拾捌
「だから、コイツが婚約者だなんて俺は認めてねぇ……はぁ、ああもう結月、いいからこっちに来い」
手のひらを上にして、サクが指を動かす。クイクイ動く指に気を取られている間に、両手が自由になった。
ユヅキと呼ばれた女性が、ぱたぱたと走るようにしてサクへと近寄っていく。
「サク様……喧嘩してませんでした?」
「してねぇよ……アイツが勝手にキレてるだけだ」
ピシッと音を立て、サクの寄りかかっていたソファの一部が凍った。氷がパキパキと広がり、あと少しでサクに触れるというところでパッと霧散する。
まるでなにかにかき消されたかのようだ。
「イツキ」
サクの声が一段低くなり、イツキを呼ぶ。彼の月色の長い髪が、僅かに発光しながらふわりと靡いている。
「……申し訳ありません。思わず」
「思わずで皇族に攻撃しかけんな。お前は俺の護衛だろうが」
サクの静かな声音は、先ほどまでイツキに向かい食って掛かっていた人物と同じとは到底思えないほどに、低く、重い。
ピリッと空気が微かに揺れた気がした。
アオイを抱きしめていた腕を解き、イツキが座ったまま拱手する。
「失礼いたしました」
先ほどまでのふざけた姿は鳴りを潜めている。自らの非を認め頭を下げるイツキを、アオイは眩しそうに見上げた。
イツキは、いつだって格好良い。けれど、真剣なこの表情を見ると、胸の奥が破裂しそうになるほど高鳴ってしまう。
「ッたく……もういい。で? お前、わざと噂されるようにソイツと歩き回ってただろ。なにがしたい」
顎をしゃくるようにして、サクがイツキを見る。虫を払うような仕草は、話を進めろという合図だろうか。
許可を出され顔を上げたイツキは、そのサクの鋭い眼差しを正面から受け止め、ふわりと微笑んだ。
「その前に、サク様。紹介をさせてください」
「あ?」
やたら低い声が、サクの口から漏れた。
眉を寄せる姿はなんともガラが悪い。
なんだか不機嫌そうだな、とアオイはイツキの腕の陰から思う。
「ユヅキ様、こちらがサク様の婚約者のアオイです。この国の宝でもあるカグヤの肩書きがあります。そして、俺の恋人です。アオイ、こちらの方は、ユヅキ様です。サク様の恋人で、迷い人だよ」
「こ、こん……こいび……迷い人!?」
イツキの紹介に、アオイは大きな瞳をさらに大きく見開いた。
アオイの顔は、白くなったり真っ赤になったり、蒼くなったりと忙しない。
自分が皇太子の婚約者ということも理解できないが、この状況も理解できない。
せっかくイツキと想いが通じ合ったのに、知らぬ間に婚約者ができていたことに対して、もっと怒ってもいいのかもしれない。
でもそれよりも"迷い人"という言葉のほうが衝撃的だった。
迷い人とは、数十年に一度ほどこの世界に紛れてしまう、異世界人のことだ。
カグヤの任に就く前、皇都中央へと旅立つ前に叩き込まれた知識がアオイの頭に蘇る。
前回迷い人が来たのは、確か九十年以上も前のことだったはずだ。
まさか、こんなところで会えるとは思っていなかった。
「あぁぁあ……イツキさん。混乱しちゃってますよ」
「ええ……混乱してるアオイも可愛いですね」
「そういうキャラだったんですね、イツキさんて」
「「きゃら?」」
サクとイツキの声が重なった。
人物像的なものですよーとニコニコ笑うユヅキを見つめ、サクの深い緑の瞳が緩やかに溶けていく。
それをイツキの陰から目にして、アオイは口を開いて固まった。
先ほどまでアオイに噛み付いていた人物とは思えない。物凄い変わり身の早さだ。
「取り敢えず、今後のことも含め話をしましょうか。アオイを混乱させたままなのも可哀想ですし」
ね? と横目で笑まれ、アオイはそっと視線を伏せた。
黒曜の瞳が潤みながら頬をうっすら染める姿に、イツキが喉を鳴らしたことには気が付かない。
小さく「おい」という低い声がアオイの耳に届く。
