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ep9.鉄針府

黒塗りの魔導車は、銀針堂のある王都八条から、王都一条へ向かう大路を滑るように走っていた。


車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、座面を通して低い振動がエルヴの腰へ伝わる。彼の両手は拘束されていない。だが、両脇にはネフィラの部下たちが甲冑を軋ませてエルヴの肩を圧迫していた。


自分はこの先どうなるのか。星の剥奪か、それとも処刑か。冷えた思考が脳裏をかすめる。だが、諦めに似た何かが、その絶望を希釈していた。あの状況でレティシアを前にしたならば、自分は何度繰り返しても同じように針を運ぶ。


後続を走るもう一台の魔導車には、意識を失ったままのレティシアと、それを監視するメラディが乗っているはずだ。


車窓の外を、一条の整然とした街並みが流れていく。街灯の基部に施された真鍮の金具、整然と並ぶ高級店舗の石壁。


それを見つめながら、エルヴは胸の奥で掠れた記憶を手繰り寄せる。かつてアトリエを構える前、レティシアが口にしていた言葉。いつか王都一条の一角に、自分のアトリエを持つのが夢だと言っていた。その一条の通りを、彼女は瞼を閉ざしたまま通り過ぎていく。


助手席に座るネフィラが、後方を確認するふりをしてエルヴに視線を投げた。


「エルヴ…」


ネフィラが低い声を漏らした。だが、続く言葉は途切れる。彼女の首筋の縫合痕が引き攣る。ネフィラは吐き出しかけた呼気を飲み込み、短く削ぎ落とした言葉だけを落とした。


「もうすぐだ」


魔導車の速度が落ち、重厚な石造りの門柱をくぐる。車体は騎士団拠点「鉄針府」の敷地内へと進んだ。広場の奥には、黒大理石と鉄枠で組み上げられた巨大な砦が、視界を遮るように高くそびえ立っていた。


ネフィラの部下に促され、エルヴは扉から外へ足を踏み出した。正面の大門上部には、二本の鉄針が交差した紋章が打ち付けられていた。


「こっちだ」


前を歩くネフィラが短く促す。彼女の背を追い、エルヴはアーチ状の門をくぐった。回廊は薄暗く、壁面に設置された魔石灯の青白い光が石の表面を湿っぽく照らしている。ネフィラの部下たちが、重い音を立てて数歩後ろから足取りを揃えてついてくる。


ひんやりとした無機質な空気の中を曲がり、重厚な木製扉の前でネフィラが足を止めた。


彼女はドアの木枠を三度叩いた。


「入れ」


低い声だ。感情の起伏がまるで感じられない。ノックの余韻の中、ネフィラがノブを回して扉を押し開ける。部屋の奥へ向かい、彼女は背筋を正し、「裁断礼」をとった。握った拳から、親指を離して軽く曲げ、人差し、中指を立てて左胸に当てる敬礼だ。親指で縫い目を、人差しと中指で裁ちばさみを示し、「背信あらば断て」を意味する。


「第三裁断小隊隊長、ネフィラ・アーゼリート、銀針堂のエルヴァン・テイラーを連れてまいりました。」


ネフィラに続き、エルヴは一礼し、部屋へと足を踏み入れる。


執務室は驚くほど簡素だった。装飾らしい装飾もなく、大きな窓から差し込む光が、磨かれた石の

床を白く切り取っている。その中央に、一つの影が立っていた。


「下がれ、ネフィラ。部下らも返していい」


“影”が振り返った。


細い。


それが第一印象だった。


黒い軍服と甲冑を纏った男。肩の輪郭は硬く、肉がない。その身体は、まるで黒い杭を地面に打ち込んだかのように直線的だった。青白い皮膚は作り物のように滑らかで、縫い目一つ見えない。黒髪は短く整えられている。


「お前が、銀針堂の」


冷たく、乾いた声だった。エルヴは背筋の産毛が逆立つのを感じた。背後で、ネフィラが退室する。扉が閉まり、ネフィラと彼女の部下たちの足音が消えた。


男が歩み寄る。床石を踏む音に、余分な響きが一切ない。無駄な筋肉の弛緩も、関節の遊びもない歩法。エルヴの目には、それがひどく異様に映った。人間の歩みというより、精密に組まれた機構が寸分違わず同じ動作を繰り返しているかのような、静かな正確さ。


「キリウス・クロイゼンだ」


―キリウス・クロイゼン。


エルヴはその名を知っていた。いや、この国で知らない者はないと言っていい。


―大戦を終わらせた英雄。

―北の森の魔獣の群れをただ一人で屠った将軍。

―傷つくことを知らない、“鋼躯”のクロイゼン。


エルヴの目は、クロイゼンの袖口から覗く手首に走った。両手は黒手袋で覆われている。


(…?)


