廿壱
「アオイ様、俺と逢い引きしましょう。ああもちろん、イサクとアサギリも連れて。ヤゲンはイツキ様と留守番だ」
「……へ?」
「はあ!?」
皇王城から戻ってきて三日ほどだった頃、朝の食事をイツキと摂っている最中に、アオイの後ろの壁際に立っていたユヅルがそんなことを言った。
カラーンとイツキの手から器が落ち、床を転がっていく。
アサギリが慌てて追いかけて拾い、欠けていないことを確かめてからホッとしたように息を吐いた。そして、頭を下げて部屋を出ていく。おそらく新しい食器を取りに行ったのだろう。
アオイはといえば、そこまで驚いた様子ではなかった。
なぜなら皇王城に行く直前にもユヅルはそのようなことを告げていたから。そしてアオイは、既にユヅルと出かけることを心に決めていたからだ。
ただ、それがいつ頃決行されるものなのかを知らされていなかったせいで、少し驚いてしまったのだ。
「今日、ですか……?」
「はい。難しいでしょうか?」
小さな声で尋ねるアオイに、ユヅルが真面目な様子で首を縦に振る。
僅かな上目遣いで伺うように問われ、アオイは横目でイツキの方を見た。
今日は、週の最後の日だ。つまりは休日。
珍しく、イツキも仕事がないのか朝から家にいた。久しぶりの二人きりの朝食の場だった。
起きてから今まで、イツキはアオイの後ろを付いて回っていた。朝食前にアオイと中庭に訪れ、家庭菜園と朝告鶏の世話をするアオイを視界に収めながら、自身も剣と魔法の鍛錬に励んでいた。
それから、部屋に戻って軽く汗を流し、着替えをしてからアオイと連れ立って朝餉の間にやってきたのだ。
もちろん、お互いが何かする時以外はずっと手を繋いだままだった。
きっとこの後、食事が終わってからもイツキはアオイから離れるつもりがないのだろうと、彼女自身も考えていたところだ。
そんなイツキが、急に言われてアオイの外出の許可を出すだろうか。それも名目上はユヅルとのデートだ。
いくらイサクとアサギリが付いてくるため二人きりの外出ではないとしても……、
(イツキさん……怒ってないかなぁ)
箸をパクリと咥えながら、アオイは再び視線だけをイツキに向けた。
食器を取り落としたイツは、まだ固まっていた。
そこにアサギリが戻ってきて、イツキの表情を伺いながら新しい器を置いていく。
陶器の皿でなくて良かったと、アオイは思った。コクウ領は木が豊富なため、食器も木製のものが多い。落としたら欠けることはあるかもしれないが、派手に砕けることはない。
「アオイ……行くんですか?」
「え、あ……はい」
押し殺したようなイツキの声が、隣から聞こえてくる。頷いた途端、ズズッと椅子が引かれ、距離が近くなった。
食事をするにはあまりにも適切ではない距離だ。お互いの膝どころか、体の片側が完全にくっつくほどの距離。
触れた肩や腕の熱さに、アオイの頬が赤くなる。
「本当に……? デート、なんですよね? アオイ、デートの意味わかってる? 俺以外とデートなんてしちゃ駄目なんですよ……?」
「え……えと。デート……かどうかは、置いておいて、ユヅルさんと、お出かけは、します……」
辿々しくも、自分の意思で言葉を紡ぐアオイに、イツキが絶望の顔を見せる。
どうしようと眉を下げるアオイの頬に、イツキの手のひらが伸びた。すっぽりと包み込むそれは、少し冷たく微かに震えている。
「あの……イツキさ……ンぅ……?」
切ない瞳をしたイツキの顔がやたら近いなと思った瞬間、唇を重ねられ、アオイの喉から艶を帯びた声が零れ落ちる。
いちど離れ、間を空けずになんども唇を押し当てられる。
息が続かず薄く開いた隙間から湿った柔らかなものが忍び込んで来て、アオイの細い肩がビクリと跳ねた。
「んん……っ!?」
触れ合って、先の方で擽られ、優しく絡め取られ舌先だけを吸われる。
ひと息に詰めるのではなく、アオイを怖がらせないように少しずつ、少しずつイツキは彼女を陥落させていく。
