24 離れゆく手を
――誰かの声が、聞こえてくる。
ぼんやりとした響きだった声は、次第に輪郭を持ちはじめ、道化師の耳にもはっきり届き始めた。
「――それでは、私は一度、奥に下がらせていただきますね。……そんな顔なさらないでくださいませ。まだ若いんですもの。すぐに傷も癒えましょう」
「ほほ……。近衛が手はず通り動いたようで何よりでございました。あの者らの抱く罪悪感、存分に利用させていただきましょう」
「……あなたも。あまり周囲を刺激なさらぬこと。今回の件も、その動きを察知されてのことでしょう?」
「これっきりでございますよ。彼奴らは今後、暴動の対処に追われることになりますから。……ああ、すべてつつがなく進んでいて、何よりでございますね、陛下」
呆れたような溜息が漏れ、一人分の足音が遠のいていく。
次いで、額にひやりとした感触が触れた。
それが誰かの指先だと気づくまで、そう時間はかからなかった。
しかし、重たい瞼を持ち上げるだけの気力は、まだ戻ってこない。
「……こんなはずでは、なかったんだがな」
かすれるような声が耳を掠めた。
弱々しく、今にも消えてしまいそうなその声に、心がわずかに波打つ。
意識は徐々に浮かび上がってきていたが、身体はなおも重く、暑いのか寒いのかすら曖昧だ。
ただ腹の奥がじんじんと痛みを訴え、逃れようのない倦怠感が、泥のように全身を包んでいる。
「……陛下。もう夜明けでございます。そろそろお戻りを。この者のことは、私が見ておきますゆえ」
「いや……。もう少し様子を見る。血もかなり流れたのだろう。お前こそ、もう下がるがいい」
「ほほ……。貴女さまがそんな顔をされるのは、我が兄が死を賜ったとき以来では?」
その冷えた声音に、額へ触れていた指先が、わずかに震えた気がした。
氷のように冷たいその手は、かすかに強ばっているようでもあった。
――五感が、急速に呼び覚まされていく。
意識は、すでに明瞭だった。
だが道化師は剣呑な気配を肌で察し、まだ瞳を開けずにいた。
「……冗談ですよ。それに、兄はこの宮中で生きていくには、あまりに純粋過ぎました。遅かれ早かれ、いずれ――」
「それでも……私の手落ちだ」
「そうでしょうね。ええ、そうでしょうとも。貴女さまは、多くの命の犠牲のもとに生かされている。……だからこそ、生き抜かねばならぬのですよ」
もうひとつの足音もやがて遠ざかり、静かに扉が閉まる音が響く。
残されたのは、ただ――静寂だけだった。
額を撫でていた手が、そっと離れようとしたそのとき。
自然と、掴もうとするように右手が動いていた。
「……ッ」
その動きが、鈍い痛みを呼ぶ。自然と短い呻きが漏れた。
それでも起き上がろうとした身体は、女王の手によって制された。
「……起きたか。無理をするな、浅くはない傷だ」
「ああ、痛みがあるということは、ここはまだ現世でございましょうか。いやいや、これほど美しき方が傍にいらっしゃるのなら、やはり常世かもしれませんな」
「……無駄口を叩く元気はあるようだな」
のばした右手は、やんわりと払いのけられる。道化師は苦笑しつつも、目だけで周囲を見回した。
鼻をつく薬品の匂い。見慣れぬ器具の並ぶ棚。ここが療養室であることはすぐに察しがついた。
きちんと処置もされたのだろう。腹部を強く締めつける布の感覚に、まだ身体は慣れていなかった。
「どうやら、まだやり残したことがあるようですね。……死に損ないました」
「大袈裟な男だ。そこまで深手ではないと聞いている」
「刃を受けるのは初めてなものですから。偽の刃なら曲芸師からしょっちゅう頂いてますけどね」
「なんだ、やはりあれは偽物だったのか。あまりに真に迫っていたものだから、本物かと」
「真剣を使うこともありますよ。……おっと。すべての種を明かしてしまっては、今後、陛下にお楽しみいただけなくなってしまいますね」