軽い咳払いの後に、イツキが左手を上げた。
間を置かずして、壁際のイサクが茶器を持って近づいてくる。
それを手にしたのはイツキだった。
「……イツキさんが、淹れるんです、か?」
慣れた手つきで茶葉を入れ、湯瓶に魔法で水を注ぎ入れる。それをイサクの炎で沸かし、茶葉に注いで蒸らしていく。
「うん。サク様には、俺が茶を淹れるって、決めてるんだ」
「イツキさんの淹れてくれるお茶、おいしいですよね」
対面から、ユヅキが明るい声で言う。
「そ、う……なんです、か……」
そこになんの含みもないと声を聞いてわかったはずなのに、アオイは思わず顔を伏せてしまう。
コクウ家にいるとき、皆に茶を淹れてくれるのはイサクだった。
イツキも、彼女の淹れる茶だけを飲んでいる。
当然、彼がコクウの家で茶を淹れることはない。なにせ、イツキはコクウ家の次期当主なのだから。
だが、ここでのイツキは皇太子の側近という扱いだ。上に立つ者ではあるけれど、さらにその上に立つ者に仕える身でもある。
だから、アオイは飲んだことがない。イツキが淹れるというそのお茶を。
なんとなくモヤモヤする胸の内を知られたくなくて、アオイは膝のうえで揃えた手をそうとわからないように握りしめた。
「ふふ……アオイに淹れるのは初めてだね。ちょっと緊張します。あなたのために特別おいしく淹れるから、感想教えてほしいな」
顔を覗き込むようにして、イツキがそう言った。
力の入った手の上に、そっと柔らかな熱が被せられる。パッと顔を上げたアオイの目に、少しはにかんだような表情のイツキが飛び込んでくる。
「っ、は、はい……!」
頬が、熱い。
どうしてだろう。
(胸の奥が、ぽかぽかする)
繋がれていない手を、そっと胸に当ててみた。少し早い鼓動が、アオイの内側で響いている。
何もかもわかったような顔をしているイツキに照れ臭さを感じながらも、アオイは口元に淡い笑みを浮かべた。
それは、皇王城に来てからイツキがようやく見れたアオイの笑みだった。
「ソイツのためじゃなくて俺のために淹れろよ」
「もー、そんなこと言うと馬に蹴られますよ」
「なんで俺が馬に蹴られなきゃなんねぇんだよ」
「ただの慣用句ですってば。……日本のだけど」
イツキが茶を淹れ終わるまでの間、対面でそんな会話が繰り広げられていたが、二人の耳には一切届いてはいなかった。
◇◇◇ ◇◇◇
「さて、ではお話の続きですが」
イツキの淹れたお茶はとても美味しかった。
それを伝えたくて、アオイは一生懸命イツキに話しかけた。
一頻り、「お、おいしいです……!」「ありがとうございます」「ほ、ほんとうに、おいしいです……っ」「うん、ありがとう」という遣り取りを二人で繰り返し、サクが呆れた様子で溜め息を吐いたところでイツキが口を開く。
つい数瞬前まで、蕩けるような笑みを浮かべていた人物とは思えない、切り替えの早さである。
「サク様が俺を……というより、アオイを呼んだのは、彼女との婚約の件ですよね?」
問いかけるイツキに向かい、サクが無言で頷く。
「いい加減、重い腰を上げる気になりました?」
「うるせぇな相変わらず。だが……まあ、そうだな。お前がわざとそこのチビと噂になるように仕向けやがったせいで、父上が祭祀礼館に使者を向けた」
一瞬、サクに向けたイツキの目が冷たく光る。「チビはチビだろ」と口の中で言い訳する声が聞こえてきたと思えば、部下であるはずのイツキの顔冷ややかな笑みが浮かんだ。
「なるほど? カグヤの管理はどうなっているんだと、そういうことですか」
イツキが、顎に手を当てる。考えるようなその表情は、サクに見せたもの以上に冷淡だ。
普通の人間なら、イツキの冷たさに怯えるのだろうが、アオイは違う。
おずおずとイツキの服の袖を掴み、クイッと引いた。
イツキの濃碧玉色の瞳が、アオイに向く瞬間に溶けて柔らかくなる。
「ん……どうしたの、アオイ?」
