第8章 元ヒロインが復縁を迫ったら、悪役令嬢がおかしくなった
入口の休憩所で防具を着けていた律は、スマートフォンの着信表示を見て手を止めた。
小春だった。
隣で靴ひもを結んでいた芙実が、顔を上げた。
律は電話に出た。
「何か用か」
「律くん。今、ダンジョンにいる?」
「これから潜るところだけど」
「私たちも近くに来てて……一度だけ、一緒に入ってくれないかな」
小春は言葉を切り、息を弾ませた。
電話越しには足音も聞こえる。どこかを走っているらしい。
「前みたいにうまくいかなくて。今日も柚葉さんが敵を追うと、私たちが離れちゃって」
「そうか。それはそっちで何とかしてくれ」
「お願い。律くんがいれば、みんな落ち着けるから」
「戻るつもりはない」
電話の向こうで、足音が止まった。
小春は何か言いかけたが、言葉が出てこないようだった。
「もう切るぞ」
「待って! 新人の冒険者たちが、まだ下にいるの!」
律は防具の留め具から手を離した。
「どういうことだ」
「別のチームの人たちよ。上に逃げてきたところで私たちと一緒になって、今はフロストワイバーンに道を塞がれてるの」
「お前は?」
「助けを呼びに、補給所まで来たの。ほかにも頼んだけど、すぐ動ける人がいなくて……」
律は立ち上がった。
先にそれを言えと怒鳴りかけたが、まずは居場所を聞かなければならない。
小春たちがいるのは、隣の入口から入る迷宮だった。地上を通るより、補給所を結ぶ通路を使ったほうが近い。
律はそこで待つように伝え、電話を切った。
「救助に行く。待ってる人がいるんだ」
「私も行きます」
芙実は靴ひもを締め直し、立ち上がった。
「危ないぞ。上で待っていても――」
「上で、何も分からずに待つのは嫌です。無茶はしませんから」
律は芙実の装備を確かめた。昨日の練習でも、彼女は敵との距離を保って動けていた。
「俺より先に行かないでくれ」
「分かりました」
芙実は律に続いて通路に入った。
補給所には小春がいた。
駆け寄ってきた小春は、芙実を見るなり一瞬足を止めた。
「御園生さんも?」
「案内をお願いします」
小春は芙実の返事にうなずいた。
律は小春に水を一口飲ませてから、先導を頼んだ。
曲がり角を抜けた途端、冷たい風が一段と強くなった。
フロストワイバーンは広い空洞を飛び回る。狭い通路に逃げ込んでも、入口を塞がれれば冷気で身動きが取れなくなる。
だが、小春はその空洞から横にそれた通路を走っていた。
「まさか、行き止まりか?」
「奥に岩陰があるから、そこに……」
律は足を速めた。
身を隠したつもりで、逃げ道を失っている。
やがて見えてきた空洞の奥では、柚葉が剣を構えていた。
頭上にはワイバーンの白い翼が広がっている。夏帆は銃口を向けたものの、羽ばたきの風に押されて膝をついた。
千景が張ったマナシールドの陰で、若い冒険者たちが身を寄せ合っていた。
一人は剣も拾わず、岩に背中を押しつけている。もう一人が腕を引いても、立ち上がれずにいた。
「小春、あっちの人を温めて。芙実は出口の通路まで付き添ってくれ」
「ええ」
律は剣を抜き、空洞に踏み込んだ。
フロストワイバーンの尾が地面を薙ぎ払った。
柚葉は跳び退いた。その背中に迫った氷の破片を、律がハイガードで受け止める。
「律……?」
「下がれ。人を出す」
律は飛び立とうとするワイバーンの下に駆け込んだ。
頭を狙えば、敵は後ろに退く。だが、その先には千景たちがいる。まずは飛ぶ方向を変えさせなければならない。
律は肩の高さに構えた剣を振り下ろし、低く垂れた尾を斬りつけた。
ワイバーンが振り向く。
大口を開けたワイバーンの喉が、白く光り始めた。
律はワイバーンの注意を引き、右に走った。
ワイバーンが首を巡らせ、律を追う。冷気を吐く寸前、律はブリンクステップで岩場の反対側に移った。
律が立っていた床が、たちまち白く凍りついた。
ワイバーンが首を戻す隙に、律は間合いを詰めた。
片翼の内側に、炎を集中させる。
「フレアバースト!」
翼膜が焼け、ワイバーンは体を傾けて高度を落とした。
律はもう片方の翼で飛び直そうとするワイバーンに跳びかかり、クロスブレードで首を深く斬った。さらに返す刃で傷口を広げる。
ワイバーンは爪で地面を掻きながら倒れた。
律は剣を下ろし、通路の入口に目を向けた。
芙実が若い冒険者に肩を貸し、岩陰から出てきた。小春は後ろに残り、もう一人の脚に手を当てている。
「終わったぞ。慌てなくていい」
芙実は青ざめた顔でうなずき、そのまま歩き続けた。
芙実に支えられた新人が、凍った床で足を滑らせた。芙実は律が近づくより先に、腰を壁につけて踏みとどまった。
