ep12.三ツ星仕立て
エルヴは乗り合い魔導車から降り、軽く肩を回した。
ダリオに教えられた工房は、王都三条の中心、大通りに面した場所にあった。黒塗りの看板には流麗な筆致で「響糸工房」と刻まれている。ダリオが無造作にその扉を開けると、扉に掛けられた金属管がシャララ、と澄んだ音を奏でた。ダリオに続き、ネフィラが店内へと入っていく。
「ああ、いらっしゃい」
黒大理石のカウンターの向こうから黒髪の青年が歩いてくる。仕立てのよい黒の上着の高い襟には、金の刺繍が施されている。彼はまずクロイゼンに向かって恭しく頭を下げた。
「お目にかかれて光栄です。クロイゼン将軍。ご武功についてはかねがね伺っております」
彼は次いで、エルヴの方に向き直った。
「はじめまして。僕はライル・グリンデル。ダリオから話は聞いてるよ」
「エルヴァン・テイラー。今日はありがとう」
エルヴが差し出された手を握り返すと、ライルは愛想よく笑った。ライルの指は長く、関節が柔らかい。いかにも熟練の三ツ星職人らしい手のつくりだった。
ライルも同じことを思ったらしい。エルヴを手招きすると、カウンター奥の戸棚を開き、頭部の模擬素体の二つを示した。一方は飾り縫い、一方は隠し縫いで氷の魔法陣が縫い込まれている。
「これ、どう思う?」
ライルが隠し縫いの方をエルヴに手渡す。
「甘い」
「即答か」
エルヴの答えにダリオが笑った。
「引きしろが浅い。氷の魔力を通せば、三か月で表皮の肉糸が収縮する」
エルヴは模擬素体の耳裏、肉糸が皮膜をくぐる角度を指先で指し示した。
「表に出ていない分、内側の冷気を逃がすゆとりがない。飾り縫いなら糸の歪みを逃がせるが、絎けて隠すなら、あとコンマ二ミリ深く溝を削って埋めなければ、結び目が傷む」
ライルは感嘆の吐息を漏らし、胸ポケットの金のペンを抜き、作業台の脇から羊皮紙を取り出すと、真剣な眼差しでエルヴの指摘を書き留めた。
「参考になったよ。うちは客の要望次第でどっちもやるんだけど、どうも僕は隠し縫いが苦手でね」
ライルは苦笑いを浮かべた。
「ありがとう、エルヴ。三番の部屋が空けてある。自由に使ってくれて構わないよ」
ライルが奥へ向けて手を打つと、女性店員が現れた。彼女は深々とお辞儀をし、エルヴたちを奥の回廊へと案内し始める。
廊下に踏み出すと、表通りの喧騒は分厚い黒石の壁に遮られ、静けさが足元に落ちた。
「あいつにもいろいろ苦労があるんだろうな」
前を歩くダリオが、声を落として短く呟いた。
「ここ、あいつのじいさんの代からの老舗だ」
回廊の壁面には、磨き上げられた黒大理石にはめ込む形で、幾つもの金のプレートが並んでいた。
『王立響声大祭:魔声詠唱・調律競技会、優勝者施術店』
『華針の大典・魔声仕立て部門:金賞』
歴史と名声が、重厚な板の重みとなって壁に固定されていた。エルヴは視線を前方に戻す。
「こちらでございます」
店員の女性が重厚な木製ドアの前で立ち止まり、静かに扉を開いた。深く頭を下げて辞去していく彼女の背を見送り、エルヴたちは室内へと足を踏み入れる。
三番施術室の中央には、滑らかな革張りの施術台が鎮座していた。脇には金属の洗面台と、照明用の魔石灯が配置されている。
「ネフィラさん、こちらへ」
エルヴの指示に従い、ネフィラは甲冑を外した軽装のまま施術台へと身を横たえた。革が沈み込む鈍い音が室内に響く。
エルヴは腰の革ホルダーから、銀飾りの針箱を引き抜いた。中には揃えられた銀の骨針が整然と収まっている。カバンから、一つの冊子を取り出す。それは、銀針堂の原本から写した、ネフィラの縫合台帳だ。
「診断も針のうち」──仕立て師たちが最初に叩き込まれる格言だ。
エルヴは縫合台帳にびっしりと書き込まれた彼女の身体情報を頭に叩き込んでいく。
