしていた。
持て余す静けさの中で、思い浮かべるのは――女王陛下のことばかり。
こんなふうに命の危険すらある場所に自ら留まるなど、かつての自分なら決してしなかったはずなのに。
それが今やどうしたことか、意地でも城を出る気になれなかった。
正直どうして女王にここまで肩入れしてしまったのか――道化師自身にも分からない。
にこりともしないあの顔に花を咲かせてみたい。最初は、ただそれだけだったはずだ。
だが、身も心も削りながら耐え続けるその姿を間近で見つめるうちに、その苦しみを共に背負い、傍に在りたいと願うようになってしまっていた。
それは、常に一歩引いた場所から世界を眺めてきた道化師にとって、生まれて初めて抱く感情だった。
――どうすれば、彼女を救えるのだろう。
――どうすれば、その心を、真に慰めることができるのだろう。
他のことを考えようとしても、思考はすぐ彼女に引き戻されてしまう。
当の女王は、あれきり一度も姿を見せには来てはくれないというのに。
「陛下も今はお忙しいのですから。……仕方のないことですよ」
そう言って道化師の話し相手になってくれたのは、療養室の主である年老いた女医と、こうして一日一度顔を出す侍女くらいなもの。それ以外の顔見知りは薄情なもので、誰一人として見舞いに現れなかった。
……だが、それも無理からぬことかもしれない。刃を受けた道化師に近づけば、自らにもその刃先が向けられるかもしれないのだから。
「……おや、陛下は、そんなにご多忙なのですか?」
思わずそう口にしてしまったのは、ほんの皮肉のつもりだった。
悲しいことに、かつての女王はむしろ時間を持て余していた。近隣諸国の使節が来る時に顔を見せることはあっても、貴族会議のような場には呼ばれないことすら珍しくなかったからだ。
それが今では、療養中の道化師を見舞う暇すらないというのだから――。
体のいい言い訳ではないか、と。そんな疑念を抱いてしまうのも、仕方のないことだろう。
「あの建国祭で、女王陛下のご健在を示せましたから。女王との会談を求める諸国の使者に、中身の伴わぬ威儀だけはご立派な殿方を出すわけにもいかないでしょう」
「なるほど……。これまでは、諸国からも侮られていたということですか」
「それも、仕方のないことです。今の時世に毒を用いる国など……しかも他国の使者であろうと見境が無いとなれば、相手にされなくなるものですから。……ですが、力なき王ではないと知らしめた今、この国と関わりを持ちたいと考える国も少なからずあります。堤防を築いた技術ひとつとっても、価値はありますから」
「そういうものでございますか……」
侍女は傍らの椅子に腰掛けながら、道化師の衣装を繕っていた。
刃によって裂かれた布地が、鮮やかな真紅の絹糸によってひと針ずつ繋ぎ合わされていく。
「……これは見事な手仕事ですね。わたくしも多少の心得はありますが、こんなに美しくは縫えません」
「幼い頃から騎士団の男たちの服ばかり繕っていましたから。……兄がいたんです。稽古でしょっちゅう破いて帰ってくるものですから、自然とね」
懐かしむような声色。いつもは仮面を張りつけて感情というものを見せなかった侍女の表情が、わずかに和らいだように見えた。
「左様でございましたか。……そのお兄様に感謝せねばなりませんね。おかげでわたくしは一張羅を失わずに済みました」
「ふふ。あの人は面白いものが好きでしたから。貴方の芸もきっと気に入っていたでしょうね」
ぷつり、と歯で糸を噛み切った侍女は、器用に指を動かして仕上げに取りかかる。
裏を返して針目を確認し、どこか満足げに小さく頷いた。
「……さて、そろそろお暇いたしましょうか。そち、この者はあとどのくらいで動けるようになるのでしたっけ?」
「あと三日ほどかしらね。抜糸を済ませれば日常生活には支障もないわ。もっとも、飛んだり跳ねたり踊ったりするのは、しばらく控えることね」
侍女に問われた女医が静かに答える。