「私まで転んだら、二人とも歩けなくなります。肩につかまって、ゆっくり歩いてください」
相手がうなずくと、芙実は岩の出っ張ったところに足を置かせた。
小春が手当てを中断し、芙実たちを助けに行こうとしたので、律は首を振った。小春は誰かに頼られると、治療の途中でもそちらに行こうとすることがある。今も、もう一人の新人は脚を震わせたままだ。
「そっちの治療を続けて。こっちは芙実がついてる」
小春は治療中の新人に向き直り、ハイヒールを続けた。
柚葉がワイバーンの死骸に近づいた。
焼けた翼を見つめ、律の剣に目を移す。
「こんなに早く……」
「お前たちの攻撃が届かない高さを飛んでいても、片翼を壊せば降りてくる。左右の翼を同じように狙う必要はない」
「分かってるわよ」
「分かってるなら、人を奥に逃がすな」
柚葉が口を閉じた。
夏帆も黙ったままだ。千景は杖を下ろし、ワイバーンの喉を見つめていた。
律は刃を拭って剣を鞘に納め、芙実のもとに向かった。
補給所に戻ると、ほかの救援要員も到着していた。
小春に脚を治してもらった新人は、仲間と二人で何度も礼を言った。律は片手を上げて応え、水の容器を二つ取り出し、その一つを芙実に渡した。
「少し休んでから帰ろう」
「律も、飲んでください」
律が蓋を開けようとしたところで、小春に手をつかまれた。
「待って。少しだけ、話してもいい?」
律は新人たちが椅子に座っているのを確かめた。
「手、放してくれ」
「あ……ごめん」
小春は手を放したものの、律のそばを離れようとしなかった。
目元を赤くし、無理に笑おうとしていた。
「ありがとう。来てくれて」
「みんな無事でよかったな」
「私、律くんのことをちゃんと見てなかったんだと思う。危ないって言ったけど、私たちを守ってくれてたんだよね」
律は自分の水を一口飲んだ。
小春は返事を待ちきれず、さらに続けた。
「柚葉さんにも、私から話す。だから、戻ってきてほしいの」
「もう、お前たちと組むつもりはない」
「でも、今日だって助けてくれたでしょう?」
「ここに取り残された人がいるって、お前が言ったからだ」
小春の表情が歪んだ。
「それでも、電話を切らないでくれた」
「助けたら戻らなきゃいけないなら、誰のことも助けられなくなるだろ」
律は容器の蓋を閉めた。
小春は涙を拭い、再び律に手を伸ばしかけた。
「私、簡単には諦められないよ」
「困る。今の俺には、ほかに一緒に組んでる相手がいる」
律が振り向くと、すぐ横に芙実が立っていた。
両手で水の容器を持ち、一口も飲んでいなかった。
◇
帰宅してからも、芙実は小春が律の手をつかんだ場面を思い返していた。
あの女は、少しもためらわなかった。
律はすぐに手を放させた。
戻るつもりはないとも言っていた。その場で聞いていたのに、芙実は靴を脱ぐ手を止めたままだった。
「芙実。足、痛めたか?」
先に防具を外していた律が戻ってきた。
芙実は首を横に振り、靴を揃えた。立ち上がると、そのまま律の胸に顔を埋めた。
「おい、どうした」
戸惑う律の上着を、芙実は握ったまま離さなかった。
元婚約者も、最初から別の女性を選んだわけではない。
助けてあげたいだけだと言っていた。心細そうだから、話を聞いているだけだとも。
その後、芙実が不安を口にするたび、嫌そうな顔をするようになった。
「……私を、一人にしないでください」
律は芙実の背中に腕を回した。
「一緒に帰ってきただろ」
「分かっています」
「小春のところに戻るつもりはないよ」
「それも、聞きました」
迷惑に思われるかもしれない。それでも、芙実はもう一度確かめずにはいられなかった。
「明日も、私と潜ってくださる?」
「休んでからな。今日、結構頑張っただろ」
「なら、明後日は」
「ああ。次も一緒だ」
律は芙実の背中をゆっくり撫でた。
芙実は上着を握る手を緩めても、律から離れようとはしなかった。
この人と暮らす前は、毎晩どうやって過ごしていたのだろう。
物音のしないホテルの部屋を思い出す。あそこに一人で戻されることを考えるだけで、今も喉が痛くなる。
「芙実?」
「もう少しだけ」
律はそれ以上急かさなかった。
芙実は彼の胸に頬を寄せ、目を閉じた。
小春は諦めないと言っていた。
これからも律に連絡してくるだろう。泣いて頼めば律が助けてくれると、あの女は知っている。
律に断ってもらうだけでは、また同じことになる。
芙実は彼の背中に回した手に力を込めた。
次にあの女が近づいてきたら、先に自分が話そう。
この家に一緒に帰ってくる律を、誰にも渡すつもりはなかった。




