第7章 元婚約者と俺の元ヒロイン、どうして一緒にいるんだ?
芙実が部屋から出てくると、玄関で靴を履いていた律は手を止めた。
芙実は腰の絞られた黒いドレスを着ていた。膝下まである裾が上品で、よく似合っている。髪を片側だけ耳に掛けているせいか、左頬のほくろがいつもより目立った。
「変ですか?」
「いや。似合ってる」
芙実は鏡に向き直り、耳元の髪をもう一度直した。
律も立ち上がり、着慣れないジャケットの裾を引っ張った。
「本当に行くんだな」
「今からやめるとでも?」
「会いたくない相手に、わざわざ会わなくてもいいと思ってさ」
今日、鷹取グループは高難度ダンジョンの公開攻略を発表する。
芙実がその会場に行きたいと言い出したのは、元婚約者が主催者側として姿を見せるからだった。
「私が泣いて引きこもっていると思われたままなのは嫌です」
「泣きに行くわけじゃないんだろ」
「当たり前ですわ」
芙実は小さな鞄を持った。
律はそれ以上止めず、先に玄関の扉を開いた。
会場は商業施設の展示ホールだった。
入口の画面には、氷に覆われた地下の空洞が映っている。来月初めに行う公開攻略は、この会場でも中継されるらしい。冒険者以外の客も足を止めて見ていた。
画面に映る岩場には、律も見覚えがあった。
以前ゲームで攻略した場所だ。上空の敵に気を取られると、足元から襲われる。だが今は、隣で立ち止まった芙実のほうが気になった。
「あの方です」
芙実の視線の先に、背の高い男がいた。
明るい茶色の髪を横に流した、顔立ちの整った男だ。周囲の客にも笑顔で応じている。
隣では、その腕に手を添えた女性も客に会釈していた。
「鷹取慶介。私の、元婚約者です」
「隣にいるのが?」
「芝崎さん。芝崎千帆です。大学の奨学生だった、あの人」
千帆は小柄で、栗色の髪を肩の下までふんわりと下ろしていた。丸い目を細めて笑い、慶介が話すたびに顔を上げる。
律は千帆の顔を見直した。前世で読んだゲームの紹介記事に、この二人が載っていた。
『プラチナ・ハーツ』。名門大学に入った奨学生の少女が、財閥の御曹司たちと恋をする乙女ゲームだ。千帆が主人公で、慶介は攻略対象の一人だった。
律は遊んだことがなく、記事で顔と名前を覚えたのもこの二人だけだ。芙実の名は知らなかったが、彼女から聞いた婚約破棄は、あのゲームで起きた出来事なのかもしれない。
律たちが近づくと、千帆は笑顔のまま、慶介の腕を取った手にもう片方の手を重ねた。
「芙実?」
慶介は話をやめ、芙実の隣にいる律を見た。
「来るとは聞いていなかったな」
「一般にも開かれた会でしょう。あなたの許可が必要でしたか?」
「そういう意味じゃないよ。顔を出しづらいんじゃないかと心配していたんだ」
慶介は律に手を差し出した。
「鷹取慶介です。君が笠松君?」
「笠松律です」
律が握手に応じると、慶介はその手を少し強く握った。
初対面なのに、慶介は律の名前を知っていた。
芙実の連れだと聞いていたのかもしれない。慶介が手を放してから、律も腕を下ろした。
「彼女に迷惑をかけられていないかな」
「迷惑なんてかけられてませんよ」
「そう? 思いどおりにならないと、相手を困らせるところがあるから」
芙実は慶介に向き直った。
「私の話なら、私に直接おっしゃって」
「またそうやって怒る。まだ僕のことを諦められないのかと思われるよ」
「ご安心ください。あなたに未練などありませんわ」
千帆が慶介に寄り添った。
千帆は周りの客にも聞こえる声で、芙実に話しかけた。
「御園生さんも、新しい方と仲良くできているなら、よかったです。私たちのことは、もう気にしないでくださいね」
「私が誰と仲良くしようと、あなたに慰めていただく必要はありません」
「そんなつもりじゃ……慶介さん、私、余計なことを言ったかな」
慶介は千帆の肩に手を添えた。
「悪気はないんだ。芙実も、今日は穏やかにしてくれないか」
「私にだけ、そうおっしゃるのね」
芙実の声が低くなった。
律は芙実のそばに半歩寄った。口を開こうとしたところで、会場の照明が明るくなる。
司会者が慶介を呼んだ。
慶介は千帆を伴って二人に背を向けた。芙実は呼び止めず、正面の壇上を見た。
「大丈夫か?」
「ええ。いつも、ああでしたから」
律は握手した手をズボンで拭きたくなった。
どうにか我慢し、壇上に目を向けた。
公開攻略は、鷹取グループが支援する特別チームを中心に行うという。ほかの冒険者チームも参加し、区画を分けて奥に進む。
続いて、その特別チームの顔ぶれが紹介された。
柚葉が栗色のポニーテールを揺らし、壇上に上がった。
小春が続き、夏帆は客席に大きく手を振った。最後に千景が眼鏡を直し、慶介の隣に並んだ。
律は思わず身を乗り出した。
