ep13.裁断部隊
膨れ上がった白い翼が羽ばたく。風圧が石畳の塵を巻き上げ、吊り上げられたフィオナの体が人形のように揺れた。
「ネフィラ」
クロイゼンが告げた。
「通行人を避難させろ」
路地の奥から靴底を鳴らしてダリオが走り戻ってきた。「氷骨堂に連絡しました」と言いかけた口が、背を覆う巨大な白い翼を前に半開きのまま固まる。
「裁断部隊、第一から第三まで出動。俺の命令だ、と伝えろ」
クロイゼンが命じると、ダリオは吐息を白く乱しながら、来た道を再び蹴って疾走していった。
ライルは声を張って運転手らに指示を飛ばし、二台の黒塗りの魔導車を路肩と通りの間にV字型へと配置させた。車体の影、その先端にライル、エルヴ、そして運転手たちが身を潜める。
開けた石畳のただ中に、クロイゼンが一人立っていた。彼は無造作に靴底を鳴らし、フィオナとの距離を詰める。
白い翼が持ち上がり、羽毛が一斉に逆立った。クロイゼンは足を止めない。エルヴは車体の陰で膝を浮かせた。
逆立った羽根が、無数の矢となって射出された。
クロイゼンの左腕から、骨翼が跳ね上がる。前面に展開されたその表面へ、打ち出された羽根が甲高い音を立てて弾けた。間髪を入れず、クロイゼンが低く姿勢を落として地を蹴る。
肉薄するクロイゼンに対し、翼が風を孕んで後退する。フィオナの四肢は力なく空を泳ぐが、波打つ風切り羽根が左右の平衡を保つ。
「フィオナ…」
ライルが唇を噛み締め、低く呟く。
エルヴの眼球は、翼の根元で蠢く肉糸の交差し合う軌跡を追っていた。組織の接続点。精巧すぎる編み込み。
クロイゼンが右手首をひねった。カチリ、と金属質の硬い音が響く。反らされた手首の裏から、杭状の長大な骨針が一直線に打ち出され、翼を貫いた。
(縫い目の起点に)
エルヴは息を呑んだ。
骨針がフィオナの左翼の半ばを貫き、石畳の隙間へ深く刺さっていた。左翼が地面に縫い止められる。
「いた…い…」
フィオナの口から、掠れた呻きが漏れる。縫合された翼は、すでに彼女自身の一部だ。エルヴの脳裏に、かつて路地裏の獣に牙を立てられた際の、灼けるような痛みが蘇る。
右翼がのたうち、クロイゼンへ向けて振り下ろされようとする。
今度はクロイゼンの左手首が鳴った。羽根が再び逆立つ間もなく、放たれた二本目の骨針が右翼を石畳へ穿ち留めた。
左右の翼を地面に固定された彼女の姿は、展翅板に縫い留められた蝶そのものだった。
「いや、…ころさ…ないで…」
フィオナの首筋が途切れ途切れに震える。
背後で激しい車輪の摩擦音が弾けた。振り返ると、滑り込んできた軍用魔導車から甲冑の音とともに騎士たちが降り立つところだった。最後尾の車からダリオが飛び出し、エルヴたちのいる車体の影へと駆け寄ってくる。ライルは沈黙したまま、微動だにせず前方を見つめていた。
騎士たちが一斉にクロイゼンのもとへ集まる。その中にネフィラの姿があった。
ネフィラを含む二人の騎士が、フィオナの両脇へと移動する。刺さっていた骨針を手早く引き抜くと同時に、ネフィラが軍用規格のぶ厚い封蠟帯をフィオナの右翼の先端から一気に巻き付けていく。もう一人の騎士が左翼へ同じ処理を施す。封蠟の圧力に押され、翼の動きが次第に鈍くなっていった。
ネフィラたちが作業を終えて素早く身を引き、立ち上がる。翼の根元には、二巻分ほどの隙間が白く残されていた。
「裁断する」
クロイゼンが腰の長剣を抜く。
──裁断部隊。
エルヴはその組織名の意味を、研ぎ澄まされた鋼の光沢によって直視させられた。
ダリオは顔を背け、立ち上がろうとするライルの肩を両手で強く押さえつけた。しかし、エルヴの視線は固定されたまま動かない。翼の動きは本物の鳥さながらの精緻さだった。それは一体、どんな糸によって、どんな針によって紡がれているのか。
「やめ…て…」
フィオナの掠れた拒絶と重ねて、裁断は執行された。
翼の大部分が切り落とされる。
クロイゼンは一拍置いた後、剣を鞘に収めた。
断面から赤い血は流れなかった。代わりに、切り揃えられた白い肉糸の端が、束となってゆらゆらと断面からのぞいている。ネフィラたちがすかさずその切断面へ封蠟帯を巻き直そうとした、その瞬間だった。
フィオナの背に残された、端切れのような羽毛の塊が跳ねた。
エルヴの目が大きく見開かれる。
糸玉が急激に巻き上がるように、断ち切られた小さな残骸が急速に膨らんでいく。だが、同時にフィオナの肉体が、綿を抜かれた人形のように輪郭を歪ませていった。
「フィオナ!」
ついにライルがダリオの腕を振り払い、立ち上がった。ダリオが必死に彼を引き留める。
