ep10.査問
翌朝、エルヴは中央縫籍院の回廊を歩いていた。両脇を固めるネフィラの部下の甲冑の音が、石壁に反響して幾重にも重なる。昨夜、水槽の底に映っていた灯りの残像が、まだ瞼の裏にちらついていた。
案内された先は、これまで通ってきたどの部屋よりも広く、そして冷えていた。半円形に配された石の傍聴席、中央に据えられた黒檀の証言台。天井の高い窓から差し込む朝の光が、床に規則正しい格子模様を落としている。
エルヴが証言台の前に立たされると、正面の高座に一人の老人が姿を現した。
「主席司法官、オズワルド・レーンだ。開廷する」
乾いた声が石の空間に響いた。エルヴはネフィラの部下に促されるまま、右手を左胸にあてた。裁断礼。背信あらば断て。
「被査問人、エルヴァン・テイラー。銀針堂、三ツ星」
「はい」
「相違ないか」
「ありません」
主席司法官、オズワルドは淡々と頷き、机上の羊皮紙へ視線を落とした。
「起訴事実を告げる。被査問人は三ツ星でありながら、準極星以上の権限を要する異形化仕立てを、監督者を伴わず単独で施行した。使用されたのは緋幻蝶染めの肉糸。被術者はレティシア・ベリス、準極星。事実に相違ないか」
「相違ありません」
短い沈黙が落ちる。傍聴席の端、黒い外套に身を包んだメラディが小さく身を乗り出した。首元に巻かれた赤布が、動きに合わせて僅かに揺れる。
「特務魔道士メラディ・レイ。発言を許可する」
メラディが立ち上がった。銀縁の奥の真紅の瞳が、証言台のエルヴを一直線に射抜く。
「星位制度は、拒絶反応と暴走のリスクから被術者と周囲の人間を守るために存在する。三ツ星の技量では、緋幻蝶の毒性を制御しきれない可能性があった。被査問人の行動は、結果として成功したに過ぎない。もし失敗していれば、あの施術は新たな崩解体を生んでいたはずだ」
抑揚のない声が、石の壁に反響して重く沈む。
「規則は、善意によって破られてよいものではない。ここで情を理由に処分を軽んじれば、次に命を落とすのは、規則を守った者になる」
エルヴは奥歯を噛み、視線を前に固定したまま何も返さなかった。
「証拠調べに移る」
オズワルドの一言で、衛兵の一人が羊皮紙の束と、使用済みの封蠟帯の残骸を証拠台へ並べた。乾いた蝋の破片が、魔石灯の光を鈍く跳ね返す。
「鑑定人として、極星ナザルク・オルドネルを召喚する」
その名が読み上げられると、傍聴席の後方の扉が開いた。静かな足取りで、一人の白髪の男が歩み出てくる。袖口から覗く手は異様に青白い。前腕の継ぎ目を境に、両手首から先の肌には明らかに血の気が無かった。
エルヴは彼について囁かれる名を思い出した。
―ナザルク・オルドネル。
―棺桶屋。半死体のナザルク。
証言台の脇まで進み出たナザルクは、エルヴへ一度だけ視線を寄越した。左の片眼鏡が白く光る。
「ナザルク・オルドネル。医師として、そして極星として、施術記録の鑑定を行った」
穏やかな声だった。低く落ち着いた響き。
「鑑定内容を」
オズワルドが促すと、ナザルクは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。エルヴが行った縫合の記録を記録係の衛兵が書き取ったものだ。
「まず結論から申し上げよう」
ナザルクは羊皮紙をひと撫でしてから、傍聴席にも聞こえるよう、声を張ることなく、しかしよく通る音で続けた。
「この施術は、見事なものだ」
傍聴席がわずかにざわめいた。メラディの眉が微かに動く。ナザルクは構わず、羊皮紙の記録に指を這わせながら言葉を継いだ。
「鎖骨下から前腕にかけての封じ込め―中綴じによる筋断端の結合、氷結肉糸による拡張阻止。この二つを同時進行させる判断が、まず正しい。緋幻蝶の毒性は、力で押さえ込めば押さえ込むほど内側で暴れる性質を持つ。逃がしながら鎮める。この男は、それを分かっていた」
ナザルクの視線が、初めて真っ直ぐにエルヴへ向いた。
「私はこれまで、数え切れないほどの死体と、それ以上の数の“崩解”を見てきた。未熟な仕立てにより、継ぎ目が引き攣れ、素材同士が反発し、肉が泥に還っていくのをな」
