はじめての魔術14
チャイムが鳴り、講義が始まる。遅れてきた人が通路を通ってきたので、さりげなくバッグを手で隠しつつ、タオルハンカチの下でまったりしているシノちゃんをちょっと撫でた。プフッと満足そうな息が微かに聞こえてくる。
朝、シノちゃんの手相談義を遮って聞いたところによると、ちゃんと私の手は魔術的に清められていたらしい。テキストによると、何もしなければ2時間ほどは清められたままだそうだ。「血を用いた調合などをすればすぐに汚れるので清め直すべき」と書いてあったけれど、文系大学生である私にはもちろん血に触れる予定はない。なので、テキスト通りであれば私の手はまだ清められたままでいるようだ。
今日のテーマを書き写すためにまず書いたアスタリスク、その周りで欲しそうにしている謎生物をペンで阻止しつつ、自分の手を見る。
洗った後と同じように、普段との違いはどこにも見つけられなかった。洗った直後はすっきりした気持ちだったけれど、それは石鹸で洗ったからだ。それももう消えている。
全然自覚がない状態でやって大丈夫なんだろうか。
魔女としてやっていくわけではないので悩んでいるわけではないけれど、こんな状態で身の回りで起こる物騒なことを回避できるようになるのかはちょっと疑問だった。いっそシノちゃんを食べ物で釣って四六時中一緒にいてくれるようにお願いした方が効率がいい気がする。
とはいえ、シノちゃんはシノちゃんで生活があるだろうし、情報収集にでかけるのを引き留めるのもどうかと思う。例え朝昼の食べ物をタカリに来ていてもだ。
それに、シノちゃんの「私を狙う奴がいる」という説が本当であれば、やっぱり自分で自分を守れた方がいいだろう。ゲヒゲヒもいるし、神社のお守りもなるべく肌身離さず持っているけれど、相手が地球上の常識から大きく外れた存在なら何が起こるかわからない。せめて相手がお守りでどうにかできるレベルなのか、逃げるしかないレベルなのかくらい判別できるようになりたい。
ふとノートを見ると、紙の上をゲヒゲヒがグルグルと素早く動いていた。直線を上部に出し、しきりに1方向を指している。
開いたノートの左上に視線をずらしていくと、その先、横に長い固定された机と前の席の間くらいに、何かホコリのようなものが浮いている。タンポポの綿毛1本分くらいのサイズのそれは、やや灰色をしていて、落ちるでも飛んでいくでもなく、机のフチに沿うようにゆっくりとこちらに近付いてきていた。
なんか、アレだな。
テピちゃんたちが「てっ」攻撃をしたときに出してたやつに似てる。
手の届く距離に近付いてきたので、ゴミを落とすくらいの気持ちでなんとなくそれを左手で払い除ける。
手が当たった途端、ぱちっ、とごく軽い静電気みたいな音が聞こえた気がした。左手の甲を見ても汚れてはいない。床に落ちたのか、綿毛もどきも消えていた。ノートの上では、ゲヒゲヒがマルのマークをサッと掲げている。私が指で取ろうとすると、サッとマークを懐にしまってグルグル逃げていた。
講義が中盤に入り、教授が雑談し始めた頃には、それがただのホコリじゃなかったということがよく分かった。
あれからちょくちょく灰色の綿毛もどきが机の端を流れてくるのである。その度にゲヒゲヒが教えてくれるし、さっと払うと軽い音と共に消えるので実害があったわけではないけれど、近付いてくるたびに集中力が途切れるので微妙に邪魔だ。
そもそもどこから来てるんだろう、と左側に視線を向けていくと、窓から何かが中を覗いていた。
いや、覗いていたかどうかはちょっとわからない。「それ」が長方形で真っ黒な物体だったからだ。電源を切ったスマホの画面を畳くらいに大きくしたようなものが見えている。この講義室は5階だ。窓の外には街路樹しかない。
晴れていて外は明るいのに、そこだけ切り取ったように真っ黒で不気味だ。目というか凹凸すらも見えないのに「覗いている」感じがするのも不気味だ。結構大きいのに誰も気付いてなさそうなのも変だった。
目が離せずにいると、開いた窓の外にいるその黒いものの影から小さい灰色のものが出てきた。よく見ると私の座っている列の机だけでなく、他のところにも流れていっているようだ。離れた場所から「今なんか虫いた」と小さく聞こえてくる。
アレが原因というか犯人というかだったようだ。
私は黒い長方形を見つめつつ、手でバッグを探る。仰向けでくつろいでいたシノちゃんをどうにか起こすと、もぞもぞ動いたシノちゃんがバッグから顔を出すのが感触でわかった。
「……殺すぞ」
パッと闇色の長方形が消える。
シノちゃんの発した殺意マシマシな声が、私の声とは似ても似つかない、野太い男の人の声だったのは私にとっては幸いだろうか。
結構響いた声に、私の周囲の人がビクッと驚いていた。キョロキョロと見回しているし、近くに座っていた大柄な男子学生が疑いの目で見られて「俺じゃねーよ」と焦っていた。
講義中に物騒発言をしたと疑われた人には申し訳ないけれど、シノちゃんの一言で謎の灰色綿毛製造機が消えたのはよかった。教室がちょっと明るくなった気がする。
講義が終わっても物騒発言でいじられていた男子学生には、お詫びの気持ちも込めて個包装チョコを5つほどあげた。男子学生は「空腹でイライラしてたとかじゃないから……」としょんぼりしながら食べ始めたので、「違う人の声だったと思うよ」と慰めておく。うちのシノちゃんですすみません。
移動しながら、シノちゃんにも「ありがとう」とこっそり伝えておいた。また仰向けになっていたシノちゃんは「手洗イ励行ダヨ〜」と小声で返事してくる。
手洗い励行。
つまり、今の綿毛によって、何かしら手が汚れたのだろうか。
やっぱり見た目の違いがない手を眺めてから、私は次の講義の前にお手洗いに寄ることにした。