エルヴは考えるより先に飛び出していた。
「おい、待て!」
ダリオの悲鳴のような制止が背に届く。
騎士達がエルヴを押しとどめる。
「通せ」
クロイゼンの声が落ち、騎士の制圧が解かれた。
エルヴは崩れ落ちるフィオナの脇へ膝をついた。彼女の皮膚は、血の気を失い、灰色に変色していく。膨張を続ける羽根の隙間、熱を帯びた項の奥深くへ、エルヴは指先を差し込んだ。
指頭が、皮膚の下に埋もれた冷たく硬質な角を捉える。
手首をひねり、一気に引き抜いた。ブツリ、と小さく組織が千切れる音が響き、急激に膨らんでいた羽毛の羽ばたきがピタリと止まった。
間近で見ていたネフィラが短く息を呑む。
エルヴの指先が抜き取ったのは、一本の金の骨針だった。
夕日を受け、針の表面に刻まれた刻印が浮かび上がる。刻印の大部分が潰されている。
「フィオナ!」
ダリオを振り切ったライルが駆け込んでくる。
ハッと我に返ったエルヴが視線を下ろした。
フィオナの背からは、ふっくらとした美しい白い羽毛が、未だ温もりと脈動を保ったまま広がっている。しかし、その中心にある彼女の身体は、骨組みを失った紙細工のように、音もなく“崩解”していた。
中央縫籍院地下二階。作業場には、防腐剤と血の匂いが幾重にも折り重なっていた。
石台の上には、二つの“崩解体”が並べられている。一つは、路地裏で仕留められ、先日再生して暴れたばかりの六ツ足の獣―正確には、獣の姿を保ったままの残骸だ。もう一つは、白い羽毛に覆われたままのフィオナの体だった。
部屋の隅には、ネフィラとその部下が控えていた。ネフィラは腰の大剣に手をかけたまま、微動だにせず獣の残骸を見張っている。先日の再生を思えば、当然の配置だった。エイレンが鍵付きの手文庫を空いた作業台に置いた。
「始めよう」
ナザルクが白蜘蛛糸織りの手袋を嵌めながら言った。片眼鏡が魔石灯の光を跳ね返す。彼の傍らには、書き取り用の羊皮紙を構えたメラディが立っていた。首元の赤布は、いつもより硬く巻き直されている。
「まず、一体目から」
ナザルクが、白く血の気の失せた指先を獣の残骸へと滑らせた。彼の氷結骨針で肉糸の動きを止められた獣からは、かすかに冷気が漂っている。
「崩れたのは、表皮と筋肉。ここまで綺麗に外側だけが崩解するのは、私も初めて見る。骨格と臓器は、ほとんど無傷だ」
「だから再生した?」
エルヴが尋ねると、ナザルクは小さく頷いた。
「そういえば」
エイレンが手文庫から金の針を取り出した。
「この路地裏の崩解体から発見された金の針の刻印は潰されていませんでしたね」
ナザルクはエイレンから針を受け取り、指先で刻印をなぞった。
「…改造が浅い。“かつての”シルヴァンの針をほぼそのまま使っている」
「…あの」
エルヴの声にナザルクが反応する。
「“かつての”ということは…父さんは昔は金の針を使っていたんですよね」
「そうだ」
「どういう針だったんですか?」
「…」
片眼鏡の奥で、ナザルクの瞳がわずかに細まる。
「…結節点だ。魔力を一点に集中させるための針。少なくとも、最初はそうだった」
エイレンがナザルクから針を受け取り、革紐で巻き包んで手文庫に収め直した。
「次だ」
ナザルクは獣の台から離れ、フィオナの台へと歩を進めた。白布を、静かにめくる。
エルヴは、無意識に喉を鳴らした。
灰色に変色した皮膚。骨組みを失い、薄く萎んだ体軀。だが、背に残された白い羽毛だけが、なおも温もりを保っているかのように、柔らかく波打っていた。
「こちらは、逆だ」
ナザルクの指先が、フィオナの背骨の位置をなぞる。
「翼と、それを支える羽根の構造は、ほぼ無傷のまま保存されている。だが、内側の骨格は完全に失われている」
「一体目とは、崩れ方が違う」
エルヴはフィオナの背に触れた。白い羽毛の根元、皮膚の下に手を差し入れる。表皮も、その下の筋肉も、驚くほど原形を保っていた。だが、指先が骨に触れた瞬間、エルヴの息が止まる。
肋骨が、ない。
正確には、あるべき位置に、脆く崩れた白い粘液状のものが詰まっているだけだった。皮膚と筋肉という“容れ物”だけが残され、その中身、骨格だけが崩解している。
「骨だけが、消えている」
エルヴの声が掠れた。
「一体目は外側だけ。こちらは骨格だけ…」
ナザルクが言葉を切った。
「まるで、狙って崩す場所を変えているようだ」
メラディが低く呟く。
「監査官殿は、どう見る」
彼女の視線が、エイレンへと向けられた。
「私は監査の人間だ。技術的な見立ては、専門家に任せますよ」
