プロローグ
田中健太、二十歳。
どこにでもいる、ごく普通の会社員だった。
特別な才能があるわけでもない。容姿が優れているわけでもない。運動が得意なわけでもない。
毎朝起きて会社に行き、仕事をして、帰宅する。
そんな代わり映えのしない毎日を送っていた。
ただ、一つだけ楽しみにしていることがあった。
同じ会社で働いている女の子の存在だ。
彼女とは何度か話したことがある。仕事の相談をされたり、休憩時間に雑談をしたり。
健太は、もしかしたら自分にもチャンスがあるのではないかと思っていた。
そして今日。
思い切って告白した。
「ごめんなさい。田中さんのこと、そういう目では見られないです」
「……そっか」
予想していなかったわけではない。
それでも、実際に断られると胸にくるものがあった。
「すみません。これからも会社では普通に接してくださいね」
「うん。もちろん」
笑顔で答えた。
彼女が去っていく背中を見送りながら、健太は小さく息を吐いた。
「……はぁ」
情けない。
本当に情けない。
その日の仕事を終えた健太は、まっすぐ帰宅する気になれなかった。
気がつけば、近所の飲食店で食事をしていた。
酒を注文し、料理を注文する。
一品食べ終わると、また次の料理を頼んだ。
「……もう、どうでもいいや」
普段なら気にするカロリーも、明日の仕事も、今はどうでもよかった。
好きなものを食べて、好きなだけ飲む。
それだけが今の健太にできることだった。
その後、コンビニにも立ち寄った。
弁当、カップラーメン、菓子パン、スナック菓子。
気がつけば両手いっぱいに買い込んでいた。
自宅に戻ると、それらをテーブルに並べる。
「いただきます」
誰もいない部屋で、健太は一人食べ続けた。
腹がいっぱいになった。
酒も回ってきた。
「……もう寝よう」
ベッドに倒れ込む。
明日になれば、また仕事だ。
そんなことを考えながら、健太は目を閉じた。
そして、そのまま眠りについた。
どれくらい時間が経っただろうか。
「……ん?」
健太は違和感を覚えた。
なんだか寒い。
いつもの部屋なら、エアコンをつけているはずなのに。
「……エアコン、切ったっけ?」
目を開ける。
そこには見慣れた天井がなかった。
代わりに広がっていたのは、青い空。
「…………は?」
健太はゆっくりと上半身を起こした。
周囲には草が生い茂り、遠くには見たこともない森が広がっている。
そして、少し離れた場所には石造りの建物が見えた。
「…………え?」
夢だろうか。
そう思って頬をつねる。
痛い。
もう一度つねる。
やっぱり痛い。
「いやいやいや……」
健太は慌てて立ち上がった。
周囲を見渡す。
人の姿はない。
車もない。
電柱もない。
スマートフォンを取り出そうとポケットを探るが、見つからない。
財布もない。
あるのは、昨夜着ていた服だけだった。
「……どこだよ、ここ」
そのときだった。
ガサッ。
背後の草むらが揺れた。
「ん?」
振り返ると、そこには見たこともない生き物がいた。
犬のような姿をしている。
しかし、普通の犬ではない。
赤黒い毛並みに、鋭い牙。
そして、人間を警戒するような目。
「…………犬?」
グルルルル……。
「いや、待て待て」
その生き物は、明らかにこちらを狙っていた。
健太は後ずさる。
「冗談だろ……」
次の瞬間。
生き物が飛びかかってきた。
「うわああああああっ!!」
健太は無我夢中で走り出した。
何が起きているのか分からない。
どうしてこんな場所にいるのかも分からない。
ただ、一つだけ分かることがあった。
ここは、自分の知っている世界ではない。
そして、この日。
田中健太の普通だった人生は終わりを告げた。
後に彼が約十以上年間を過ごすことになる異世界での生活。
それは、最悪の目覚めから始まったのだった。