控えるよう指示された内容は道化師にとってはどれも困るものであったが、しばらくは口上と手品で誤魔化すしかあるまい。
もっとも、また夜会や会談に呼ばれるようなことがあれば――の話だが。
「――ああ。陛下のもとへ行かれるのでしたら、こちらもお願いしてもいいかしら?」
そう言って、女医が棚から紙袋を取り出し、侍女に手渡す。
侍女は袋の中を確認し、「ああ」と、得心がいったように小さく頷いた。
「確かにお預かりしました。……もう、これを使う必要もなくなるかもしれませんが」
「……そうなの? それであれば破棄していただいて構わないわ。効果が高い分、副作用も強いものだから」
「ええと……それは薬、ですよね? 陛下は、持病でもおありで?」
あの顔色の悪さとこけた頬は蓄積された毒のせいだと思っていた。だが、それとは別に何か疾患を抱えているのだろうか。
そんな不安からつい口を挟めば、侍女が目を細めて、唇の端だけで笑った。
「避妊薬ですよ。……二度と子はもうけたくないと、陛下がお望みですから」
「……は? 避妊……薬、でございますか?」
「ええ。……もちろん、他言無用でお願いしますね。では、これにて」
「あ、ちょっと――」
引き止めようとした道化師の声をよそに、侍女は軽やかに身を翻し、療養室をあとにした。
ぽかんとしたまま、道化師は女医の方を見やる。
女医は少し困ったように頬に手を当てながら、ため息をひとつついた。
「……あなたは、本当に陛下に心から仕えているのよね?」
「ええ。……もちろんでございます。ですから、事情をお聞かせいただけませんか?」
「そうね……。彼女も言っていたけれど。……最初の子を亡くされてからなのよ。もう二度と、子は産まないと決められたのは」
結果として女王の身代わりとなって死んだという初子。どれほどの喪失と悲しみが、彼女を襲ったのだろう。
その痛みを、孤児である道化師が完全に理解することはできない……けれど。
たったひとりの王族が、子を望まぬというのは――。
それはつまり、この国の未来そのものを手放すということではないのだろうか。
「私も何度となく説得はしたんだけれどね。……王配が途切れたタイミングで、寝室に不逞の輩が入り込んだ事があったのよ。きっと誰かの差し金だったんでしょうね。幸いにして子を宿すことはなかったけれども、それから必ずお飲みになるようになったのよ」
「以前に、お腹の子も亡くしたと伺いましたが……」
「一度は子ができた以上、畑に問題はないと知れてしまっているからね。いつまでも子ができなければ、議長あたりが疑いを抱くのは目に見えていたから。適当な時期に妊娠を発表して、頃合いを見て流産したことにしていたのよ。そう言っておけば、誰も深くは詮索しないもの」
生憎と身近に妊婦の知り合いなどいなかったから妊娠や流産のことなど詳しい知識はない。困惑を浮かべるその顔が可笑しかったのか、女医はくすりと笑った。
「月のものなどとうの昔に止まってしまっているのにね。いつも具合が悪そうだから、悪阻とでも言えば皆すぐ信じるのよ。種の方に問題がある可能性だってあるのに……男というものは、そういう想像がまるでできないのだから」
「……そういうものなのでございますか」
「そういうものなのよ。……今は近衛兵が控え、鍵もかかる。……可笑しいでしょう? 以前はそれすらも許されていなかったのよ。おかげで夜這いの心配は少なくなったけれど――。案山子が不在にしている以上は、また良からぬことを考える人がいるかもしれないからね」
――内緒にしておいてね。
そう言い残し、女医は療養室を出ていった。
残された道化師はまたひとつ、女王の抱える傷を知ってしまった。
心に深く、長く影を落とすような、吐き気を催す事実だった。
眠れぬ夜を過ごす中で、ひとり眠るであろう女王の安らぎを心の底から祈らずにはいられない。
せめて夢の中でくらいは。
穏やかなる光のもとで、優しき世界に抱かれていますように、と――。