腹の傷はまだ疼く。だが、傍らで神妙な顔をして座る女王を見ると、つい軽口ばかりが口をついて出た。
安心させたかったのだ。
これは、貴女のせいではないのだと――それを、言葉にせず伝えたかった。
だが、女王の視線は、ずっと道化師の腹に落ちたままだった。
どこか、居心地の悪い沈黙が訪れる。何かを逡巡している様子の女王は――整った眉根を寄せて、薄い唇を開く。
「……お前はもう、この国を離れるといい。少し目立たせ過ぎたようだ」
思いもよらぬ言葉だった。考えるより先に、道化師は声を上げていた。
「それは困ります。わたくしは、まだ使命を果たしておりません」
「もう十分だ。……あの男に金も預けている。次は、怪我では済まぬだろう」
「金など、もうどうでもいいのです。――これから、大舞台があるのでしょう? 陛下には、わたくしの力が必要なはずです」
歌姫も、近衛兵も、誰もが来るべき"何か"を口にしていた。
その大舞台を飾るために、道化師の出番はきっとあるはずなのだ。
それなのに――優しすぎる女王は、そのことすら忘れてしまったかのように、ただ「去れ」と言う。
予期せぬ襲撃を受け、彼女の決意が揺らいでいるのだろうか。そう思えるほどに、その言葉は弱弱しいものだった。
「……死ぬかもしれないのだぞ」
「死にはしませんよ。わたくし、悪運だけは強い方ですから」
宙に浮いたままの女王の手を、今度は逃さず、しっかりと掴み取る。
そのまま、そっと頬に寄せると――。
氷のように冷たいその手に、少しだけ、温もりが移った気がした。
「乗りかかった船ですから。泥船であろうとも、頭が水底に沈みきるその時まで、演じさせてくださいませ」
道化師が引く気はないと悟ったのか、女王は目を瞑り、苦悩の表情を浮かべた。
だが、やがて小さく息を吐き、わずかに頷く。
「……そこまで言うのなら、好きにしろ。私も……炎がこの身を焼き尽くすその時まで、女王を演じてみせよう」
「その時は、身代わりを置かねばなりませんな。陛下が焼かれる姿など、目にしたくはありませんから」
そう言いつつも、実際に女王が"焼かれる"ことなどまずあるまい。
この国で唯一の王族であり、民衆も貴族も王という象徴を手放すことはできないのだから。
今はただ、貴族院が幅を利かせ、飢饉に苦しむ民が声を失っている、歪な時期なだけに過ぎないのだ。
だからこそ、それを正すために、女王が真の"君主"となるために。
それぞれが密かに動いている――そのはずだった。
吟遊詩人が王家を批判し、民の鬱屈を受け流す。
座長と歌姫が聖国との交渉を重ねて外交基盤を築く。
建国祭で諸国に威光を示したのも、その流れの一環。
回りくどくはあるが、蒔いた種は確かに芽吹き始めている。
貴族院を抑え、民の支持を得て――この国の女王として、確かな王座に君臨するために。
戴冠した女王がマントを翻し、その傍らに自分が立つ。
そんな未来を夢想するうちに、道化師の瞼は次第に重くなっていく。
流した血のせいか、身体はまだ深い眠りを求めていた。
「……しばらく身体を休めるといい。起きる頃には、食事を運ばせよう」
「陛下は……傍にいてくださらないのですか」
「調子に乗るな。私は忙しいんだ」
「それは残念でございます。……ひとり寂しい夜をお過ごしいただくのは心苦しいですが、すぐに戻りますから」
「広々と寝られて、せいせいするくらいだ。……あまり馬鹿なことばかり言わず、早く寝ろ。お前が望んだのだから、私のために働いてもらわねばならん」
頬に触れていた手が、そっと離れていく。
眠気はもはや限界だった。掴みきれなかった手は、力なく台の上に落ちる。
女王が離れていく足音を、ぼんやりと聞きながら――。
道化師は、静かに目を閉じた。