淡々とした口調のまま、しかしその言葉には確かな重みがあった。
「この施術には、その気配が一切ない。星位でいえば、疑いなく準極星の技術だ。三ツ星の職人がこれを成した」
ナザルクの唇の端が、微かに持ち上がった。笑みと呼ぶには温度の足りない、それでいて確かに何かを愛でるような形だった。
「私は彼―エルヴァン・テイラーの技術を高く評価する」
法廷に、微かなざわめきが走った。オズワルドが片眉を上げる。
「鑑定人、ナザルク・オルドネルに問う」
オズワルドがゆっくりと言葉を紡いだ。
「被術者レティシア・ベリスの体内から回収された金の針について、知見を述べよ」
一拍の間があった。ナザルクの瞳が、僅かに細められる。
「銀針のシルヴァン―シルヴァン・テイラーのものだ」
(父さん)
エルヴの胸が早鐘を打った。喉が酷く渇く。
法廷に沈黙が満ちる。メラディが小さく息を吸い込む音だけが、エルヴの耳に届いた。
「ただし」
ナザルクが続けた。
「“かつての”シルヴァンが用いていたものだ」
そこで言葉を切り、ナザルクは羊皮紙を静かに折り畳んだ。
「また、この針には改造が加えられている。誰の手によるものかまでは、この鑑定では分からない」
ナザルクは折り畳んだ羊皮紙を懐へ戻しながら続けた。
「被術者レティシア・ベリスから回収された針だけでなく、路地裏の崩解体から発見された針にも、同一の術式による改造が見られた」
「…同一人物による改造、ということか?」
オズワルドが問う。ナザルクは「おそらく」と小さく頷く。
「加えて、レティシア・ベリスから回収された針は、刻印の一部が潰されていただけでなく、改造がさらに巧妙になっている。一連の事件の犠牲者に翼らしき構造物が共通していることも含め、高位の職人が裏にいるとみて間違いない」
エルヴの拳の中で、爪が掌に食い込んだ。レティシアの喉から零れた言葉―翼を、完成させないで。あの声の裏に、この事実がどう繋がっているのか、まだ像を結ばない。
「もう一つ、申し上げておくべきことがある」
ナザルクは一度、法廷を見渡すように視線を巡らせた。
「今回の金針事件―」
ナザルクの瞳が、静かにエルヴを見据えた。
「私が知る限り、レティシア・ベリスは、この一連の事件においてただ一人、崩解を免れて生きている者だ」
「…唯一の、生存者」
掠れた声で、エルヴはその言葉を繰り返した。ナザルクは肯定も否定もせず、ただ静かに一礼した。
「情状証拠として、被術者レティシア・ベリスの容体を提示する」
オズワルドの指示で、両開きの扉が開かれた。運び込まれてきたのは、白布に包まれた担架だった。レティシアの顔は青白く、目は閉じられたままだ。呼吸に合わせて、胸がわずかに上下している。
エルヴの視線が、動かない彼女の横顔に吸い寄せられた。
「意識は戻っていない。証言は取れない」
短くそれだけ告げられ、担架は再び運び出されていく。扉が閉じる重い音が、法廷の静寂に沈んだ。彼女の声はどこにもなかった。ただ、生きているという事実だけが、証拠として提示され、そして連れ去られた。
「被査問人に問う」
主席司法官の声が、エルヴを現実に引き戻した。
「なぜ、規則を破ってまで施術に踏み切った」
エルヴは一度、乾いた喉に唾を通した。
「彼女が死ぬのを、黙って見ていることができませんでした」
「星位剥奪、あるいは処刑もあり得ると理解していたか」
「理解していました」
エルヴは顔を上げた。
「それでも、同じ状況になれば、俺は同じことをします」
傍聴席の隅、これまで一言も発していなかった黒い軍服の男が、初めて身じろぎをした。
「陪席、キリウス・クロイゼンより発言を求める」
低く、乾いた声だった。オズワルドが小さく顎を引く。
クロイゼンは席を立ち、証言台の脇に立った。感情の読めない目が、エルヴを一度だけ見下ろす。
「軍としての意見を述べる。この男の技術は、国家にとって有用だ。規則を理由にこれを握りつぶすのは、損失でしかない」
「感情論か、クロイゼン」
メラディが低く口を挟んだ。クロイゼンはそちらを一瞥もせず、続けた。
「実利の話だ」
