第3章 現代ダンジョンに悪役令嬢がいるんだが?
「そこ、危険区域だぞ!」
律の声に、入口にいた男が振り返った。
男はスマートフォンを握ったまま、女性が逃げ込んだ先を見ていた。もう一人は赤い注意灯の前で足を止めている。
「知ってるよ。あの女が勝手に入ったんだ」
「追いかけてただろ」
「ちょっと話を聞こうとしただけで――」
通路の奥から、金属がこすれ合う音が響いた。
律は男を押しのけて通路に入った。背後から何か言われたが、聞いている暇はない。
女性は壁を背にして立っていた。
片方の靴は脱げていた。見える範囲だけでも、四体のアーマードッグが彼女を取り囲んでいる。
「アイスバインド!」
女性は前に手を突き出した。
狙われた一体は横に跳び、氷魔法は誰もいない床を覆った。
女性がもう一度スキルを使うより早く、別の一体が右から飛びかかった。
律は剣を抜くと、ブリンクステップで女性とアーマードッグの間に割り込んだ。
アーマードッグの首を斬り、そのまま女性の前に立った。
続く一体もハイガードで防ぐ。目の前で牙がかみ合ったが、守りは崩れなかった。
「動くな。そのまま壁に背をつけて!」
律は女性の返事を待たず、剣を振るった。
目の前の一体を斬り倒すと、残りの群れが逃げようとした。律は通路の先に炎魔法を低く走らせ、引き返してきた敵をまとめて倒した。
律は剣を下ろして女性の様子を確かめた。白い上着の袖は裂けているが、腕から血は出ていない。
「立てるか」
女性は返事をしなかった。
顔にかかった長い黒髪を払い、切れ長の焦げ茶色の目で律を見上げた。左頬には小さなほくろがある。
「助けてくださったことには感謝します」
「どういたしまして」
「ただ、あなたが来なくても、何とかなりましたわ」
律は女性の背後に目をやった。
壁だ。逃げ道になりそうな穴もない。
「どこから逃げるつもりだったんだ?」
「倒すつもりでしたの」
「氷魔法、外れてたぞ」
「見ていれば分かります!」
言い返す声は強気だった。
だが、脱げた靴を拾おうとした途端、彼女の膝ががくりと折れた。律は空いている手で肩を支えた。
「足、痛めたのか」
「少しひねっただけです」
「じゃあ、少し座っていてくれ。剣をしまうから」
女性は唇を結んだものの、今度は逆らわなかった。
律が刃を拭って鞘に納め、しゃがむと、彼女は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「勝手に触らないでくださる?」
「足首を見たいんだ。回復を使えるから」
「あなた、剣士でしょう」
「回復のスキルも使えるんだ」
律は足首に触れてもいいか、改めて尋ねた。
彼女が小さくうなずいたので、腫れた足首に手を添えた。リカバリーを使うと、足のこわばりが少し和らいだ。
女性は腫れが引き始めた足首を見つめた。
「歩いてみても?」
「肩につかまってからにしてくれ」
立ち上がった女性は律の腕に手をかけた。思っていたより背が高く、腰まで伸びた髪が上着の裂け目を隠している。
一歩踏み出した途端、律の腕を握る手に力がこもった。
「まだ痛いんだな」
「あなたが急ぐからです」
「今、ほとんど止まってたぞ」
女性は答えず、律の肩にもう少し体重を預けた。
律は脱げた靴を拾い、彼女の歩幅に合わせて出口に向かった。
◇
注意灯の前には、男たちに代わって係員が立っていた。
出口にいた冒険者が騒ぎを知らせたらしい。少し離れたところでは、先ほどの男が警備員に言い訳していた。
女性はそちらを見るなり、律の袖をつかんだ。
「話を聞くと言っていたのに、『謝るところを撮らせろ』と迫ってきたんです」
「知り合いか?」
「違います。私の顔を、どこかで見たのでしょう」
係員が休める場所を教えてくれた。
律は女性を椅子に座らせ、持っていた靴を足元に置いた。ロッカーに携行袋を取りに行き、剣をしまって戻った。
ベンチに置いた飲み物は、まだそこにあった。手に取ると、もうぬるくなっていた。
隣では、女性が破れた袖の端を折り込んでいた。
いくら丁寧に折っても裂け目は隠せない。彼女は律の視線に気づくと、手を止めた。
「お名前を伺っていませんでした」
「笠松律」
「御園生芙実と申します」
律には思い当たる人物がいなかった。
御園生という姓には聞き覚えがある。ダンジョン開発で知られる企業の名だ。だが、原作に芙実という人物は登場しなかった。
「御園生って、あの会社の?」
「父が経営しています。私は一人娘です」
「そうなのか」
