廿
アオイの落とした爆弾からいち早く立ち直ったのはイサクだった。
手にしていた湯瓶を卓上にゆっくりと戻す。カタンと小さな音が室内に響いた。
その音で、結月とアサギリがハッとする。
ユヅルは顎に手を当て、何かを考えるような様子を見せた。
口を開きっぱなしなのはミズキだ。
「アオイ様。私の誕生日は月隠れ月の最後の日、二十五日です。その日は、異称の通り一日中温かな雨が降っていたと聞いています」
アオイの両肩に手を置いたイサクが、唐突にそんな話をし始めた。
月隠れ月は一年の始まりから五番目の月だ。異称は月の別称。
(月隠れ月の異称は……たしか、雨降る月……)
なるほど、一日中雨が降っていたと言うのも納得する。
反対側で結月が「月隠れ月ってなん月なんですか?」とミズキに聞いている。
「ええ……? 月隠れ月は月隠れ月って月だから、何月って言われたら……えー、と?」
「一年の始まりの月……要するに、今の月から五番目の月ですよ」
指を折りながら、首を傾げるミズキに代わり、アサギリがそっと補足する。
「ああ、なるほど。五月なんですね!」
「五月……捻りもなんにもない呼称っすね」
「失礼な! これでも異称はたくさんあるんですよ。わたしが知らないだけで……五月の異称で有名なのは、えーと……皐月です」
ミズキと結月がポンポン言い合う姿を目を細めて見守りながら、イサクとユヅルがアオイの足元に跪く。
イサクの温かな手が、アオイの指先を優しく包み込む。
ユヅルが胸に手を当てながら、アオイに静かな笑みを向けた。
「俺の誕生日はイサクの生まれた月の次なんです。涼暮れ月。雨の合間によく晴れた空が見えていたと、聞かされました」
アオイの脳裏に、その情景が鮮やかに浮かぶ。それは、いつも涼やかに立っているユヅルによく似合っているように思えた。
「アオイ様のお生まれになった日は、どうだったか聞いていますか?」
イサクが、穏やかに微笑みながらアオイに聞いた。
「わたし、は……終わったはずの月夜桜と、ひとつだけあった蒼月桜が、満開に咲き乱れていたと、周りのおとな達が……言っていたのを、聞きました。それが、とても、印象的だった、って……」
「ああ……それは。とても美しい光景だったのでしょうね」
一度落とした花が眠りから覚めるように一斉に咲き誇る。
南の地に似合いの、波のようにそよぐ淡桃色。そして、夜に青く光を放ちながら誇らしげに咲く蒼月桜。
アオイの説明した情景を思い浮かべるように、ユヅルが切れ長の目を閉じる。
「きっと、アオイ様だから、なのだと思いますよ」
「わたしも、月の女神様が祝福されていたのだと思います」
慈しむように微笑むイサクに続けて、アサギリが頷きながら最後にそう言った。
そのそばで、ミズキが腕を組みつつ口を開く。
「えーと? 桜が終わったばかりで、春ってことは……カグヤ様がお生まれになったのは葉取り月っすかね? その様子だと、十日から二十日の間ってところかなー。そう考えると、コクウ家って誕生日が連続してるんすねー。毎月祝い事して大変だな……」
「ねぇねぇミズキさん。葉取り月ってなん月です? その感じだと四月?」
横から袖を引く結月に、指折り数えたミズキがウンウンと頷いている。
少しだけ面倒くさそうな様子を気にもせず、結月の表情がパッと華やいだ。
「四月! いいですね! わたしも春は大好きだよ! わたしの一番目の弟も四月生まれなの!」
両手を合わせ嬉しそうに結月が笑う。はにかむように小さく口元に笑みを浮かべつつ、アオイは結月の表情に首を傾けた。
どうしてだろう。楽しそうにしているのに、どこか無理をしているように見えるのは。
「ユヅキ、さん?」
疑問を覚えながら名前を呼んだからだろうか。伺うような声音になってしまったアオイに、結月が不思議そうな顔をする。
「あっ……あ、あの……え、と……」
(ど、どうしよ……でも……でも!)