一拍、間が空いた。
「三ツ星だから、違法だった。―ならば、合法となる権限を得ればいい」
その言葉に、オズワルドはしばし目を閉じた。石の法廷に、誰の呼吸の音も聞こえない時間が流れる。
「論告を」
促され、メラディが立ち上がった。
「規定に基づけば、星位剥奪、および相応の処罰が妥当と判断する」
そこで一度言葉を切り、彼女は帳面を閉じた。
「…だが、量刑の判断は、主席司法官に一任する」
短い言葉だったが、そこに込められた意味を、エルヴは正確に受け取った。彼女は求刑をしなかった。規則を語る者としての矜持は崩さず、それでいて、断罪の刃を自らの手で振り下ろすことはしなかった。
「最終陳述はあるか、被査問人」
オズワルドの問いに、エルヴは背筋を伸ばした。
「後悔はしていません」
強張った拳を汗ごと握りながら、エルヴは前を見据える。
「これからも、俺は仕立て屋として生きたい。それだけです」
オズワルドは頷き、しばし目を瞑った。時計の針が時を刻む硬い音を落とす。羊皮紙の擦れる音すら耳障りだった。エルヴは俯きそうになる首を、必死に立てた。
「判決を告げる」
やがて、乾いた声が石の空間に響いた。
「被査問人エルヴァン・テイラーは、規定に違反する異形化仕立てを単独で行った事実を認める。本来であれば星位剥奪、あるいは極刑の対象となる」
エルヴは唇を噛み締めた。
「しかし、当該施術の技術的完成度、および緊急性・正当な動機を鑑み、以下の処遇をもってこれに代える」
ナザルクが片眼鏡を指で直した。
「第一。キリウス・クロイゼン監督下における、軍属職人としての勤務を命ずる」
クロイゼンが小さく頷く。
「第二。準極星試験の受験資格を、特例として付与する」
メラディが首の赤布を押さえた。
「第三」
オズワルドの声が、初めてわずかに硬さを帯びた。
「試験に不合格となった場合、あるいは監督期間中に再度の規則違反が確認された場合は、猶予されていた本来の処分を直ちに執行する」
エルヴは息を止めていたことに、遅れて気づいた。肺の奥に溜まっていた空気が、震えるように喉を通り抜けていく。
「以上をもって、閉廷とする」
木槌の代わりに、主席司法官の指先が軽く机を叩いた。乾いた音が、判決の重みとは不釣り合いなほど小さく法廷に落ちる。
エルヴは裁断礼を返した。背信あらば断て。その誓いの形だけが、今の自分に残された唯一の輪郭のように思えた。
法廷を出る間際、証言台の脇でナザルクとすれ違った。彼は足を止めず、しかしすれ違いざま、独り言のように呟いた。
「…いい針だった」
それだけを残し、ナザルクは静かに法廷の奥へと消えていった。
査問を終えたあとのエルヴの体は、妙に軽かった。
処刑ではない。星位剥奪でもない。
―ただし。
クロイゼンは鉄針府の執務室で付け加えた。不合格ならば極刑だ、と。準極星への昇格試験―その言葉が改めて執務室の乾いた空気に落ちたとき、エルヴは自分の指先が微かに震えていることに気づいた。安堵なのか、それとも新しい重圧に対する震えなのか、判別はつかなかった。
宿舎の廊下で待っていたネフィラは、話を聞くなり相好を崩した。
「よし、決まりだな」
「何がです」
「カエルだ。約束しただろう」
有無を言わさぬ足取りで、ネフィラはエルヴの腕を引いた。空になった水槽は、まだ宿舎の木机の上に置かれたままだった。
王都三条の大通りを抜けた先、水路に近い一角に、その店はあった。「水鏡亭」と染め抜かれた藍色の暖簾が、湿った風にゆるく揺れている。表の水路から直接引き込まれているらしい水音が、店の奥からかすかに聞こえていた。
扉を開けると、むっとした水と苔の匂いが押し寄せる。天井近くまで積まれた水槽の群れが、店内のあらゆる壁を埋め尽くしていた。淡水魚、川蟹、光る鱗を持つ小型の水蛇竜の幼体。ガラス越しに揺れる光が、床に幾重もの網目模様を落としている。
「多いな…」
ネフィラが目を丸くして水槽の壁を見上げた。エルヴとネフィラは奥へと進む。カエルや水棲の両生類は、店の一番奥の高い一角にまとめられていた。
「エルヴ、あれは」