直前まで食べていた朝餉の味が、舌を通ってアオイの奥へふわりと染み込んでいく。
「……そこまでです、坊ちゃま!」
「食事中でしょうが。なにしてるんですかイツキ様」
アオイの滲んだ視界の端で、イサクとユヅルが額に青筋を立ててイツキを見下ろしている。
イサクの腕が伸び、イツキの顎をガッと掴んだ。
ユヅルがアオイの肩に手を置いて、後ろへと引き寄せた。
強引に解かれた口付けを名残惜しむように、ふたりの間に銀糸が繋がった。切れて、落ちる。
アオイの唇を濡らしたそれを、イツキの指先が優しく拭い取る。
その表情は、とても不服そうだ。物足りないと書いてある気がする。アオイはもう、息も絶え絶えで心臓が破裂しそうなのに。
部屋の隅では、アサギリとヤゲンがふたり並んで壁の方を向いていた。ふたりとも顔が赤い。ヤゲンの腕が、アサギリの腰をさりげなく抱いているのが目に入る。
かく言うアサギリは顔を両手で覆って下を向いていた。微かに震えているように見える。夫婦仲が良いようで微笑ましい。
「言っておきますけどね坊ちゃま。アオイ様はまだ婚約者でもなんでもなく、それ以前の恋人という関係なのだと、ご自覚なさいませ!」
「恋人なら、口付けくらいするだろ」
「使用人や平民であればそうかもですけどね。坊ちゃまは御曹司です! あと一応、アオイ様にも別に婚約者がいることをお忘れなく!」
「その婚約者であらせられるところの殿下が、ユヅキ様とアレコレなさっているんだが? まあ、御子ができるようなことはしていないだろうが」
イツキの物言いに、アオイの頬がカッと熱くなる。
そのアオイの耳を、ユヅルがそっと両手で押さえた。
暗に、キスくらい見逃せと言っているイツキに、従者全員の溜息が重なる。
「健全なキスなら、見て見ぬふりくらいしますよまったく」
「さすがに不健全な口付けは見逃せない」
イサクの小言に、ユヅルの呆れが混ざる。
「坊ちゃまのせいで、アッチの夫婦もアテられちゃってるじゃないですか」
グギッと音がしそうなほど強引に、壁の方を向いたヤゲンとアサギリの方向へ顔を向かされる。イツキが秀麗な眉を痛みと他のなにかの感情で顰めるのを確認して、イサクが再度溜め息を吐いた。
「さぁさ、坊ちゃまもアオイ様も、朝餉を平らげてしまってください。このあとお出かけなんですから、アオイ様は準備がありますよ。坊ちゃまはここでこのまま仕事しててくださいね。あ、城の仕事ではなく、家の仕事ですから。溜まりに溜まってるんですよ」
「……坊ちゃまはやめろと言ってるでしょう」
パンパンと手を叩きながら、イサクが微妙な空気を仕切り始める。強引にイツキの座る椅子の位置を元に戻し、再び給仕へと戻っていく。とてつもなく剛腕。
妙な気恥ずかしさを覚えながら、アオイもまた目の前の食事を再開した。
食後の執務室にて、イツキはユヅルの肩を壁に押し付けていた。
いつも淡々とした仮面を被っているイツキは、感情を表に出すことがほとんどない。
どちらかというと、アオイに出会ってからのイツキが異常なのだ。
彼の表情を崩せるのは、いつだってアオイだけだ。
それから、戦闘時の緊迫した時だけ。
皇太子の護衛剣士をしているイツキだが、普段の立ち回りから文官程度だと侮られることがある。
コクウ家の嫡男を怒らせたらただでは済まない。笑みを見たものは生きていられない。
などという噂が一人歩きしているが、それが物理的なものだとは誰も考えないのだ。
イツキは、その肩書き通り、戦闘時には気が昂り凶暴化する。相手を屠るのに容赦はしないし、返り血を浴びることも忌避しない。いつだって冷酷に相手を見据えている。
アオイがいる――ただそれだけで、イツキの気性は今だいぶ抑えられているわけだが。
そのイツキから睨まれれば、普通の人間であれば泣いて許しを請うところ、ユヅルは慣れたように自身の主を見返した。