「どうしたの?」
結月はサクのようにアオイを急かさない。
どちらかといえば、イツキのようにアオイが言葉を纏める時間を辛抱強く待ってくれる。
「あ、あの……なにか、気になることが、あるのかな……って、思いました……!」
嫌がられたらどうしよう。嫌われるかもしれない。せっかく仲良くなれたと思ったのに、怒らせてしまったら、悲しい。
そう思うけれど、気になってしまうのもアオイの本音。
なにか憂いがあるのなら、どうにかしてあげたいと思うのは、アオイがカグヤだからなのだろうか。
ぎゅっと胸の前で手を組みながら、一所懸命に言葉を紡ぐアオイを見て、結月が開こうとした口を閉ざす。開けては、閉じ、また開けて。
声にならない言葉を、どうしようかと悩んだ様子で、結月は苦笑する。
「うーん……あのね。わたしが"迷い人"っていうのは、さっきイツキさんが説明してたよね?」
微笑む結月に問われ、アオイはコクリと頷いた。
「それで、弟が四人いるっていうのも、さっき言った。……わたしは、弟たちを見捨てて、こっちに――サク様のそばにいることを選んだの。だけど……」
「え、と……弟さんに、会いたい、ですか?」
くすりと結月が苦笑した。皇太子棟の庭に向ける視線には、淋しさと切なさが入り混じっているように見える。
「うちの両親はね、どうしようもないの。お互い外に愛人を作って入り浸って、滅多に帰ってこなくて。子どもができたら捨てるようにして、ある程度成長して家事ができるようになったわたしに押しつけていった。あの子たちを育てたのは、実質姉であるわたしみたいなものだよ。一番下の弟はまだ四歳……そろそろ五歳になるかな? お金に不自由はしなかったけど、わたしに自由な時間なんかなかった。学校の成績も落とせないしね。奨学金が欲しかったから」
途中から、結月の話している内容がわからなくなったけれど、アオイは眉を落として彼女を見返した。
「こっちの世界では、そんなのぜんぜん苦労でもなんでもないって思われそうだけど、わたしの世界ではそういうのを育児放棄って言うんだー。でね……わたしは、本当は帰りたかったの。でも、サク様を好きになっちゃった。好きになっちゃったら、帰ることを考えられなくなっちゃった。初めて我儘を言いたいって思って、弟たちを、見捨てたの。後悔は……ほんのちょっとしかしてないけど、でもあの子たちはいまどうしてるかなぁって心配にはなるんだ」
結月が泣きそうな顔でえへへ、と笑う。
アオイはたまらなくなって、立ち上がった。小走りで結月の元へ向かい、きゅっと細い肩へとしがみつく。
その体は、アオイと同じくらい小さかった。元気で明るいから、大きく感じていただけで、結月はアオイとなにも変わらない。
驚いたような表情をした結月が、アオイの背中へとそっと腕を回す。
「アオイちゃんはあったかいねぇ」
ぎゅーっと抱きしめられ、アオイはハッとした。思わず、抱き着いてしまっていた。
「あ、あわわ……ご、ごめんなさ……!」
「ふふふー離さないぞぉ。イツキさんに自慢してやるんだー。アオイちゃんが自分から抱きついてきてくれたって!」
「それは、坊ちゃまが嫉妬しそうですねぇ」
「うええ……やめてくださいよユヅキ様ー。それ、絶対俺にとばっちりくるやつじゃないっすかぁ!」
袖口で口元を隠したイサクが、にこやかに笑う。
その隣でユヅルが何度も首を縦に振り、アサギリが苦笑しながら視線を逸らす。
そんな中、ミズキの嘆く声が部屋中に響き渡った。
一気に元の空気に戻った室内で、アオイは結月にくっついたまま顔を上げた。
「ユヅキさん、は……弟さんに会いたい、ですか?」
よしよしとアオイの黒髪を撫でながら、結月は笑う。
「そうだね。会いたい。でも帰ることは考えられない。サク様を諦められないから」