ネフィラが足を止め、店の中央近くに置かれた低い水槽を指差した。半透明の塊がいくつも、緩やかに形を変えながら水底で蠢いている。
「スライムの棚ですね」
「気味が悪いな」
「慣れると可愛いですよ。粘度や色で個体差が出ますし」
エルヴが歩を進めようとしたとき、その水槽の一つに熱心に顔を寄せている先客がいることに気づいた。
青みがかかった灰の髪の男だった。上品な仕立ての外套を纏い、水槽の縁に軽く指先を添えて、中を覗き込んでいる。
「―粘度がいい。この子は、いい親になりそうだ」
独り言のような呟きが漏れる。店員が近づき、慣れた様子で会話を交わし始めた。
「ヴェルムさん、今日はどちらを」
「こっちの溶解種を四体。あとは…ああ、こっちの群体、まだ交配は済んでいないんだったね」
「はい、来月には」
「楽しみだ」
男が微笑む。エルヴは何とはなしにその指先を追った。仕立て師としての癖かもしれない。男の手は白手袋で包まれていた。
男がふと視線を上げ、エルヴと目が合った。
「おや」
驚いたふうもなく、男は軽く一礼した。
「銀針堂の。噂は聞いているよ、エルヴァン君」
「…どこかでお会いしましたか」
「いや、初めましてだ。私は縫籍院で監査官をしている、エイレン・ヴェルムという者だ。今度、君が受ける準極星の試験にも、試験官として多少関わることになるかもしれない」
穏やかな声だった。エルヴは軽く頭を下げる。ネフィラが横から興味深そうに口を挟んだ。
「試験官?極星ということか?」
「いや、私は準極星止まりだよ」
エイレンは軽く肩をすくめてみせた。自嘲めいた響きはなく、事実を述べるような平坦さだった。
「腕はそれなりにあるつもりなんだがね。星というのは、運のようなものもある」
「……」
エルヴは何と返せばいいか分からず、視線をスライムの水槽へ落とした。灰色がかった塊が、ゆっくりと形を変えながら水底を這っている。
「珍しい趣味ですね」
「変わり種のスライムを集めて掛け合わせるのが好きでね。一見同じように見えて、個体ごとに随分と性質が違う。溶解力の強いもの、逆にほとんど何も溶かさない大人しいもの…面白いだろう」
エイレンは水槽に指を近づけた。中の塊が、その動きに合わせてわずかに輪郭を揺らす。
「おっと、つい語ってしまうな。失礼」
「いえ」
「君の話も聞きたいところだが、また今度にしよう。試験、頑張りなさい」
エイレンは餌の入った紙袋を店員から受け取ると扉に歩み寄り、緩やかに空を仰いだ。
「いい天気だ」
エルヴがつられて窓越しに空を見上げると、灰色の空から、雨粒が一滴、二滴と地を濡らし始めたところだった。エイレンはエルヴとネフィラに向かって軽く会釈すると、店の外へと歩いていく。その背中は、水草のような湿った匂いをわずかに残していった。
「…変わった人でしたね」
エルヴは小声で言った。
「悪い人ではなさそうだが」
ネフィラは短く答えたが、すぐにエルヴの手を店の奥へと引っ張っていった
「それより、こっちだ」
店の最奥、湿度を保った一角には、いくつもの水槽が並んでいる。緑色、灰色、黄色、様々な色のカエルがくりくりと目を動かしている。だが、エルヴの足はそこを通り過ぎ、自然とその隣のオタマジャクシの水盆に向かった。
「オタマジャクシにするのか?」
「ええ、前のカエルもそうでしたし。なんとなく」
「なるほど。それで、どいつにするんだ?」
エルヴは水盆の縁に手をかけ、しばらく水面を見つめた。黒く小さな影の群れが、光を避けるように水底近くを泳ぎ回っている。その中の一匹、他よりわずかに大きな尾を持つ個体が、ふいに水面近くまで浮かび上がってきた。
「この子にします」
「よし、決まりだ」
ネフィラが手を振って声をかけると、店員が網で掬い上げ、水を張った小さな壺に移し替える。彼女はそれを大事そうに両手で受け取ると、満足げに頷いた。
「帰ったら、あの水槽に入れてやろう」
「はい」
エルヴは短く頷いた。壺の中で、小さな影が緩やかに尾を揺らしている。
店を出ると、小雨の空に薄い陽が差していた。石畳がその光を受けて鈍く光っている。二人分の足音が、湿った石畳の上に重なって響いた。




