ep11.準極星昇格試験・筆記
準極星昇格試験、筆記。
試験会場は、縫籍院本院の大講堂だった。石造りの高い天井から、幾つもの魔石灯が吊るされ、居並ぶ長机の上に、青白い光を落としている。
受験者は、思っていたより少なかった。三ツ星から準極星へ、その一段を越えようとする者自体が稀なのだと、改めて実感させられる。
エルヴは指定された席に着き、周囲を見回した。見知らぬ顔がほとんどだったが、一角に固まって座る一団だけは、どこか浮ついた空気を纏っていた。華やかな装飾を施した肉糸の見本を袖口に覗かせた者、髪に色鮮やかな染料を纏わせた者。前腕に、小鳥や草花の意匠の鮮やかな魔法陣を施しているものも目立つ。飾り縫いを得意とする者たちだと、一目で分かった。
「―ほら、アトリエ・スカーレットの…」
「―あれだろう?銀針のシルヴァンの…」
小声で交わされる噂話が、耳に届く。エルヴは何も言わず、視線を机上へと落とした。
答案用紙と問題冊子が配布される。
「どうぞ」
覚えのある声にエルヴが顔をあげると、それは、水鏡亭でスライムの餌を購入していたあの監査官だった。彼は小さく微笑むと、用紙と冊子を滑らかな手つきでエルヴの手元にすべらせた。
静かな足音がエルヴを通り過ぎていく。エルヴは息を吐き、再び机上へと視線を戻した。
「始め」
試験開始の合図とともに、エルヴは冊子を開いた。
―問一。仕立てにおける“崩解”の定義を解答せよ。
―解。粗悪な肉糸や技術不足、および素材との拒絶反応により肉糸が暴走し、編み込んだ筋肉や骨が解け崩れる現象。
エルヴは一問ずつ、淡々とペンを進めていく。
素材の適合率、染料の配合比、拒絶反応の理論など、実務に即した設問が並ぶ。どれも銀針堂で、頭と手に染み込ませた内容ばかりだ。エルヴのペンはよどみなく文字を連ねる。
だが、後半のページに差し掛かったところで、その手が止まった。
―問七。定着させた素材が被施術者の生命を脅かす状態となった場合、施術者は何を優先すべきか。
見慣れた設問だった。だが、エルヴの脳裏に浮かんだのは別の光景だった。
緋色の蝶が皮膚を破って舞い上がる光景。雨に濡れた石畳に崩れ落ちた、レティシアの体。
―翼を、完成させないで。
ペン先が、紙面の上でわずかに震えた。それから、改めてペンを動かし始めた。教本通りの正答を、一言一句過不足なく書き上げていく。
―解。定着を解除し、被施術者の生命を優先する。
エルヴは一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。だが、その裏で、レティシアの声だけが、静かに反響し続けていた。
残りの設問は、作業のように進んだ。素材の目利き、染料の調合理論、施術記録の様式に関する実務的な問い。エルヴは機械的にそれらを片付け、最後の一枚を書き終えると、静かにペンを置いた。
「―時間です。答案を回収します」
エイレンの声が響き、講堂内に安堵と緊張の入り混じったざわめきが広がった。
長い机の間を歩きながら答案を集めていた試験官の一人が、ふと講堂の入り口に向けて頭を下げた。
「ヴェリシア様」
その名に、エルヴは思わず顔を上げた。
講堂の扉から入ってきたのは、一人の女性だった。ただ、異常に美しい。紫の髪が、意思を持っているかのように緩やかに揺れている。髪だけでない。瞼、瞳、唇の一つ一つが、それぞれに丹精された作品のように、艷やかに息づいている。年若い受験者たち、特に男性の間から、囁くようなざわめきが起こった。
「極星ヴェリシア様だ…」
「サロン・ド・リリスの」
飾り縫いの一団が、明らかに色めき立つ。彼女はその視線を優雅に受け流しながら、講堂の中央へと歩を進めた。
「お疲れ様、皆さん」
明るい声だった。彼女の視線が、答案を集めるエイレンの手元を過ぎ、それからゆっくりと講堂を見渡す。その一瞥に、まるで風が吹き付けたかのように受験生たちがどよめいた。
「今回の実技試験には、私が立ち会わせていただきます」
