拾玖
頷いたアオイを確認してから、結月はその隣に腰を下ろした。
ゆっくり、重ねられた毛皮が沈んでいくのを感じる。
「いきなりごめんね。改めて、自己紹介させてください。わたしは姫乃結月と言います。ええと……結月、姫乃が正しいのかな? 気がついたらここにいて、なんか祭祀官? とか言う人たちに"新たなカグヤ様だ!"と持ち上げられて、サク様や皇王サマ? とかに引き合わされたけど、わたしはただの日本人です。弟が四人いる日本の大学生、十九歳です。よろしくね!」
発される言葉の所々を理解できないまま、差し出された手をアオイは反射的に取った。
スベスベとした、柔らかな手だった。
改善したとはいえ、いまだに傷の残る自分の手とは似ても似つかないほどに、綺麗な手。
慌てて引っ込めようとしたそれを、結月は逆に握り返してくる。意外と力が強い。引き抜けない。
「というか、そもそもアオイちゃんがカグヤだしねぇ。わたしはぜんっぜんそんなものじゃないはずなのに、あのオジサンたち人の話聞かないんだよ……酷くない? って、なんか年下の可愛い女の子だったから、すっごく馴れ馴れしく話しちゃったけど、嫌だったら言ってね!……だいじょうぶ?」
結月の話が止まらない。
大半が祭祀礼館に対する愚痴だったから、心の中で「そうですよね……」と思いつつ、口を挟む隙がない。
そんなアオイを見て、結月は照れたように髪を耳にかける仕草をする。
話し続ける結月に目を白黒していたアオイは、下から伺うように問われ、コクリとただ頷いた。
よかったーと結月が胸を撫で下ろす。
「ね、アオイちゃんって呼んでもいい? さっき勝手に呼んじゃったけど」
「ぇと……は、はい」
「よかった! わたしのことも、気軽に結月って呼んでね!」
アオイが頷いた瞬間、結月の顔いっぱいに明るい笑みが浮かぶ。
そこにアオイを見下すような色はなく、純粋な喜びだけが映っている。
だから、アオイは握りしめられていた手を、自分からも握り返してみた。
結月なら、アオイの手を汚いと言わない気がしたから。
元々、アオイは同年代の女子が苦手だ。昔からそうではなかったけれど、祭祀礼館に引き取られてから散々アオイに嫌がらせをしてきたのは、ほとんどが年齢の近い巫女見習いだったから。
(でもたぶん、この人は違う……)
この世界の人ではないから――というわけでもないだろう。
考え方は違うかもしれないが、相手を貶めるか受け入れるかは、結局はその人の心根次第だから。
「……ユヅキ、さん」
口元に淡い笑みを浮かべながら名を呼ぶアオイに、結月がとびきりの笑顔を見せた。
「あ、そうだアオイちゃん」
しばらくにこにこ笑い合っていた二人だったが、しばらくして結月はアオイの手を離した。
そして下に履いている服の陰から何かの入れ物を取り出すと、アオイに見せる。小さなそれの蓋を開くと、中には透明な軟膏のようなものが入っていた。
ふわりと花の香りがアオイの鼻を掠めていく。
「……いい香り……」
呟いたアオイに、結月がまた笑みを見せる。
「わたしもねー、前はアオイちゃんみたいに手が荒れてたの。それで、サク様が見かねたのかコレをくれたんだ」
結月が中身を掬って、アオイの手に優しく塗り込んでいく。
華やかで、柔らかな花の香りが、結月とアオイの体温と混ざり合い辺りに広がっていく。
「すごくよく効くんだよー。しかも、お店で自分の好きな香りに調合してくれるの。だから、今日はわたしの好きな香りだけど……いつかアオイちゃんも、アオイちゃん自身が好きな香りのハンドクリームを作ってもらうといいよ」
小指まで優しく塗り込んで、結月がふふっと笑う。
「作って……」
「うん。……イツキさんに、お願いしたらいいと思うよ」
口元に手を当てた結月が、アオイの耳元でこっそりと囁く。
そんなことできないと首を振れば、結月はさらなる追撃を繰り返す。
「大丈夫。イツキさんは、アオイちゃんにプレゼント……贈り物をするのが至福なんじゃないかと思うから。たぶん、アオイちゃんからおねだりされるの、心から待ってるような気がするんだよね」
「え……ぇっ?」
思わず、皇太子殿下の側でいまだ話し込むイツキに目を向ける。
視線を感じたのか、すぐに振り向いた濃碧玉の瞳が、アオイを映して柔らかく細められる。
その瞳の奥に優しさと、それ以上の焦がれるような熱を感じ取ってしまうのは、結月に囁かれたからだろうか。
(な、なんか……恥ずか、し、い……)