星位が上がるにつれ、求められるのは単なる縫合技術の精度だけではない。被施術者の魔力量や肉体強度、素材への適性を見極め、崩解を防ぐ責任もまた、比例して重くなるのだ。
備え付けの洗面台へ向かい、蛇口をひねる。両手を洗うと、水滴を布巾で拭い去り、白蜘蛛糸織りの薄手袋を手にとった。指先から滑り込ませると、吸い付くように皮膚へ密着する。
ネフィラの右腕の前に立つ。エルヴは麻酔薬の入ったガラス瓶から薬液シリンジで吸い上げた。ネフィラの右腕、上腕二頭筋の付け根から前腕にかけて、神経節が交差する三箇所へ極細の針を刺し込む。
「冷たいな」
「すぐ感覚が消えます。動かさないでください」
エルヴの視界の端、数歩離れた部屋の壁際では、ダリオとクロイゼンが腕を組み、佇んでいた。
クロイゼンの鉄色の瞳が、一直線にエルヴの手元を射抜いている。黒革の手袋に覆われた右手、その指先がわずかに動いた。
「始める」
エルヴは短く告げると、作業台の端に置かれた小瓶へ手を伸ばした。
「今日入れるのは、風纏いの補助魔法陣です。剣を振るう瞬間、腕の振りに合わせて、局所的な突風を生じさせます。攻撃の間合いをわずかに伸ばし、あるいは払いの威力を上乗せする」
針箱の磁器の仕切りから、一本の銀の骨針を取り出す。
「飛竜の血で染めたものです」
言いながら、赤い肉糸を骨針の小さな穴へ通した。糸の表面は濡れた光沢を帯びている。
浅く、しかし正確に。表面に糸の結び目を残さず、筋膜の走りへ直接、螺旋を描く幾何学模様を落とし込んでいく。作業に入ると、エルヴの意識は急速に狭まっていった。指先の感覚、糸の張り、皮下の抵抗。それ以外のものが、するりと視界の外へ押しやられる。
だが、視界の端に、クロイゼンの姿だけは、絶えず残り続けていた。
「―ここまでで、一区切りです。少し休みましょう」
エルヴが骨針を引き抜き、息を吐いた。
ネフィラは半身を起こし、麻酔の残る右腕を何度か握り直した。
「もう分かるぞ。なんとなく疼く、というか」
壁際に控えていたクロイゼンが、無音の足取りで近づいてきた。
「いいか?」
短く問いかけるクロイゼンに対し、エルヴは身体を硬くし、施術台の脇へと一歩退いた。革手袋に覆われた右手を眼前で動かされるたび、父の仕立てた男の威圧感が部屋の空気を圧迫する。
「装飾を挟まず、最短の経路で神経に沿わせている。魔力の伝達効率を優先した設計だ」
評価を下す声には起伏がない。
「悪くない」
その一言を残し、クロイゼンは再び壁際へと戻った。
エルヴは胸の奥で固まっていた呼吸をゆっくりと吐き出した。肩の筋肉から解けるように緊張が落ちていく。
「後半、続けます」
再び指先を走らせる。骨針が皮膚をくぐる速度が滑らかさを増し、肉糸は正確な円弧を描いて右腕の皮膚の下へと消えていった。
「終了です」
エルヴが糸の末端を処置し、手袋を外した。外の光はわずかに橙色を帯び始めている。
ネフィラは施術台の上に身体を起こし、じっと右腕を見つめた。表皮には一筋の縫合跡もなく、滑らかな肌が光を反射しているだけだった。
「見た目はほとんど変わらんな」
「隠し縫いですから」
エルヴが道具を拭いながら答える。
「だが、嬉しい。これで私も一人前の“三ツ星仕立て”だ」
ネフィラは拳を握り締め、満足そうに笑った。
筋肉を編む一ツ星、骨を編む二ツ星。そして神経、内臓、魔法陣を体内に組み込む三ツ星。ネフィラはすでに筋肉と骨格、心肺系および反射神経の強化施術を完了させている。星位は施術を行う職人に与えられる階級だが、その施術を受けた者もまた、担当職人の星位を冠して呼ばれるのが慣わしだった。ネフィラの名は、三ツ星仕立てとして騎士名簿に刻まれることになる。
「試し切りをしたいところだが…」
「駄目です。しばらく余計な負荷をかけないでください。あと、術後一ヶ月は定着薬を飲んでください」
肘を回そうとしたネフィラを、エルヴは即座に制した。