「それだけですのね」
「ほかに何を言えばいいんだ?」
「いえ。何も」
芙実は律の持つ缶を見て、少しためらってから切り出した。
「それ、私のせいで飲み損ねたのでしょう。買い直します」
「まだ飲める」
「私が気になるんです」
芙実が立ち上がりかけたので、律は座っているように言った。
芙実は不満そうに鞄を開いた。律は代金を受け取らず、何を飲みたいか尋ねた。
温かい紅茶がいいと言うので、律は缶の紅茶を買って戻った。
芙実は両手で缶を受け取った。
缶を開ける前に、もう一度小さく「ありがとう」と言った。
出入口からは、人が次々と戻ってきていた。
芙実は人が通るたびに顔を背けた。律は彼女と通路の間に椅子を寄せた。
「誰か、迎えに来られる人は?」
「いません」
「家に送るなら、タクシーを呼ぼうか」
「帰る家もありません」
律は缶を口に運ぶ手を止めた。
御園生家の一人娘が、帰る家もない。冗談を言っている顔ではなかった。
芙実は裂けた袖を押さえたまま、律を見ずに続けた。
「婚約者がほかの女を選び、皆の前で婚約破棄を言い渡したんです」
「それで、家まで?」
「父には、恥をさらしたと責められ、顔を見せるなと言われました」
律は何と返せばいいのか迷った。
昨日の自分より、ずっとひどい目に遭っている。だが、そんなことを口にしても仕方がない。
「その婚約者のこと、好きだったのか?」
「好きでもなければ、あんな女に構いません」
芙実の口調が、初めて険しくなった。
「大学に入ってきた奨学生です。私が婚約者だと知りながら、あの人のそばに入り浸って。嫌だと言えば、私が怖いと泣くんです」
「嫌だって、その女にも言ったのか?」
「言いました。『身の程を知れ』とも。ひどい言葉だと思われるでしょうね」
律は口を挟まなかった。
芙実は缶を膝に置いた。
「腹が立っていたんです。婚約者の前では何も言わないくせに、私と二人きりになると笑うのよ。私が怒ると、今度は人前で泣くんです」
「婚約者は、何て?」
「あの人は、私が謝れば済むと言いました」
芙実はうつむいたまま続けた。
「最後には、私がその女を殺そうとしたことにされました。そこまで卑劣な女だとは思わなかったと言われて……そんなこと、一度もしていないのに」
律は芙実の顔を見た。
大学に入ってきた少女に心を移した男。嫉妬した婚約者はその少女と争い、皆の前で責められて捨てられる。
「それ、悪役令嬢の断罪イベントじゃないか」
「……何ですって?」
芙実の顔が険しくなった。
律は思わず口を押さえた。考えていたことを、つい口に出してしまった。
「いや、そういう話を知ってたから」
「私のことを、見世物だと思っていらっしゃる?」
「ごめん、そういう意味で言ったんじゃないんだ」
芙実は律をしばらく見つめてから、顔を背けた。
『アビス・エンゲージ』で、そんな筋書きは見た覚えがない。
乙女ゲームなら聞いたことがある。だが、律が遊んだのはダンジョンで美少女たちと冒険するゲームだ。
いくら思い返しても、芙実という人物に覚えはなかった。
芙実は缶の紅茶をひと口飲んだ。
冷めかけた紅茶に顔をしかめる。その様子を見ているうちに、律は記憶をたどるのをやめた。
原作に登場する人物かどうかは関係ない。彼女が男たちに追われていたのは事実だ。
このまま一人で帰らせる気にはなれなかった。
「今夜、泊まるところはあるのか」
「ホテルに荷物を置いています」
「そこまで送る。無理して歩かないほうがいい」
「先ほどの話を聞いても、そうおっしゃるのね」
律が立ち上がると、芙実は顔を上げた。
「私、その人たちを許すつもりはありませんよ」
「許せとは言ってない」
「もう一度縁談を持ちかけられても、戻りません。あの人たちには、必ず後悔させてやりますわ」
律は剣の携行袋を肩に掛け、芙実に手を差し出した。
「まずは、歩けるようになってからだな」
芙実は少しためらってから、その手を強く握った。
「笠松さん」
「何だ?」
「少しの間、私の護衛をしていただけませんか」
律はすぐには返事をせず、芙実を立たせた。
さっきより楽に立てるようになっていたが、芙実は律の手を放さなかった。
「ずっと一緒にいて、とは言いません。ただ、もう一度ああいう人たちに囲まれたら、私は……」
芙実の声が小さくなり、言葉が途切れた。
「分かった。しばらくな」
芙実は目を伏せたままうなずいた。
律は彼女を支えながら出口に向かった。昼食の店を探すのは、ホテルに送ってからでいい。