「デートってなんだユヅル」
「そのままの意味です。まあ、少しお買い物に行くだけですよ」
「かいもの……」
呆然とただ繰り返すイツキに、ユヅルは頓着しない。
肩を掴むイツキの手をさっさと払うと、逆に手のひらを上向けて主へと差し出した。
眉根を寄せたイツキが自身の手を乗せた瞬間、それを払い落とす。
「誰が手を乗せろと言った。アオイ様のお小遣いを用意してください」
淡々と話すユヅルに、イツキが不服そうに目を細める。払い落とされた片手を振りながら、それでもイツキは机の引き出しから布袋を取り出した。同時に、アオイ用にと購入した華やかな財布も。
「アオイには、俺から渡す。ちゃんと説明したいしな」
「わかりました」
イツキの宣言に、ユヅルが軽く頷く。主に向けられていた手のひらが、スッと引っ込められる。
「ユヅル……本当に、ただの買い物だな?」
念押しして確認する主の様子に、ユヅルは仕方ないなというように笑みを見せた。
普段は感情を排したような男のくせに、彼女のことになると本当に表情が変わる。
幼少の頃から共にいるが、こんなにわかりやすく反応するイツキに出会うのは初めてだ。
主がアオイに出会ってから――いや、アオイがこの屋敷に連れてこられてから、ユヅルはイツキの初めてをたくさん見つけている。
それをとても、嬉しいと思ってしまう。
「俺は、アオイ様のことを可愛らしい妹のように思っていますよ」
本当に。ユヅルにとっては、イツキも手のかかる弟のようなものだ。イサクからしてみれば、ユヅルもそう大して変わらない手のかかる弟だろうが。
少しだけ、イサクの気持ちがユヅルにもわかってしまった。
「ああ、そうそうイツキ様」
「なんだ」
「アオイ様のお誕生日をご存知ですか?」
そろそろ頃合いだな、と思い執務室の扉へと向かうユヅルが、唐突にそんなことを口にする。
「いや……まだ聞いていなかったな。カグヤは春の生まれが多いが……それがどうした?」
不思議そうに眉を寄せながら、イツキは首を傾げた。
「アオイ様は、ご自身の誕生日を知らないそうですよ」
「……は?」
「生まれた時の状況は伺ったので、おそらく葉取り月の半ば以降ではないか、というところまでは絞れましたが。ちなみに、誕生日という概念もご存じありませんでした」
ふる……と、イツキの身体が震えた。片手で口元を覆い、ユヅルから視線を逸らす。僅かに俯いたその表情を、濃藍混じりの黒髪が覆い隠してしまう。
だから、ユヅルには主がどう思っているのかわからない。だが、想像することはできる。
(たぶん、怒り半分、悲しみ半分……というところだろう)
冷気が、自分の元まで漂ってくる。必死に、感情を抑えているのが手に取るようにわかる。
「……ハクロウ領の祭儀館に問い合わせれば、わかるはずだ。税の徴収のため、出生の届けを出すのは、国民の義務だからな。……たとえ、暦がなにかを知らずとも」
その日が何日なのか知らなくとも、祭儀館の人間に"いつ頃に産まれた"と言えば日付を特定するはずだ。税の徴収のためだけではない。カグヤを見つけるために、戸籍は必ず必要だから。
絞り出すようなイツキの声に、ユヅルはそうですねと頷いた。
「では、後ほど祭儀館に問い合わせをします」
「ああ……いや、ヤゲンに頼む」
「わかりました。では、そろそろお支度が終わりそうなので、俺は行きます」
拱手したユヅルが部屋を出る直前に、イツキに名を呼ばれた。
「アオイの誕生日は盛大に祝うからな」
アオイの小遣いを一袋分、彼女用の財布に移し替えながら、イツキが言う。
なにか強い決意をしたような瞳でそう口にする主に、ユヅルは小さく笑った。
「あまり盛大なものだと、アオイ様が青褪めて倒れますよ」
「……身内だけで、盛大にやる」
「そうですか。では、殿下はともかく、ユヅキ様はお呼びください。アオイ様もきっと喜ばれます」