「あの……えっと……」
モジモジとするアオイを、イツキは決して急かさない。アオイが頑張って口を開く瞬間まで、ずっと待っていてくれる。
けれど、そうではない人間がここにはいた。
「チッ……いいからさっさと喋れ」
「ぴえっ……あ、うう……」
肩を跳ねさせイツキの陰に隠れたアオイを視界に捉え、サクは再度舌打ちをした。今度は視線を伏せて顔を逸らす。
サクは、愚鈍な人間が嫌いだ。
だから、怯えてオドオドするアオイを見ていると、無性に苛つくのだ。
故に、どうしてもアオイへの当たりが強くなる。これだけは、どうしようとも改められない。相性の問題だからだ。
これでも、なるべくキツくならないように気をつけてはいるのだが、如何せんアオイには通じない。
サクの努力に気づいているはずのイツキは、アオイ優先で今は一切妥協してくれない。いつもなら、仕方ないで済ませるようなことであろうとも。
特にアオイが絡んだ時のイツキの心の狭さは、一級品だと感じている。
イツキの袖に隠れてモジモジしているアオイを掠めるように横目で見て、サクは深く溜め息を吐いた。
隣に座っている結月がそんなサクの姿を見上げ、困ったように笑っている。
「サク様。そんなふうに言われたら、誰でも萎縮しちゃいます。もっと柔らかく言ってあげて?」
「……無理」
呟いたサクの頬に、結月の温かな体温が触れた。もう……仕方ない人ね。そんなことを囁いて、ゆっくりと撫でられる。
それだけで、ささくれ立っていた心がスッと凪いでしまうのだから、不思議で仕方ない。もうサクは、どうあっても結月に頭が上がらない。これから一生、上がる気がしない。
だが、いくら愛しい女の頼みでも、サクがアオイにこれ以上譲歩することはどうしてもできない。
たとえ相手がカグヤだとしてもだ。
元平民のくせに今は己よりも立場が上だから、だとかそういう僻みも一切ない。
カグヤとはそういう存在なのだと、幼少の頃から叩き込まれているから。
だからこれは本当に、サクとアオイの性格によるものなのだ。
やはり"相性が悪い"の一言に尽きる。
だから、そう。もう、そういうことなのだろう。
「あ、あの……イツキ、さん。どうして、わたし……婚約? してるんですか? い、いつから……?」
アオイが必死になって絞り出した声は、みっともなく震えて掠れていた。
それでも、聞きたいことをちゃんと言葉にして言えたことで、アオイの心は僅かばかり高揚していた。
頬が、染まるように高揚していて、イツキがまた喉を鳴らす。
思わずというように動いた腕は、しっかりとアオイの体を閉じ込める。
「アオイがカグヤになった日から、だよ。ですよね? 殿下。カグヤは国の宝。昔から、カグヤになった方は皇族と……特に高位の皇族や皇族に近しい身分の名家の者と結婚しているんです」
「……平民、なのに?」
「カグヤとは、そういう存在だ。言ってただろうがソイツが。国の宝だってな。だから、六年前に俺とテメ……お前の婚約が勝手になされた」
「……六年、前。……わたし、まだ十歳、です。それに、なにも知りま、せん……」
言葉をつっかえながらも、アオイはサクに向かい会話をつなげる。
サクの目が微かに開かれた。アオイを見る瞳の奥に、ほんの少しだけれど感情が乗ったように見える。
路傍の石からは少しだけ遠のいたような、そんな気がする。
サクが、片手で結月の腰を引き寄せながら、ドカリとソファの背もたれに肩ひじを乗せる。そのまま足を組み、値踏みするようにアオイを見下ろした。
無意識に、アオイは背筋を伸ばした。
サクの腕の中では、結月が固まっている。白い肌が真っ赤だ。
イツキが隣から手を伸ばし、アオイの手をすっぽりと包み込む。温かなそれに、微かな震えが引いていく。
「なにも知らねぇ、ね……。まあ、お前の境遇はイツキから聞いた。祭祀礼館に任せきりで、皇族としてなにもしなかったことは、素直に謝罪してやる。悪かった。とりあえず今のこの状況を一通り説明してやるから、聞いておけ」