言葉を続けながら、ヴェリシアは歩みを進め、エルヴの席で止まった。
「銀針堂の、エルヴァン君ね」
「…はい」
「レティシアから、貴方の話はよく聞いていたわ」
その一言に、エルヴの心臓が、小さく跳ねた。
「レティ姉さんを…ご存知なんですか」
「ご存知も何も」
ヴェリシアは、袖口の刺繍をそっと撫でながら、微笑んだ。
「彼女、うちにもよく顔を出していたのよ。飾り縫いの基礎を、少し教えたこともあるわ」
その言葉に、エルヴの中で、静かな違和感が芽生えた。父の直弟子だったはずのレティシアが、なぜヴェリシアのもとにも出入りしていたのか。
「彼女、筋がいい生徒だったわ。…あんな結末になるなんて、思ってもみなかったけれど」
ヴェリシアの声に、微かな翳りが差した。だが、それも一瞬のことで、彼女はすぐに優雅な微笑みを取り戻した。
「今日はお疲れ様。しっかり休んでおいて」
そう言い残し、ヴェリシアは踵を返し、講堂を出ていった。軽く振られた手首から、紅色の飾り縫いが覗いた。
エルヴは、答案を回収されたばかりの、まだ書きかけの記憶が残る手元を見つめた。
講堂の外では、午後の陽が、雲の切れ間から弱く差し込んでいた。
筆記試験を終えた頃には、既に日が傾き始めていた。
鉄針府の講堂を出ると、湿った風が頬を撫でる。エルヴは強張った指先を解すように、軽く握って開いてを繰り返した。
「終わったー!ようやく解放されたな!」
背後から声をかけてきたのは、隣室の青年、ダリオだった。試験の緊張などどこ吹く風といった様子で、大きく伸びをしていた。
「お疲れさま」
「お前、最後の設問どうだった?拒絶反応の相殺理論のとこ」
「…たぶん、合ってると思います」
「まじか。俺、途中から適当に埋めた」
悪びれもせず笑うダリオに、エルヴは小さく苦笑した。部屋が隣同士、ということでいくらか言葉を交わしただけの仲だったが、この数日で自然と行動を共にすることが増えていた。
「これから何か用事あるか?俺は久々に骨休めしようと思ってさ」
「氷骨堂に、寄りたいんです」
「氷骨堂?ああ、ナザルク先生のとこか」
ダリオが少し驚いたように眉を上げた。
「見舞いです。…知り合いが、世話になっていて」
「なら俺も行くわ。ちょうど、クロイゼン将軍も今日そっちにいるはずだし」
「クロイゼンさんが?」
「定着薬の受け取り日だろ、確か。俺、たまに使いっ走りで顔出すんだよ」
そう言ってダリオは歩き出した。エルヴはその背を追いながら、胸の内でひとつ、小さな緊張を覚えた。
氷骨堂の扉をくぐると、薄荷のような独特の冷たさが鼻腔をくぐり抜けた。奥の診療室から、聞き覚えのある低い声が響いてくる。
「―以上。次の処方は遠征後だね」
「分かった」
ナザルクの穏やかな声に応じているのは、クロイゼンだった。小瓶を懐にしまい込む彼の傍らに、白銀の甲冑を纏ったネフィラの姿もある。
「あ、エルヴだ」
ネフィラが振り返り、片手を上げた。
「見舞いに来たのか」
「はい。…ネフィラさんも?」
「ちょうど通りかかったんでな。クロイゼン将軍と鉢合わせた」
ネフィラが軽く肩をすくめる横で、クロイゼンは静かにエルヴへと視線を向けた。エルヴは自然に肩が強張るのを感じた。
「試験、終わったのか」
「筆記だけです。…実技はまだ」
「そうか」
短いやり取りだったが、ダリオが慌てたように背筋を伸ばすのが、エルヴの視界の端に映った。先ほどまでの気安い様子が嘘のように、彼の口調が硬くなる。
「お、お疲れ様です、クロイゼン将軍」
「…ダリオ、だったな」
「はい!覚えていただけて光栄です!」
クロイゼンは短く頷いただけだったが、ダリオはそれだけで喜色を浮かべて目を輝かせた。エルヴはナザルクに向き直った。
「レティ姉さんの様子は」
エルヴが尋ねると、ナザルクが診療室の奥、白い布で仕切られた一角へと視線を促した。
「変わらない。だが、悪くもなっていない。…見てやるといい」