「ともかくって、お前……まあいいです。しかし、ユヅキ様をお呼びしたら、サク様も芋づる式に付いてきそうだな」
この国の皇太子を芋づるに例えられるのは、この国に於いてきっとイツキだけだろう。自分のことは棚の上のさらに上のほうに押し上げて、ユヅルは苦笑する。
例えが畏れ多すぎるなと口の中で呟いて、彼はは執務室の扉を押し開けた。
準備の整った主がまだ納得のいかない顔で追いついてくるのを、ユヅルは内心で面白そうに見つめながら待つのだった。
◇◇◇ ◇◇◇
「はい、じゃあこれ」
そう言って手渡された可愛らしい財布を、アオイは不思議そうな顔で見返した。
「えっと……これ、は?」
「うん? アオイのお小遣いだよ」
「おこづかい……」
ほら早くと促され慌てて両手でそれを受け取る。想像よりもズッシリとした重みに、驚いて落としそうになってしまう。
危うくするりと手から抜け出そうとした財布は、イツキに手ごと包まれて無事だった。
「こ、こ、これ……こんな、大金……っ、いただけな……っ」
「大丈夫。これは、アオイが自分で稼いだ、正真正銘アオイのお金だから」
「ふえ……!? か、かせい、だ!? わ、わたしが……?」
イツキがなにを言っているのかわからない。いや、言葉自体はわかるのだが、そこに付随する意味がわからない。
(稼いだ? 稼いだって、どういうこと? わ、わたし……いつの間に、商売を……!?)
先日から、アオイはずっと驚きっぱなしである。知らぬ間に婚約者がいた事然り。こんどは知らぬ間にお金を稼いでいた。それも、財布を持つ手が震えるほどの重さのお金を。
蒼くなり、白くなるアオイの表情をジッと見つめながら、イツキは蕩けるような笑みを見せる。
その表情に"アオイがかわいい"と書いてあることを読み取ったのは、二人のやり取りを見ていた従者たちだけだったが。
「アオイのね、家庭菜園の野菜……と、果樹。コクウ家だけじゃ消費しきれなかったから、コッソリ市場で売ってたんだ。その売上金です。これはアオイの力で手に入れたお金だから、コクウ家の収入には含んでないよ。だから、アオイ自身の収入。アオイが自由にしていいお金。これで、アオイが欲しいと思ったもの、なんでも買っておいで」
野菜……とアオイの唇が呟いた。
まさか、あのスクスク育ちすぎている野菜を売っているとは思わなかった。
それに果樹とはなんだろう? そちらにはなにもしていないはずだが。
混乱するアオイの頭を、イツキがかわいいなぁと言いながら撫でる。
「で、で、でも、こんなにたくさん……」
「安心していいよ。これはほんの一部だから。ああ、持ち歩くのが心配なら、ユヅルに預けておこうか」
「そうですね。俺が預かりましょう」
うん、それなら安心だ。
そう考えて、慌てて頭を振る。
(えと、違う……そうじゃなくて……!)
「でも……あの……あの……っ」
ユヅルに財布を預け、両手の空いたイツキがアオイをそっと抱きしめる。
それだけで、どうしてこんなにも動揺していたのか、アオイはわからなくなってしまう。
「はぁ……本当は行かせたくないんですけど……。でも、アオイが自分で決めたことだからね。楽しんできてください。こんどは俺ともちゃんとデートしてくださいね」
低く、重く、耳元で囁かれ、アオイの頬が真っ赤に染まった。
おずおずとイツキの脇腹に手を伸ばし、服を掴む。
イツキの視界にはアオイしか映っていない。というよりもわざとアオイしか見ないようにしている。もちろん、アオイの視線はイツキにしか注がれない。アオイに関しては、他を見る余裕がない。
だから、外出の支度を万全に整えたイサクが、いつまでも抱き合う二人をさっさと引き剥がそうとしていることに気が付かない。イツキは気配で気づいているが。
それをアサギリが宥めすかしていることも、アオイにはわからない。
そうしてアオイの温もりを心ゆくまで堪能したイツキが渋々彼女を離すまで、暫しの時間を要したのだった。