「あのまずいやつか」
ネフィラが露骨に眉をひそめ、顔を歪める。
「うちではシロップ入りも取り扱ってますよ」
施術室の扉が開き、ライルが入室してきた。その手には、細長い小瓶が握られている。
「いいな。それにしてくれ」
「どうぞ」
ライルは笑顔で小瓶を手渡した。その視線がネフィラの右腕、その皮膚の僅かな張りに向けられた。
「いい腕だね」
ライルがエルヴに向き直り、静かに言った。
「ありがとう」
エルヴが答える横で、ネフィラが小瓶の栓を抜き、一気に定着薬を飲み干す。
「いつものよりずっと飲みやすい」
「それはなにより。ちなみにお代金はこちらです」
ライルは爽やかな笑みを崩さぬまま、ネフィラへ一枚の用紙を差し出した。エルヴが脇から覗き込むと、そこにはきっちり三十日分の定着薬と調合代が記載されている。
「商売上手だな」
後ろから紙面を見たダリオが笑った。
ネフィラは苦笑しながら用紙を受け取り、施術台から床へと足を下ろした。
「この後、どうするんだ?」
「今回の施術を記録した縫合台帳の写しを縫籍院に提出します」
「面倒だな」
「だったら僕が魔導車で縫籍院まで送るよ」
ライルが申し出た。
「いいの?」
「僕も今月分の店の施術記録を提出しなきゃならないんだ。ついでだよ」
ライルはそう言うと、視線を壁際の男へと向けた。
「クロイゼン将軍は…」
「俺も縫籍院に用がある。同乗してかまわないか?」
「もちろんです」
一同は施術室を後にした。受付を通過する際、黒大理石のカウンターの奥から女性店員が深々と頭を下げる。
店舗の外に出ると、大通り沿いに停められた金飾りが施された黒塗りの魔導車が待機していた。全員が車内へ乗り込むと、車体は重厚な駆動音を低く響かせ、石畳の通りを滑らかに走り出した。
車内の二列目の後部座席で、エルヴは膝の上に置いた鞄の縁を指先でなぞっていた。すぐ隣には、黒革の手袋を嵌めた両手を膝上で組むクロイゼンが座っている。
後方の三列目からは、活気のある声が響いていた。
「次の魔獣狩り部隊の編成だがな、前衛の配置を少し変える予定らしい」
「へえ、ネフィラさんの隊ですか?今回の魔獣狩りは試験にも組み込まれますからね」
ネフィラが身を乗り出して語る作戦案に、ダリオが身を乗り出して相槌を打つ。二人の軽快なやり取りが、魔導車の駆動音と混ざり合っていた。
「ここから一番近いのは縫籍院の第三支部ですが…将軍のお申し付けは中央の本院でしたね」
助手席に座るライルが、バックミラー越しに後方に視線を送った。
「ああ」
クロイゼンが短く応じる。ライルは頷き、前方の運転手に視線を向けた。
「中央へ向かってくれ」
黒塗りの魔導車は速度を上げ、三条の大通りから二条の滑らかな石畳へ、さらに王都の中枢である一条へと進む。
立ち並ぶ建物の意匠は華やかさを増し、街灯に組み込まれた魔石の光が、ガラス窓を白く照らし出す。交差点に差し掛かると、交通誘導にあたる衛兵が信号灯の操作レバーを引き、赤の光信号を点灯させた。車体が静かに減速し、停止する。
エルヴがふと窓の外へ視線を向けると、歩道側に高級魔導車の車列が延びていた。その奥に立つ重厚な建物の壁面には、華麗な筆致で「サロン・ド・リリス」と刻まれている。極星ヴェリシアの店だった。
「いつ見てもすごいな、ここは」
エルヴの後ろからダリオが感嘆の声を漏らし、窓に顔を近づけた。
「新規の予約は三年待ちだと聞くよ」
ライルが苦笑混じりに応じる。
「三年?」
ネフィラが目を丸くし、呆れたように息を吐いた。
サロンの門前では、絹のドレスや飾りの施された外套を纏った客たちが、魔導車のドアから次々と降り立ち、重厚な扉の奥へと吸い込まれていく。
そのとき、サロンの敷地脇にある細い勝手口から、一台の黒い魔導車が滑り出てきた。車体は通りへ出ると、合図もなく強引にエルヴたちの乗る魔導車の直前へと割り込んだ。