エルヴは頷き、静かに歩を進めた。仕切りの奥、施術台の上に横たわるレティシアの姿があった。青白い顔、緩やかに上下する胸。眠っているようにしか見えない、静かな寝顔だった。
「レティ姉さん」
囁くように呼びかける。反応はなかった。ただ、規則正しい呼吸だけが、静寂の中に続いている。
エルヴはその手を、そっと握った。冷たくはない。だが、力の抜けた指は、握り返してはくれなかった。
「…また、来ますから」
小さく告げて、手を離す。
戻ってきたエルヴに、ネフィラが労わるような視線を向けた。
「変わらずか」
「…はい」
短いやり取りの後、エルヴはふとナザルクを振り返った。
「そういえば、ナザルク先生。父さ…父のことをご存知なんですか?」
ナザルクは手元の器具を片付けながら、特に気負う様子もなく頷いた。彼の前腕の継ぎ目から半透明の細い触手が伸び、細かな器具を器用に束ねている。クロイゼンは見慣れているのか、平然とその様子を眺めている。
「よく知っているも何も。…シルヴァンは、私の弟子だったからな」
「え」
エルヴは思わず声を上げた。初めて聞く話だった
「知らなかったか」
ナザルクの片眼鏡が、静かな光を反射する。仕事を終えたらしい触手が、しゅるしゅると皮膚の縫い目の内側に戻っていく。
「まだ二ツ星にもならぬ頃、あれは私のもとで骨と歯の仕立てを学んでいた。…筋は良かったよ。手先の器用さより先に、素材を見る目が育つ職人は珍しい」
懐かしむような響きだった。だが、その口調のどこかに、単なる懐古とは違う、微かな苦みが混じっているように、エルヴには感じられた。
「彼が、極星まで上り詰め、翼を編もうとするとは、私も信じられなかったが」
「翼を…」
エルヴが呟くと、ナザルクは小さく頷いた。
「異形化仕立ての中でも、最も無謀な領域だ。私も、彼が本気で翼を編もうとしていると知った時は、正直、正気を疑った」
「止めなかったんですか」
ネフィラが率直に問う。ナザルクは器具を仕舞う手を止め、少しの間、沈黙した。
「…止められるものでもなかった。それに」
彼は、白く血の気の無い自身の指先に、ちらりと視線を落とした。
「誰かが、その先を目指さねば、技術というものは止まったままだ。…危険を承知で進む者を、どこまで止める権利が、師にあるのか。私には、今でも分からん」
穏やかな声だったが、エルヴは、その言葉の奥に何かが沈んでいるのを感じた。だが、それが何なのかまでは掴めない。
「…難しい話だな」
ダリオが、場の空気をやんわりと崩すように、頭を掻いた。
「まあ、とにかく。エルヴ、その工房の件、また連絡するわ」
「本当ですか」
「ああ。俺の友達が、王都三条で工房やっててさ。貸してくれると思うぞ。今度、話通しとくよ」
エルヴは安堵の息をついた。銀針堂はまだ衛兵らによって封鎖されている。彼は、ネフィラの右腕の施術をするための場所探しを、ダリオに頼んでいたのだ。エルヴは思わず頭を下げた。
「助かります」
「気にすんな。…つっても、俺は口利くだけだけどな」
笑いながらそう続けるダリオの横で、ふとクロイゼンが口を開いた。
「エルヴ」
「はい」
「その施術の日、俺も同行させろ」
唐突な申し出に、エルヴは目を瞬かせた。
「…どうしてですか」
「お前の腕を、見ておきたい」
短い言葉だった。だが、その眼差しには、単なる気まぐれとは思えない静かな真剣さがあった。
「法廷での鑑定は聞いた。だが、実際にこの目で見ておきたい」
ネフィラが片眉を上げ、面白がるようにクロイゼンを見た。
「珍しい。将軍がそんなことを言い出すとは」
「珍しくはない」
いつもの平坦な口調で、クロイゼンはそう答えた。
エルヴは無意識に、腰のホルダーの針箱を探った。鉄針府の執務室で見た、クロイゼンの骨翼が脳裏に蘇る。
―父に九分通り仕立てられた男が、自分の施術を見る。
クロイゼンは口には出さないだろうが、その運針を比べるだろう。極星・銀針のシルヴァンと三ツ星のエルヴを。
「…分かりました。よろしくお願いします」
エルヴが頭を下げると、クロイゼンは小さく頷いた。




