10
冒険者組合で依頼を受けた俺たちは、街の外へ出てゴブリンが出没するという場所へ向かっていた。
腰には、今日買ったばかりの短剣がある。
武器を持つのも、魔物を討伐するのも初めてだ。
「師匠、ゴブリンってどんな魔物なんですか?」
「小柄な人型の魔物だ。知能はそれなりにあるが、基本的には弱い部類だな。ただし、群れで行動することが多い。油断すれば普通に殺されるぞ」
「分かりました」
「それと、今回はお前がトドメを刺せ」
「えっ?」
思わず足が止まった。
「俺が……ですか?」
「当たり前だろ。冒険者になるんだぞ。魔物を倒せなきゃ話にならねぇ」
「そ、それはそうですけど……」
頭では分かっている。
この世界で生きていくには、魔物と戦わなければならない。冒険者として依頼を受けるなら、なおさらだ。
だけど、実際に生き物を殺すとなると話は違う。
日本で暮らしていた頃、俺は自分の手で生き物を殺した経験なんてほとんどなかった。
魚を捌いたことだってない。
そんな俺が、これから魔物とはいえ生き物を殺すのだ。
「おい、ケン。何を考えてる?」
「いえ……ちょっと不安で」
「ふん。まあ、そんなもんか」
ルーナは少しだけ俺の顔を見た。
「ちょうどゴブリンの巣が近い。そこで練習するぞ」
「練習って……」
「行けば分かる」
森の中をしばらく進むと、木々の間から小さな洞窟が見えてきた。
その周辺には、粗末な武器を持った緑色の魔物が数匹うろついている。
「あれがゴブリンだ」
ルーナが小声で教えてくれた。
俺は息を潜めて様子をうかがう。
身長は子供くらいだろうか。緑色の肌に大きな耳、醜い顔をしている。手には棍棒や錆びた剣のようなものを持っていた。
「何匹いるんですか?」
「今見えるのは三匹だな。洞窟の中にもいるだろうが、今日はそこまで相手にしなくていい」
「分かりました」
「よし、行くぞ」
ルーナが一歩前に出る。
その瞬間、ゴブリンの一匹がこちらに気づいた。
「ギャッ!」
奇妙な声を上げ、こちらへ向かってくる。
「来るぞ!」
俺は短剣を握りしめた。
しかし、足が動かない。
ルーナが指先を軽く振ると、ゴブリンの足元に魔法が走った。
「ギャッ!?」
ゴブリンの体が地面に転がる。
どうやら、魔法で動きを封じたらしい。
「ほら、ケン。今だ」
「えっ……」
「トドメを刺せ」
俺は短剣を握ったまま、倒れているゴブリンを見つめた。
目の前にいるのは魔物だ。
人間を襲う危険な存在。
それなのに、いざ自分が手を下すとなると、どうしても躊躇してしまう。
「早くしろ」
「で、でも……」
「何を迷ってやがる」
「本当に殺すんですか……?」
ルーナの表情が少し険しくなった。
「生きるためだ。殺せ」
「……!」
「お前はこの世界で生きていくんだろ?」
俺は返事ができなかった。
ルーナは倒れているゴブリンを見下ろしながら続ける。
「お前の世界じゃどうだったか知らねぇが、こいつらは人間を襲う。放っておけば誰かが殺されることもある」
「それは……分かっています」
「だったらやれ」
俺は短剣を握る手に力を込めた。
しかし、どうしても踏み出せない。
そんな俺を見て、ルーナはため息をついた。
「仕方ねぇな。今回は俺様が弱らせてやる。お前はトドメだけ刺せ」
ルーナが手をかざす。
次の瞬間、ゴブリンの体がびくりと震え、動きが鈍くなった。
「これなら抵抗できねぇ。あとは短剣でやれ」
「……」
「ケン」
「はい」
「おめぇの世界でも、生き物を殺して食ってるんじゃねぇのか?」
「え?」
「肉を食うだろ。生き物を、誰かが殺して食べられるようにしてる。お前だって、それを食って生きてきたんじゃねぇのか?」
俺は何も言えなかった。
確かにそうだ。
スーパーに並んでいる肉だって、元は生きていた動物だ。俺はそれを当たり前のように買って食べていた。
「それと同じだ。この世界では生きるためには殺すしかない。魔物だって人間を殺す。お前が生き残りたければ、覚悟を決めろ」
ルーナの言葉は厳しかった。
だけど、間違ってはいないと思う。
俺はこの世界に来てから、何度も魔物に襲われた。
あのとき、もし逃げ切れなかったら、俺は死んでいたかもしれない。
この世界では、ただ生きているだけでも危険がある。
誰かに守ってもらうだけでは、いつか限界が来る。
「……分かりました」
俺はゆっくりとゴブリンに近づいた。
短剣を両手で握る。
怖い。
手が震える。
それでも、ここで逃げるわけにはいかない。
「いきます……!」
俺は目を閉じず、短剣を振り下ろした。
ゴブリンの体が一度大きく動き、それから静かになった。
……終わった。
俺は短剣を持ったまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が乱れている。
魔物を倒したという達成感はない。
ただ、胸の奥に嫌な感覚が残っていた。
「よくやった」
ルーナが俺の肩を軽く叩いた。
「これで一匹だ」
「……はい」
「あと、慣れるまでやるぞ」
「えっ?」
「躊躇うな。今日はそれだけやれ」
「今日だけで、ですか?」
「そうだ。何度も経験しろ。いつまでも迷ってたら、お前が殺される」
ルーナは洞窟の方を見た。
「ちょうどゴブリンの巣が近い。まだ何匹もいるだろうな」
「……分かりました」
俺は短剣を握り直した。
正直、今すぐ帰りたかった。
でも、帰るわけにはいかない。
この世界で生きていくと決めたのは自分だ。
だったら、覚悟を決めなければならない。
俺はルーナの後を追い、ゴブリンの巣へと向かった。
異世界で初めて生き物を殺した日。
それは、俺にとって忘れられない一日になった。