「後から来たというのに、随分と強引な運転をするな」
ネフィラが眉をひそめた。
「まあまあ。サロンの客なら、大物貴族か高位の職人かもしれないしな」
ダリオが苦笑しながらなだめる。
やがて交差点の信号灯が青へと切り替わり、前方の車両が動き出した。エルヴは何気なく、割り込んできた車の後部座席へ目を向けた。ガラス越しに見える人物の後頭部が、振り子のようにぐらぐらと不自然な周期で揺れている。
(眠っているのだろうか)
そう思った瞬間、前を行く車の速度が急激に落ちた。車体が路肩へ寄ることすらなく完全に停止する。
前照灯の光のなかで、その車の運転席の窓が開き、男が焦燥しきった顔を大きく突き出してきた。
「すいません!響糸工房の方ですよね。お嬢様の様子がおかしいんです!」
男の叫び声が黄昏に響いた。
ライルが即座に窓を開け、前方の車へと指示を飛ばす。
「落ち着いて、まずは道をあけて脇に寄せてくれ!」
二台の魔導車が、大通りの路肩へと寄せられた。エルヴたちが車外へ飛び出すのとほぼ同時に、前方のドアが開き、運転手に抱えられた女性が姿を現した。
彼女の顔は蒼白で、唇からは血の気が引いている。露わになった右腕の皮膚には、純白の肉糸で白鳥の意匠が縫い込まれている。
(あの時…試験会場にいた…)
講堂の長机で、華やかな肉糸の飾り縫いを覗かせていた姿がエルヴの脳裏に蘇る。彼女もまた、エルヴと同じく準極星を目指す三ツ星の職人なのだ。
「フィオナ!」
ライルが駆け寄り、彼女の肩を支えた。
「ライル…」
フィオナの瞳は焦点を結んでおらず、声は途切れ途切れだった。
「拒絶反応か?」
ダリオが息をのむ。
「定着薬なら、私が先ほどもらったシロップ入りのものが残っているが」
ネフィラが腰の小鞄に手を伸ばす。後方からクロイゼンが歩み寄る。
「ダリオ、氷骨堂に連絡を入れろ」
「は、はい!」
ダリオは一瞬身を正すと、路地沿いの店舗へ向かって一直線に走り出した。彼自身にも肉体強化が施されているのか、あっという間にその背が小さくなる。ライルはフィオナの首筋に指を押し当て、体温と脈を確かめた。
「脈は…やや速いか。だが、跳ねてはいない」
彼女の首筋から鎖骨にかけては、白い肉糸で白鳥の羽を模した飾り縫いがレースのように施されていた。羽の一枚一枚の輪郭が、夕日に仄白く光っている。
「エルヴ、お前も見てくれ」
ライルに促され、エルヴはフィオナの前へと膝をついた。指先を彼女の首筋の皮膚へと滑らせる。
脈拍の周期、皮膚の表層を走る魔力線、そして編み込まれた肉糸の沈み具合。
(拒絶反応の兆候はない…だが、なんだ?この違和感は)
エルヴの得意とする隠し縫いは、飾り縫いとは異なり、肉糸を皮膚の裏側に埋め込む。視覚に頼らず指先の感覚だけで微細な兆候を読むこと。それはエルヴにとって、呼吸と同じ程に自然の動作だった。
指先から伝わる感触は、均一であるべき糸の張りが、不規則に歪み、増殖していることを示していた。エルヴが隣の糸を探ろうとした直後、彼の指が触れていた白い肉糸が、生き物のように蠢いた。
「っ…!」
手を引き剥がそうとした瞬間、皮下の肉糸が一気に膨らみ、指頭を押し包んだ。
「離れろ!」
ネフィラがエルヴの肩を掴み、力任せに後ろへと引き戻す。
フィオナの首筋にあった白い肉糸は、凄まじい密度で体外へと溢れ出した。糸は捩れ合い、重なり合い、鳥の羽毛に似た白の束となって、彼女の項から背中全体を包み込むように爆発的に広がっていく。
「フィオナ!」
ライルが叫び、手を伸ばそうとしたが、その身体をクロイゼンが腕で制した。
「待て」
白い肉糸の群れは、互いに交差し、糸と糸が隙間なく噛み合い、巨大な形状へと編み上がっていく。
フィオナの身体が吊られたように持ち上がる。その背に、白い翼が羽ばたく。斜陽が、長く影を曳いた。