アオイと目が合うだけであんなに嬉しそうに頬を緩めるイツキを、なぜだか直視できなかった。
「アオイ? どうして目を逸らしちゃうの? ね、俺のことを見て」
長い脚でひと息に距離を縮めたイツキが、アオイの頬を両手で包み込む。正面から覗き込まれたら、視線だけ逸らし続けることも難しい。
恥ずかしさを堪えイツキを目だけで見上げれば、彼は何か衝撃を受けたように喉の奥で呻いた。
「……かわいい。なにそれ。口付けしていい?」
「良いわけあるか馬鹿野郎。話の途中だ戻ってきやがれ」
「ちょっとイツキさん! 女の子同士のお話の途中なんですから、邪魔しないでください!」
「いえ、無理です。だって、あんなに潤んだ瞳で見上げられてみてください。誰だってイチコロです」
「相手によるだろ」
ボソリとした低い声が、イツキの熱に浮かされたような言葉をぶった切った。
一瞬止まったイツキが、主を振り返り軽く首を傾ける。
咄嗟に目をそらしたサクが、「真っ黒い笑みを浮かべてんじゃねぇよ」と呟いたが、アオイには届かなかった。
イツキがアオイから目を離した隙に、結月がアオイを引っ張っていく。
「イツキさん! アオイちゃん借りますね!」
「……どちらに?」
「もちろん皇太子棟に。いいですよね、サク様?」
「……結月のしたいことを俺は止めねぇよ」
決してアオイを見ず、結月だけを視界に収めたサクが、許可を出した。
結月を振り向いたイツキが、アオイに視線を向ける。それからサクに目を向け、頷いた。
壁際にサッと視線を走らせれば、ヤゲン以外の三人が揃って頭を下げる。
これは、付いていけということなのだろうか。
「ユヅル。二人とも必ず守るように」
名残惜しげな瞳をアオイに注ぎながら、イツキはユヅルにそれだけを告げた。
入口付近に立っていたユヅルが、頷きながら扉を開ける。
「ミズキ、お前も行け」
「はい! はい、はい!」
「返事は一回だけにしろよ」
背後から皇太子の指示が飛び、なぜかやたら嬉しそうな護衛剣士の声が届く。すぐさま跳んできたサクの呆れたような声音に、アオイの傍らで結月が肩を震わせて吹き出していた。
◇◇◇ ◇◇◇
西翼のイツキ曰く"私的な応接室"から出たアオイと結月は、ミズキの先導の元皇太子棟へと向かった。
結月はアオイと手を繋いだまま離さない。
そんな二人の後ろから、イサクとアサギリが続き、最後にユヅルが付いてくる。
完全に護りの陣形だと、アオイは感じた。
(……皇王城の敷地内なのに……こんなに厳重……)
歩く道の正面に人の姿はないけれど、建物の陰や道の脇から視線を感じる。
ヒソヒソとなにかを囁いているような声がする。
「……相変わらず、ここの人たちはうわさ話が好きだよね。アオイちゃん大丈夫? あんまり気にしなくていいからね。わたしが来たときもすごく煩わしかったんだー。イツキさんが牽制してくれてたから、なんともなかったんだけど。でも……」
思わぬところでイツキの名前を聞いて、アオイは結月に顔を向けた。
僅かに眉を寄せた結月の表情を見て首を傾げる。
「イツキさんがいないときは、皇太子棟から出ることもできなくて」
横目でアオイを見た結月が、眉を下げて力なく笑った。思わず、繋いだ手をきゅっと握りしめてしまう。
結月は笑顔が素敵なのだ。だから、そんなふうに笑ってほしくない。
「ふふ……ごめんね、大丈夫だよ。イツキさんばっかりに頼ってられないし……というか、最近はイツキさん大切なものが手に入ったみたいで浮かれてるし、邪魔したくないし。――というわけで、新しくサク様が付けてくれたのが、このミズキさんです」
『大切な〜』のところで悪戯っぽくアオイを見た結月が、にっこり笑って前方に手を向ける。その結月の紹介に重なるように、ミズキが顔だけで後ろを振り返った。
「いやー、こんなご挨拶で申し訳ありませんカグヤ様。もう知ってると思いますが、ミズキです。カグヤ様におかれましては、今後も是非ともイツキ様の手綱を握っていただいて……あ、いえすんません。まあ、ユヅキ様にもサク様の操縦をお任せしたいところなんですがぁ、なにせこの方が鉄砲玉みたいな方なもんでどうにもこうにも……」
「ちょっとミズキさん?」
途中、背後に目を向けたミズキが、気まずそうに言葉を濁した。そして最後は自らの主の愚痴を零し始める。
真後ろにいる主君の恋人の愚痴も全部口から出てくる。
その軽口に結月が文句をつけるが、それも本心から怒っているという感じはない。いつものことなんだろうな、とアオイは思う。