まず、サクとアオイの婚約はアオイが十歳の魔力測定でカグヤと判明してから、皇王が急速に進めたものだ。
アオイが皇都の祭祀官寝舎に辿り着いた頃には、あとは双方の署名、捺印または血判だけで完了するように書面さえも作成済みだった。
アオイは当時のことを反芻する。
あの日から自分の置かれている状況は、何もかもが変わってしまった。
ハクロウ家から迎えが来て、大きな屋敷のなかにある小さな建物に押し込められ、寝るときと食べるとき以外はほとんど勉強させられていた。
すぐに皇都に送り届けられると思っていたが、実際は三ヶ月ほどハクロウ家に滞在し行儀作法から歴史経済までを叩き込まれていたのだ。
その間に、平民だったアオイは名家ハクロウ家の養女になっていた。それと並行して、婚約の話も進んでいたのかもしれない。
アオイは当時まだ十歳。成人前のため、祭祀官長が親代わりとなり署名をしていた。アオイを引き取ったハクロウ家も了承済みだったそうだ。
そして、サクはと言えば――、
「……チッ。騙されたんだ。陛下に。知らねぇ間に俺の印璽を使って押してやがった」
吐き捨てるように言うサクに、アオイは少しだけ同情した。
当時の皇太子は確か二十歳になったばかりだったはず。立太子したのは成人した十八歳の頃だから、力もまだそんなには無かったのではないだろうか。
皇太子の印璽とは公的な効力を持つ公印だ。皇王の玉璽と似たようなものだが、皇王よりは効果が低い。
けれど、その書面に、皇太子殿下玉璽と皇王陛下玉璽が並んで押されていた場合は、きっととてつもない効力を発するだろう。
そして、アオイ側にはこの国の二大権力の一つである祭祀礼館の最高官長が署名している。更に、名家八家の上位に当たるハクロウ家の署名や印があれば、覆すことは困難だろう。
そこに例え、両者の同意がなかったとしても。
「ですが、当事者になにも言わず婚約を成立させるのは明らかに犯罪ですし、公文書の偽造罪にも相当します。どうにかしてその時の原本を手に入れて、陛下方に突きつけねばなりません」
サクに応えるイツキの声音は、どこまでも冷たかった。思わずアオイが抱きしめた腕に、イツキがそっと触れる。
「俺は、こんな子どもと結婚するつもりはねぇ。というか、そもそもコイツと合う気がしねぇ。俺がこの世で愛しているのはただ一人、結月だけだ。だから、いい加減お前との婚約を破棄させてもらう」
愛してるという言葉に、結月だけではなくアオイまで照れたように顔を赤くした。
イツキの視線が鋭くアオイに突き刺さる。けれど、真っ赤な顔でイツキの腕に擦り寄るアオイを見て、すぐに甘く溶けていく。
「婚約、破棄……」
イツキの袖の陰で、アオイがポツリと呟いた。
「破棄ではなく、白紙にできるのが一番ですけどね。"この婚約成立書にはなにも効力はありません"という感じで」
「ですよねー。破棄だとなんか汚点みたいですけど、白紙なら元からなかったことにできますし。それにわたしも、いつまでも愛人枠なのはちょっと……」
イツキにポンポンと返す結月の声はとても明るい。
「サク様、少々宜しいですか」
「あ? なんだ」
一度アオイの頭を撫でたイツキが、ソファから立ち上がりサクの元へと歩き出す。
サクは名残惜しそうに結月を離してから、座ったままイツキに向かい合った。
男二人が何かを話している間、ソファに取り残された女二人は互いに相手をジッと見ていた。
耐えきれなくなったのはアオイだ。ぷるぷる震えながら、視線を下に向けて逸らしてしまう。
カタンと音がした。
そして、視線の先に不思議な形の靴先が映り込む。
「隣、座ってもいい?」
顔を上げれば、柔らかく微笑んだ結月が、今までイツキが座っていた場所を指差して、アオイを見下ろしていた。