エイレンは穏やかに答え、石台の脇に歩み寄った。彼の視線が、フィオナの傷口、失われた骨格の跡へと落ちる。
「ナザルク殿、崩れる場所に何か法則性は」
「まだ分からん」
ナザルクは短く答え、フィオナの首筋の切開部へと指を這わせた。金の針が抜かれた跡、そこに残る微かな組織の変色を、彼はしばし無言で見つめた。
「崩解の起点が、明確に異なる。一体目は表皮。こちらは、骨そのもの、髄質に近い深部だ」
エルヴの脳裏に、雨に濡れた石畳の光景が蘇る。
「…レティ姉さんの時も」
三人の視線が、一斉にエルヴへと向いた。
「あの時、鎖骨のあたりから、糸が頸部に向かって伸びていました。俺が止めたのは、そこです。…あのまま進んでいたら」
「脳だ」
ナザルクが静かに引き取った。片眼鏡の奥で、瞳がわずかに翳る。
「あのまま侵食が進んでいれば、崩れていたのは骨でも表皮でもない。脳だっただろう。…お前が止めたから、彼女は今も息をしている」
室内に、重い沈黙が落ちた。
表皮。脳。そして、骨格。
三つの個体、三つの異なる崩壊箇所。まるで、一つずつ標的を変え、その都度何かを確かめているかのようだった。
「段階を踏んでいる、というわけか」
メラディが低く呟く。誰も、それを否定しなかった。
ナザルクは再び手袋の指先を動かし、フィオナの切開部の縁を撫でる。彼の眉根が、わずかに寄った。
「…妙だな」
「何が」
メラディが問う。ナザルクは、フィオナの皮下から、細い糸の断片をピンセットで摘み上げた。魔石灯にかざすと、それは淡く半透明の、粘性を帯びた光沢を放った。
「これは、通常の肉糸ではない」
「染料の違いですか」
エルヴが顔を寄せる。ナザルクは首を振った。
「染料以前の問題だ。糸の質そのものが違う。…触れてみるといい」
差し出された糸の断片に、エルヴは白手袋越しに指を這わせた。
粘る。まるで、まだ乾ききっていない蜜のような感触だった。魔物の血で染めた肉糸特有の、硬く濡れた光沢とは、明らかに違う。油膜のような虹色の光沢が、ぬめりながら光っていた。
「これは…」
エルヴの脳裏に、再生した崩解体の断面に触れた時のことが蘇る。―透明な肉糸。
(この感触…あの時触れた、透明な糸だ)
「一体目の断片とも、照合してみよう」
ナザルクは獣の台へと戻り、同じように肉糸の断片を採取した。二つを並べ、魔石灯の下で見比べる。
「…同質だ」
彼の声に、初めてわずかな翳りが混じった。
「両方とも、同じ性質の糸が使われている」
ナザルクは顎を引いた。
「レティシア・ベリスの時に回収した糸も、後で照合したほうがいい」
メラディが低く言い添える。ナザルクは頷き、断片を手元の小瓶へと収めた。
「性質、というのは」
エルヴが問うと、ナザルクは淡々と続けた。
「魔力の帯び方が、通常の魔物由来の染料とは根本から異なる。普通の肉糸は縫い込まれても“異物”として残る。だがこれは、人間に使うと、周囲の組織を巻き込んで糊のように溶ける」
ナザルクは一旦言葉を切った。
「私の見立てが正しければ、これは」
彼は、片眼鏡越しにエルヴを見た。
「人血で染めた糸だ」
部屋の空気が、一段と冷えたように感じられた。
「人血染め…」
エルヴは、その単語を口の中で繰り返した。典範の講義で、幾度となく叩き込まれた禁忌の名だった。
「典範に定められた、最重禁忌ですね」
「その通りだ」
メラディが羊皮紙にペンを走らせながら、短く応じた。
「発覚次第、即座に重刑。理由は知っているか」
エルヴは頷いた。
「人間の血を、他者の仕立てに用いること自体が、倫理的に許されない行為だからです。死者であれ、生者であれ―人を素材として扱う思想そのものが、職人の一線を越えている」
「…その理解で、間違ってはいない」
ナザルクは、小瓶を懐にしまいながら、静かに言った。
「だが、それだけでもない」
「え」
「今は、それでいい」
ナザルクの声には、それ以上の説明を拒む響きがあった。彼は白い指先を、フィオナの亡骸へと再び向ける。
「一体目にも、この女性にも、そしておそらくレティシア嬢にも、同一の技術による人血染めが使われている。…つまり」
「同一犯」
メラディが言葉を継いだ。
「金針事件のすべてに、この糸が絡んでいる可能性がある。しかも―」
彼女は羊皮紙に並んだ三体分の記録を、指先でなぞった。
「毎回、崩解させる部位を変えている」
エルヴは、フィオナの背に残された白い羽毛へと、もう一度視線を落とした。
「…誰が、何のために」
エルヴの呟きに、答える者はいなかった。
魔石灯の光の下、二つの崩解体だけが、静かに横たわり続けていた。