穏やかななかにも、淋しさと強さを潜ませた結月の声音に、アオイの胸が静かに熱くなる。
「それじゃ……早く、婚約破棄……しないと」
「うんうん。イツキさんとも婚約破棄協定結んでるからねー。がんばろうね!」
「俺、絶対それ聞いちゃいけない話聞いてる気がするんですよね……」
耳を塞ごうとするミズキの肩を、ユヅルが叩く。思いのほか力の込められたそれに、ミズキが口許をヒクつかせた。まるで諦めろとでも言われているようだ。
そんな男二人の攻防を知らず、アオイを抱きしめたままの結月が悪戯っぽく片目を瞑る。
「アオイちゃんの誕生日は四月の半ば以降ってことで。アオイちゃんは、イツキさんにちゃんとおねだりしようね。ハンドクリームだけじゃなくて、たくさんおねだりするといいよ。たぶんイツキさんは、なんでも言うこと聞いてくれるだろうから」
「ふえ……っ!?」
「そうだ、誕生日パーティーはここでする? それともイツキさんのお屋敷でする? その時には、ぜひともわたしもお呼ばれされたいなぁ。アオイちゃんに生まれてきてくれてありがとう、おめでとうって言いたい」
焦るアオイを宥めるように、結月の手のひらが背中を撫でる。
その後ろから、イサクとアサギリが新しい茶器と菓子籠を持って歩いてくる。
皇太子棟の使用人が一度顔を出したのだ。渡すものだけ渡したら、邪魔をしないように出て行ったらしい。実に気の利く使用人だ。
「ユヅキ様ー。そのお言葉は、イツキ様より先に言ってはダメですよー」
「あっ……確かに。じゃあ、イツキさんが伝え終わったあとにしようかな」
「それだと恐らく、お祝い会の後になってしまうかと」
「坊ちゃまには、ユヅキ様も必ずお呼びするように伝えますからね」
「やったぁ! ありがとうございます!」
イサクとユヅルは、ユヅキの存在にすっかり慣れたようだ。なんだか長年の知り合いのように普通に接している。
アサギリも、ミズキとにこやかに話していて、いつの間にやら打ち解けていた。
この光景を見たら、ヤゲンがどうにかなってしまうような気もしたが、アオイはこの雰囲気を壊したくない一心で何も言わないことに決めたのだった。
◇◇◇ ◇◇◇
ぞろぞろと揃って出ていく集団を見送って、イツキはサクと二人部屋の中で向き合っていた。
本音では、さっさとアオイを追いかけたいところだが、大事な話はまだ一つもできていない。
イツキと同じく、去っていく結月の背を見つめていたサクが、一つ息を吐いてからイツキに座るように促す。
「んで? お前は以前から俺にさっさと婚約破棄しろっつって結月を自分側に引き込んでたが、具体的にどうするつもりだ?」
「そうですね……先ほど申し上げた通り、婚約証明書の原本を手に入れないといけないのですが、その前に――俺がアオイと職人街で逢い引きしていたことが噂になり、皇王陛下が祭祀礼館に使者を立てたということでしたよね?」
「ああ」
イツキの確認に、サクが短く合いの手を打つ。
長椅子の背もたれに肘を置き、実に面倒臭そうだ。
「祭祀礼館は、アオイ――この場合はカグヤとして言いますが、国の宝である彼女を長年に渡り虐げてきました。本来、神に仕える祭祀官及び巫女は見習いも含め祭祀礼館の管轄ですが、そこに国庫を開けて国費として寄付をしているのはこの国――つまり皇王陛下です」
「そうだな」
一瞬、イツキを見据えるサクの眉が、ピクリと動いた。
しかし、イツキはそれに気づきながらも、話を先へと進めていく。
「まず、前提として、祭祀礼館へ支払われる寄付金はほとんどがカグヤに充てられたものです」
一段低くなったイツキの声音に、サクが片眉を上げた。それがどうした? という顔だ。
そう。そうなのだ。そこが、問題なのだ。