エルヴは小さな違和感を覚えた。右手人差し指の先端部分の生地だけがわずかに分厚い。エルヴの職人としての目が、反射的にその部分をなぞる。


「気づくか」


短く言われ、エルヴは視線を上げた。クロイゼンの口の端に、笑みとも呼べない薄い歪みが浮かんだ。


「詫びる必要はない。仕立て屋がそういう目をするのは、性分だろう」


顔をあげたエルヴの鼻腔を、鉄のような苦いにおいが刺す。彼はそのにおいを知っていた。


(定着薬…)


魔物素材と人体を馴染ませるための薬。広範囲の仕立てを受けた者が漂わせるにおいだ。それもひどく濃度が高い。エルヴは、クロイゼンのもう一つの異名を思い出した。


「九分仕立て…」


九分仕立てのクロイゼン。エルヴは、父がその名を呟いたときの表情を忘れられない。何かに耐えるかのような顔だった。エルヴの漏らした声に、クロイゼンは顎を引いた。


「俺のこの体は、九分通りお前の父に仕立てられた」


クロイゼンが左腕を静かに横へと伸ばす。彼の肩口から手首、そして黒革の手袋に覆われた手の甲にかけて、軍服と甲冑の下で何かが蠢いた。彼が手首をしならせた瞬間、縫い目を内側から引き解くように、漆黒の骨格が扇状に跳ね上がる。


エルヴは息を呑んだ。


それは、黒竜の骨翼だった。骨と骨の間に張られた灰色の薄膜が、室内の灯りを微かに透かしている。


「…父が」


クロイゼンが翼を畳む。骨翼は音もなく軍服の裡に帰った。


「この翼だけではない。俺はあの大戦で体のほとんどを失った。それを、お前の父が縫った。骨も、腱も、肉も。生まれたままの部分がどれだけ残っているか―俺自身、正確には分からん」


淡々とした口調には、自嘲も誇りも滲まない。


「そして今日、俺はその息子を裁く側に立っている。皮肉なものだと思わないか」


エルヴは何も言えなかった。喉の奥に、言葉にならない塊が詰まっている。


クロイゼンは執務机に歩み寄った。机上の書類を一枚指先で持ち上げ、視線を落とす。


「レティシア・ベリスを救うために、違法仕立てを行った。…お前の父なら、同じことをしただろうな」


書類を机に戻すと、クロイゼンはエルヴに視線を向けた。感情の読めない目に、初めて何かが宿ったように見えた。それが同情なのか、あるいは別の何かなのか、エルヴには判別がつかなかった。





エルヴは宿舎に向かった。鉄針府敷地内にあるそれは、軍属の職人たちの住居だ。客人用ではないが、罪人のためのものでもない。エルヴはクロイゼンの意図が分からなかった。鉄階段を登ってあてがわれた部屋の前に着くと、入り口でネフィラが待っていた。彼女の両腕には真新しい水槽が抱えられている。


「…何ですか、それ」

「水槽だ」


得意げなネフィラに、エルヴは息をついた。時々、彼女の行動はエルヴの手に負えない。


「水槽なのは見れば分かります。けど、何のために?」

「カエルのためだ」


ネフィラは水槽を抱え直した。


「ほら、死んでしまっただろう。…カエル」

「まさか、新しいカエルを?」

「そうだ」


鍵を開けるエルヴの後の横で、ネフィラは水槽を持ち上げて見せた。


「王都一条には、大きな店がある。そこにいけばどんなカエルも売っているらしい。店の場所は部下が教えてくれた。明日、査問が済んだら買いに行こう」


午後の光に水槽がきらめく。エルヴは俯いた。


「…無理ですよ」


エルヴの薄い唇から、平坦な拒絶がこぼれ落ちる。その言葉は、廊下に当たって乾いた音を立てた。明日、自分は死ぬかもしれない。


「無理じゃない」


ネフィラは即座に言葉を重ねた。甲冑の胸当てを軽く叩く動作には一切の迷いがない。


「絶対、行こう」


彼女の青い瞳が、まっすぐにエルヴの視線を捉える。金髪の端が微かに揺れ、その表情には根拠のない確信だけが満ちていた。エルヴは一瞬だけ息を呑み、視線を上げる。ネフィラが見つめ返した。


「…分かりました。行きます」


エルヴの返答を聞くやいなや、ネフィラの笑顔が咲いた。水槽を抱きしめ、「絶対だぞ」と身を乗り出す。エルヴも小さく笑った。


「お、終わった?」


背後から、陽気な声が響いた。


振り向くと、木製のドア枠に肩を預けるようにして、一人の体格のいい青年が立っていた。鍛え上げられた肉体が着古した服地を内側から押し張っている。


「いや、盗み聞きするつもりはなかったんだけど聞こえたからさ」


青年は悪びれる風もなく歩み寄り、エルヴの隣の部屋のドアを親指で指し示した。


「ちなみにこっちが俺の部屋」

「…ごめんなさい」


エルヴが頭を下げると、青年は白い歯を見せて笑った。


「別にいいよ。銀針堂のテイラーさんがお隣なんて光栄だ」

「俺を知っているんですか」


エルヴの眉がわずかに寄る。青年は肩をすくめた。


「知ってるも何も結構話題になってるよ。今回の事件もだし…それより、あんたの親父さんは有名人だ」

「…父が」


エルヴの喉の奥で言葉が引っかかる。青年はそれ以上踏み込むことなく、ひらりと大きな手を振ってみせた。


「これから、よろしくな」


それだけを残し、青年は部屋の中へと消えた。パタンと音を立ててドアが閉まる。


父の名の大きさ。どこへ行っても付いて回るその影の重みを、エルヴは再び突きつけられていた。ドアノブを回し室内に入るエルヴにネフィラも続く。彼女は抱えていた水槽を入口脇の木机の上に置いた。


「明日、約束だからな」


そう言って、ネフィラは短く手を振ると廊下の奥へと去っていった。彼女の甲冑の鳴る音が小さくなっていくのを、エルヴは立ったまま聞いていた。残された静寂の中で、彼は一人、空の水槽を見つめる。


(…明日)


透明なガラスの底に、部屋の灯りが微かに反射している。明日、無事にここへ帰れたなら。この空っぽの水槽に冷たい水を満たそう。エルヴはドアノブに手をかけ、静かに扉を閉ざす。鍵の閉まる音が、カチリと響いた。


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