23 命綱なき綱渡り
面倒な片付けは城の者が引き受けてくれるというのだから、これほど楽なことはない。
手伝いをしてくれた座長と曲芸師に礼を告げた道化師は、宴の余韻を纏いながら、軽やかな足取りで女王の待つ居室を目指していた。
女王が望んだ脱出劇は――大盛況だったと言ってよいだろう。
近衛の騎士たちまでもが舞台に熱心に視線を送っていたのは、少々妙な気もしたが……あの憎たらしい貴族院の連中が、ぽかんと大口を開けていた姿。思い出すだけで、今にも吹き出しそうだった。
今夜は陛下と祝杯でもあげようか。
それとも、種を少しは明かしてあげようか。
そんなことを考えながら、鈴を鳴らして舞うように歩く。深夜の回廊は、あの喧噪が嘘のように静まり返っていた。
石畳を踏む靴音が、やけに大きく響く。
壁に灯る明かりがゆらゆらと揺れては、道化師の背に細長い影を引き連れていく。
――おかしい。
気配がなさすぎる。
普段なら女中のひとりやふたりはいるはずだ。片付けに手を取られているにしても、ここまで無人なことはない。
浮かれた気持ちはすっかり萎えて、訝しみながら歩を緩め、ふと振り返ろうとした瞬間――。
ぞくりと背筋を悪寒が駆け抜けた。反射的に身を捻った刹那、風を裂く音と共に、鋭い何かが頬をかすめていく。
目を凝らせば、闇に溶けるような黒装束の影がふたつ。光を弾く短剣を構え、じりじりと間合いを詰めてくる。
「……これはこれは。ずいぶんと物騒な歓迎ですね」
冷や汗を額に滲ませながら、道化師は顎を引く。所詮は道化、護身の類は一切身に着けていない。太刀打ちできるはずもないが、身を屈め、影に問いかけた。
「まさかとは思いますが、わたくしの熱心な支持者……ではありませんよね?」
返答はない。沈黙のまま、影のひとつが飛び出す。
その動きは音もなく、鋭い――。
いくら身軽な身体とは言え避けようにも限界がある。次々と繰り出される刃の軌跡が肌を掠めるたびに血が滲む。
眼前の一撃を紙一重で躱し、腰に差していた木の杖を抜いて相手の胸元へ突き出す。
のけぞった影の頭を狙い、振りかぶったそのとき――。
「……ッ!」
脇腹に、鋭く引き裂かれるような痛みが駆け抜ける。背後から刺されたらしいとすぐさま理解する。
思わず身体が沈む。お気に入りの衣装が裂け、血がじわりと滲んだ布地を濡らしていく。
腹に手を当てると、ぬるりとした感触に頭がぐらりと揺れる。
杖を握る手が痺れ、壁へ背を預けて支える間にも、ふたつの影が、じわりじわりと近づいてきた。
――死ぬのか。
一仕事終えて気が緩んでいたことは認めよう。
だがまさか、宮中の毒が自分にまで及ぶとは思わなかった。どこかで、まだ安全圏にいると慢心していたのだ。
けれど、こんなところで終われるはずがない。
まだ――まだ、あの人を心から笑わせていない。
力なく、だが決然と杖を前へ突き出しかけた、その瞬間。
風を裂くような鋭音と共に、夜の闇を割ってひとつの影が飛び込んでくる。
すべてを遮るように、道化師の目の前に立ちふさがったその影は――。
銀の鎧が灯りの光を鈍く反射し、槍の穂先が鋭く閃いて、刺客の手元を撃ち払う。
「下がれ!」
吠えたのは、いつも女王の居室の前で寡黙に佇む近衛兵だった。
もう一人の刺客が斬りかかるが、その一撃もまた、近衛の槍が正確に受け流す。間合いを詰めたその刹那、穂先が鳩尾を穿つ。
鋼鉄が肉を裂き、呻きもなく、刺客はもんどりうって倒れた。
血が石床に静かに滲み広がっていく。
「……おやおや、これは心強い。さすがは、陛下の傍を護るお方でございますな」
皮肉交じりの賛辞を投げかける道化師に、近衛兵は何も言わず、槍を構えたまま刺客を睨みつけている。
残された刺客は、すぐに劣勢を悟ったのか。
影のごとき闇に身を投じ、そのまま夜の帳へと姿を消した。
静寂が戻る中、近衛兵は構えを解き、道化師に肩越しに声をかける。
「……無事か?」
「危ういところでございました。せっかくの一張羅が台無しでございますよ……」
道化師は胸を撫でおろしながら、冗談めいた口調で言う。だがその声色は自分で思った以上に弱弱しいもの。
近衛兵の視線はなお、回廊の奥へ鋭く注がれていた。
「……ついに、お前も狙われたか」