「いいですか、サク様。第一に、祭祀礼館には国から多額の寄付が納められています。第二に、それはカグヤのために使われるべき金です。祭祀官や巫女は官長から見習いに至るまで、清貧を心がけ民からの寄付金で生活をせねばならない。これは初代カグヤの定めた教会法に定められています。問題は――そのカグヤが、虐げられていて物置に住まわされていたという事実があるということです」
指を一つずつ上げたイツキが、三本の指をサクの目の前へと突きつける。
「アオイと話す中で、彼女が本来受け取るべきであった待遇を一切受け取っていなかったことが判明しています。それならば、国からの金はどこに行っていたのだと思いますか?」
「まあ、祭祀官のヤツらが着服したんだろうな」
「ええ。そうです。そしてもう一つ。コクウ家は毎年祭祀礼館に寄付をしていますが、それとは別にカグヤ様個人へも贈り物をしています。それすら、アオイは受け取っていませんでした。寄付や個人への贈り物は、恐らく我が家だけではなく名家八家すべて同様でしょうが」
「…………見習いに至るまで腐り切ってるってことか」
黙ったまま話を聞いていたサクが、片手を顎に当て、考えるように下を向く。
「だが、それだけじゃあ、父上に譲位をさせられねぇ」
サクの唇から漏れた言葉は、焦れたように低い。
「はい。ですが、皇王陛下と祭祀官長がずぶずぶに繋がっていたとしたら?」
「それは……」
「アオイの身柄は、すでに祭祀礼館とついでにハクロウ家から引き剥がし、コクウ家預かりとなっています。お二方とも力の発現のないカグヤを見限り手放したがっていましたからね。すでに書面も交わしています。なにがあってもアオイに迷惑はかかりません。ちょうどいいことに、彼らはユヅキ様を"新たなカグヤ"として担ごうとしていますし、すでに皇王陛下にも謁見させていましたよね。カグヤの下にあるべき祭祀官長が皇王陛下とずいぶん仲良くできるじゃありませんか」
「ちょうどいいとか言って結月を巻き込むんじゃねぇよ」
途中でサクが苦虫を噛み潰したような顔で茶々を入れるが、イツキはそれを完全に無視する。臣下としてはよろしくない態度ではあるが、そもそもサクが先に口にしたことだ。文句を言われる筋合いはない。
「で? 証拠はどうすんだ」
にこりと笑ったイツキを、いつかの自分の発言を忘れていなかったサクが睨む。だが、どうせ何か言ったとして、イツキからは数倍になって返ってくるのだ。諦めたように溜息を吐きながら、サクはイツキを促す。
「それはすでに――おや?」
コツンと応接間の窓に硬いものが当たる音がした。
イツキが立ち上がり、警戒もせずに窓を開け放つ。横目でそれを見ていたサクの肩から、ゆっくりと力が抜けていく。
窓の外にいたのは、漆黒の大きな鴉だった。陽の光を浴びて緑色にキラリと光る羽根が美しい。
イツキはその色を見てアオイの髪を思い出す。
僅かに引き上げた唇のまま、鴉の脚に巻き付いていた紙を解いて開いた。
すぐに、口元の笑みが甘いものから冷たさを帯びたものに変わる。
濃碧玉の瞳に氷のような煌めきが宿る。
「殿下。ユヅキ様とアオイが、道中で襲われたようです」
力を抜いていたサクが、ソファを蹴倒す勢いで立ち上がった。
「行くぞ」
短く告げるサクに、イツキがすぐに頭を下げる。大鴉を外に放つと、急ぎサクの後を追った。
襲撃者はどうせ皇太子であるサクを引きずり下ろしたい、皇王の妃たちの誰かに決まっている。
そして、襲撃者は既に捕らえられたに違いない。ユヅルが付いていったのだから、失敗することなど有り得ない。そのためにユヅルに預けたのだ。
だが、そうだと分かっていても、己の大事な者のそばに駆けつけたいという主従の想いは一致していた。
ここまで長くなる予定じゃなかった…。
本来なら弐の月廿で終わりの予定でした。
こんなところまで読んでくださった方に、感謝いたします。