それとも、ミズキの性格によるものなのだろうか。
(ユヅキさんと、ミズキさんて、少し似てる……)
特に、言葉がポンポン出てくるところが。
アオイは言われたことを咀嚼するのに時間がかかるせいで、こんなに互いに言い合うことなんてできない。
そんな二人の関係性を、羨ましいな、と思う。
そして、普段からこんな風に言葉をかわし合う二人を想像してしまった。その傍らで苦虫を噛み潰したような顔をしている(かもしれない)サクの姿も。
(殿下、拗ねてそう、だな……)
そう考えたら、うっかり笑いがこみ上げてきてしまう。
言い合う結月とミズキを交互に眺めながら、次第にクスクス笑い始めたアオイを、全員が驚いたような顔で見ていた。
アオイの笑い声を聞いて「イツキ様には黙っておこう」と皆の心が一致したことなど露知らず、アオイたち一行は皇太子棟の門を揃って潜り抜けた。
途中、刃物を持って襲いかかってきた集団がいたが、ミズキが女性陣を背に腰の剣を抜いた時には、すでにユヅルが集団すべてを一撃で眠らせていた。
あっという間に終わってしまった捕物をアオイと結月はポカンとした表情で眺め、ミズキは気まずそうに頬を掻いていた。「やべー……つえぇ……」という呟きは結月にしか届いていなかった。
騒ぎを聞いて駆けつけてきた衛兵に賊を引き渡し、何事もなかったかのように門を通り抜けたのだ。
そしていま、アオイは結月とともに皇太子棟の庭を一望できる部屋に通され、お茶とお菓子でもてなされていた。
「皇太子棟の人たちはみんな優しいでしょ? 外から来たよくわからないわたしにまで、最初から親切だったんだよ」
「そう、なんです、ね……」
いきなりたくさんの人と触れ合ったアオイは、ぎこちない所作で手にした茶菓子を口に運ぶ。正面に座った結月から「かわいい〜リスみたーい持って帰りたーい」という声が聞こえてくるが、必死なアオイの耳はそれを全部すり抜けさせてしまう。
「駄目ですよ」
「え、だめですか?」
「駄目ですよ〜アオイ様はウチの坊ちゃまの大事な奥方様ですから」
「気が早いっすね」
ユヅルが結月に向かって首を振り、イサクがアオイにお茶のおかわりを注ぎながらにこやかに応じる。離れたところの椅子に腰掛けながら、ミズキがボソリと呟いた。アサギリはアオイの後ろでにこやかに状況を見ている。
自分の名前が聞こえてきたアオイは、食べていた茶菓子から顔を上げ、きょとんとしながら結月を見返した。
「さっきの話だけど……アオイちゃん誕生日っていつ? わたしはねー、秋なんだ。十一月十日。まあ、カレンダー……ええと暦? がアッチとコッチで違うから、コッチで正確に誕生日を祝うのは無理なんだけど……まあ、それはそれとして。アオイちゃんの誕生日にさ、イツキさんにさっきのハンドクリームお願いしてみたらどうかな?」
「誕生日……?」
耳慣れない言葉に、アオイは困惑したように視線を揺らした。
「うん、自分や、他の人が生まれた日」
「生まれた……日」
微笑みながら結月が補足をしてくれるけれど、答えらずに下を向く。
(誕生日……? そういうの、あるの……?)
「わ、わたしが生まれたのは、春だったって……両親からは、聞いて、います。でも……なんの月で、なんの日だったかは、わたし……知りま、せん」
目を丸くしたのは、結月だけではなかった。
室内にいる誰もが、アオイを見ていた。慣れない注目に、アオイの肩が小さく縮こまっていく。
誕生日、とはなんだろう。生まれた日を祝うとは、どういうことだろう。
アオイが生まれたところでは、春になったら春生まれの皆にいつもより少しだけ多めに食事が配られた。
特定の生まれた日をその人のためだけに祝うという習慣を、アオイは知らない。
この世界に暦というものがあるのも、カグヤに選ばれハクロウ家でみっちりしごかれたときに知ったのだ。
それすら、カグヤの務めを果たすために――神事を行うための日を知るためにあるのだと思っていた。
季節はただ巡るもので、一歳が過ぎれば一つ年を取る。
歳を重ねるためだけのもので、それ以上は神事のため。それ以下のことなどあるはずもなく。
カグヤになって以降も、祭祀礼館でアオイの誕生を祝うことなど、当たり前だがなかった。季節の巡りで一つ年齢が上がったのだと、それを事実としてただ受け止めていた。
故に――、
「う、生まれた日って、お祝いするものなんですか……?」