「同じ鈍色であれば、せめて銀貨を頂きたいものです……。刃よりは、ずっとありがたい」
「呑気な奴だ。……傷は?」
脇腹を押さえていた手を離すと、濃い血がどくどくと溢れ出した。
先ほどよりも明らかな眩暈に、道化師はふらりと壁に身体を預ける。
「……医務室まで、運んでいただけます?」
「仕方がないな。掴まれ」
近衛兵は槍を壁に立てかけ、道化師の腕を肩に回す。ゆっくりと歩き出すと、わき腹から腿にかけて血が伝い落ちる感覚があった。
痛みはじりじりと続いている。致命傷には至っていないが、浅い傷ではない。
「毒が塗られていなかったのは幸いだったな。……道化師ひとりなら容易いと判断されたのか。あるいは、殺せとまでは指示されていなかったか」
「いやいや、殺意は充分だったでしょう。貴方がいなければ――わたくし、立派な活け造りになっていたかと」
軽口を叩きつつも、頭の奥までじんじんと軋む。
――今日の建国祭は成功だった。
女王の威光は示され、客は喝采を送り、各国の目にも焼きついたに違いない。
……それを良しとしなかった者がいる。
女王に味方する者など、本来いてはならないのだ。
だから、こうして消される――それだけのことなのだ。
「……本当に助かりました。たまたま、でしょうか」
「いや、密かにお前の後をつけていた。……嫌な予感がしたものだからな」
「それはそれは……まさか私の護衛までしていただけるとは……どのような意図があるのでしょうか」
正直、話すのも億劫だった。ただ、何かを口にしていないと意識が遠のきそうで、あまり働かない頭を絞って言葉を紡ぎ出す。
問いかけに、近衛兵はしばし黙し、それから呻くような低い声でぽつりと漏らした。
「お前を死なせるわけにはいかないと、そう思ったからだ」
「そこまで買っていただけていたとは思いませんでした……陛下の、犬に過ぎませんのに」
「……犬というのであれば、俺たちも本来はそうだった。昔、近衛騎士団は女王派の筆頭と呼ばれていたんだ。陛下を支えていた団長を中心に、な」
「ほう、それは初耳でございますな……」
「今じゃ信じがたい話だが、当時は女王派の騎士も少なくなかった。だが貴族派は狡猾だったよ。……あの日も、聖国からの使節団を迎えて護衛についていたんだが……同行していた貴族の子息が、裏庭の池で沈んでいた。原因も、経緯も分からない。だが――団長はその責を一身に負わされ、命を絶った」
その語り口は淡々としていたが、その底に潜む憤りと悔恨は、明らかだった。
「ついでに、聖国からの信頼も失墜。しばらくは国交も絶たれた。陛下の威信も大きく傷ついたさ。貴族院の連中にとっちゃ、笑いが止まらなかっただろうな」
その事件を境に、女王派と呼ばれた勢力は一気に瓦解したという。
近衛騎士団も再編され、貴族院に忠を誓う者や、事なかれ主義の若手で固められた。自分もそのうちの一人に過ぎず、それが今の姿なのだと、彼は語った。
「お恨みしていない、などと偉そうに言ったが……本当は、俺は陛下に許しを乞う立場なんだ。団長のようにはなりたくなくて、ずっと目を背けてきた。ずっと……」
「……けれど、ようやく――立ち上がるおつもりで」
「ああ。陛下は俺たちを見限らず、信頼に足る騎士を集めて密命を授けてくださった。……これからは、お前とも共に動くことになる。あの御方を――お救いするためにな」
力強いその言葉に、道化師はふっと笑みを浮かべて応じる。
「それは……とても光栄なお話です。ええ、怪我をした甲斐もあるというものですね」
「馬鹿を言え。お前が鍵だと聞いている。……だからこそ、こんなところで死なれては困る」
どうやら、自分の知らぬところで、何かが進み始めているらしい。
女王のために道化を演じてきただけのはずだったのに――気づけば、重要な計画とやらの『鍵』として据えられている。
……それが何の扉を開く鍵なのか、いまの頭では考えがまとまらない。
ふと、わき腹の痛みが強まり、滲んだ血が足元に滴り落ちるのがわかった。
不意に足がもつれ、次の瞬間、膝が崩れ落ちる。石畳が冷たく身体を迎え、視界が急速に狭まっていく。
――ああ、やっぱり今日は働きすぎた。
そんな間の抜けた思考を最後に、道化師はそのまま、意識を手放した。




