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「はぁ……はぁ……はぁ……」
田中健太は、息を切らしながら草原を走っていた。
背後から聞こえる獣の唸り声。
振り返る余裕などない。
「なんなんだよ、あれ!」
先ほどまで自分を追いかけてきていたのは、犬のような生き物だった。
ただし、普通の犬ではない。
体長は一メートルを超えている。赤黒い毛並みに、鋭い牙。そして、普通の犬とは思えないほどの大きな体格。
あんなものに噛みつかれたら、ただでは済まない。
「夢だろ! 絶対に夢だろ!」
そう叫びながら走り続ける。
しかし、どれだけ走っても目が覚める気配はなかった。
どれくらい走っただろうか。
ようやく獣の気配が遠ざかった。
健太は大きな木の陰に身を隠し、その場に座り込んだ。
「はぁ……死ぬかと思った……」
心臓が激しく脈打っている。
少し落ち着いてから、健太は周囲を確認した。
見渡す限りの草原。
遠くには森があり、見たこともない鳥のような生き物が空を飛んでいる。
「……マジでどこなんだよ、ここ」
持ち物は身につけてい服だけだ。
「最悪だ……」
昨日は失恋して、やけ酒をして、食べ過ぎて寝た。
それだけだったはずだ。
なのに、どうしてこんなことになっているのか。
考えても答えは出ない。
「とりあえず、人を探すか」
人間がいるなら、ここがどこなのか聞けるかもしれない。
健太は立ち上がり、歩き始めた。
しばらく歩いていると、遠くに馬車らしきものが見えた。
「おっ!」
人だ。
健太は急いで近づいていく。
馬車を引いているのは、二頭の馬。
荷台には木箱や麻袋が積まれていた。
その横を歩いているのは、四十代くらいの男性だった。
商人だろうか。
「すみません!」
健太が声をかけると、男性は振り返った。
「ん? なんだ、お前さん?」
「ここってどこですか?」
男性は不思議そうな顔をした。
「……は?」
「えっと、日本って分かります? 日本」
「ニホン?」
男性は首を傾げた。
「すみません、近くに町とかありますか?」
「お前さん、どこの出身だ?」
「え?」
今度は男性が何かを話している。
しかし、健太には理解できなかった。
知らない言葉だ。
英語でもない。
少なくとも、学校で習った外国語ではなかった。
「……えっと、すみません。もう一度お願いします」
男性は少し困ったような表情を浮かべた。
そして、手を振って何かを言うと、馬車を進め始めた。
「あっ、ちょっと!」
健太も追いかけようとしたが、男性は相手にしてくれなかった。
馬車はそのまま遠ざかっていく。
「……言葉が通じないのかよ」
健太は頭を抱えた。
これはかなりまずい。
外国に来たというだけならまだいい。
しかし、ここがどこの国なのかも分からない。
そもそも、さっきの男性の言葉は聞いたこともないものだった。
「……どうすんだ、これ」
とりあえず、人がいる場所を探すしかない。
健太は馬車が進んでいった方向を確認した。
地面には、何度も馬車が通ったような跡が残っている。
道らしい道だ。
「こっちに行けば、何かあるだろ」
そう考え、健太は歩き始めた。
道らしき場所を歩き続けていると、日が傾き始めた。
「腹減った……」
そういえば、昨夜食べたものから何も口にしていない。
空腹を感じた健太は、自分の腹を押さえた。
「コンビニでもあればなぁ……」
おにぎりでもいい。
カップラーメンでもいい。
何でもいいから食べたい。
しかし、目の前にあるのは草原と森だけだった。
「……帰りたい」
自然とそんな言葉が漏れた。
そのときだった。
ガサッ。
「ん?」
道の脇にある茂みが揺れた。
健太は足を止める。
まさかと思いながら、ゆっくりと視線を向けた。
そこから現れたのは、先ほどと同じような獣だった。
いや、先ほどの個体よりも大きい。
全長は一メートルを軽く超えている。
口からは鋭い牙が覗き、涎が垂れていた。
「…………」
獣と目が合った。
グルルルル……。
「いやいやいや……」
健太はゆっくりと後ずさった。
獣もこちらを見ながら、一歩ずつ近づいてくる。
「ちょっと待ってくれよ……」
その瞬間。
獣が地面を蹴った。
「うわああああああっ!」
健太は全力で走り出した。
背後から獣の足音が迫ってくる。
ドドドドドッ!
「なんで俺ばっかり追いかけてくるんだよ!」
必死に走る。
道を外れて草むらに飛び込む。
木々の間を抜け、転びそうになりながらも走り続けた。
一度だけ振り返る。
まだ追ってきている。
「しつこい!」
そのとき、目の前に大きな岩が見えた。
健太は咄嗟に岩の裏側へ回り込む。
そして、近くにあった木の陰に身を隠した。
息を殺す。
ドドドド……。
足音が近づいてくる。
獣は岩の周囲をうろついているようだった。
「…………」
健太は口を押さえた。
やがて足音が遠ざかっていく。
それでも動かなかった。
数分ほど待ち、ようやく周囲が静かになったことを確認する。
「……行ったか?」
恐る恐る顔を出す。
獣の姿はなかった。
「はぁぁぁ……」
健太はその場に座り込んだ。
「もう嫌だ……帰りたい……」
しかし、帰る方法など分からない。
そもそも、どうやってここに来たのかさえ分からないのだ。
健太はしばらく岩にもたれかかっていた。
そして、気持ちを切り替えるように立ち上がる。
「……人がいる場所を探そう」
今度こそ、慎重に進むことにした。
さらに歩き続けた頃。
遠くに何かが見えてきた。
「……ん?」
健太は目を細める。
遠くに、石造りの建物が並んでいる。
その周囲には高い壁があり、壁の一部には大きな門が見えた。
人影もある。
馬車も通っている。
「……街?」
健太の足が自然と速くなった。
ようやく人がいる場所を見つけた。
これで助かるかもしれない。
そう思った健太は、街へ向かって歩き始めた。
近づくにつれて、その大きさが分かってくる。
高い石壁。
大きな門。
門の前には武器を持った男たちが立っている。
その姿は、まるで映画やゲームに出てくる兵士のようだった。
「……すげえ」
思わず呟く。
門の近くでは、様々な格好をした人たちが行き交っていた。
剣を腰に下げた男。
大きな荷物を背負った女性。
見たこともない服装の人たち。
そして、その中には人間ではないような姿をした者もいた。
頭に獣の耳が生えている女性。
大きな角を持つ男性。
「…………」
健太は立ち止まった。
何度も目を擦る。
それでも景色は変わらない。
「……マジかよ」
もしかして。
いや、そんな馬鹿な。
しかし、ここまで来てしまった以上、認めざるを得ない。
自分は知らない世界にいる。
そして、ここは日本ではない。
門の前に立つ兵士が健太に気づいた。
「おい! そこの者!」
声をかけられた。
もちろん、何を言っているのかは分からない。
健太は苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと近づいた。
「えっと……すみません」
こうして、田中健太の異世界生活は始まった。