芙実も律の袖をつかんだ。
「あの方は……」
「夏帆だ。ほかも全員、俺と組んでた」
慶介は柚葉にマイクを渡した。
新しいチームを率いる剣士として紹介された柚葉は、よどみなく目標を語った。慶介に笑いかけられると、彼の腕に軽く触れた。
律は、あの表情をよく知っていた。
練習で褒められたときも、柚葉はああして照れを隠しながら相手のそばに寄っていた。
「小春、皆さんにも腕輪を見せてあげて」
慶介に呼ばれた小春は、袖を少し上げた。
律を追放した日にも着けていた腕輪だ。
「大事に使っています。慶介さんに選んでいただいたので」
「よく似合っているよ。今度は別のものも選びに行こう」
「はい」
小春が腕を下ろしても、慶介はまだ彼女の手に触れていた。
夏帆は横から慶介の上着を引いた。
「ねえ、あたしの配信にも出てくれる約束、忘れてないよね?」
「もちろん。夏帆のためなら」
「ほんと? じゃあ、終わった後も一緒にいてよ」
客席から笑いが起きた。
慶介も客席に笑顔を向け、今度は千景を見た。
「君にも期待している」
「装備を渡して、それで終わりにはしないでください。次はいつ時間を取ってもらえますか」
「後で連絡するよ。君と二人で話す時間は作る」
千景はその返事を聞き、眼鏡のつるから指を離した。
柚葉が慶介を見る。夏帆も何か言いかけたが、司会者が次の説明を始めた。
四人の態度は、単なるスポンサーに対するものとは思えなかった。誰に気に入られようとしているのか、律にも分かった。
柚葉は、今の自分たちには律より必要な人がいると言っていた。
四人が選んだ相手は、芙実を捨てた男だった。
律は千帆と、壇上の四人を見比べた。
乙女ゲームの攻略対象に、『アビス・エンゲージ』のヒロインたちが惚れている。別々のゲームの人物が同じ世界にいて、自分はその男に仲間を奪われていた。
芙実が律の袖から手を離した。
律が気づいたときには、芙実は会場の端に向かっていた。客の輪から離れ、柱の脇で足を止める。
「芙実」
律が追いつくと、芙実はすぐに顔を上げた。
「失礼しました。人が多くて」
「無理して平気な顔をしなくていい」
「平気です」
壇上から拍手が聞こえ、芙実はそちらを見た。
「私と婚約していた頃も、同じように笑っていたんでしょうね」
律は黙っていた。
その頃の慶介を知らないのに、違うとは言えなかった。
「私、あの人がいればいいと思っていました。家同士の話だからではなく、あの人が私を選んでくれたのだと……」
芙実は鞄の持ち手を握り直した。
「愚かだと思いますか」
「好きだったんだろ。だったら、騙したほうが悪い」
芙実が律を見た。
律は壇上から歩いてくる柚葉に気づいたが、呼びかけられる前に口を開いた。
「帰ろう。もう付き合わなくていい」
律は芙実の手を取った。
芙実は一度だけ壇上を見てから、律の手を握り返した。
通路の途中で、柚葉が立ち止まった。
小春もこちらを見ていた。律は二人の脇を通り、芙実と出口に向かった。
「律。少しゆっくり歩いてもいいですか」
「ああ」
足を引きずっているわけではない。律は理由を聞かずに芙実の歩調に合わせた。
入口の画面には、再び迷宮が映っていた。
芙実が立ち止まった。
「律は、この場所でも戦えますか」
「フロストワイバーンが相手なら、倒せる」
「では、私も練習します」
芙実は画面を見つめたまま言った。
「あの人が見ているところで私たちが勝ったら、どんな顔をするのか見てみたいです」
律はつないだ手を少し強く握った。
芙実はもう一度会場に戻ろうとはせず、今度は自分から出口に向かった。
◇
慶介は壇上から降り、出口のほうを見た。
芙実と律はもう見当たらない。客に囲まれている間に帰ったらしい。
芙実は、また何か言ってくるはずだった。
千帆を選んだことに文句をつけるか、以前の約束を持ち出すか。どちらにしても、その場で言い聞かせれば済むと思っていた。
だが、彼女は慶介を追わなかった。
別の男に手を引かれ、その男の顔を見ていた。
千帆が隣に戻ってきた。
「御園生さん、怒って帰っちゃったのかな」
「気にすることはないよ」
「でも、あんなに親しそうにしてるなんて。笠松さんは、あの人が私に何をしたのか知ってるのかな」
慶介は千帆の肩を抱いた。
人前で不安を見せる必要はない。少なくとも、今夜の主役は自分たちだ。
柚葉が近づいてくると、慶介は彼女にも笑いかけた。
「今日はよかったよ。次の攻略も頼む」
「うん。見ていて」
慶介はうなずいた。
あれほどの装備を与えたのだから、次こそ成果を出してもらう。
慶介は出口を睨んだ。
自分が捨てた女が、別の男と笑っている。その顔を思い出すだけで腹が立つ。律と組んでもうまくいかないと、思い知らせてやる。




