ep14.サロン・ド・リリス
エルヴとネフィラ、ダリオが氷骨堂を訪れると、ナザルクはちょうど小型の保存槽を組み上げているところだった。
作業台の上に転がっているのは術式溝の刻まれた骨針だ。仕立てに使うものより長く、太い。ナザルクはそれを手に取り、保存槽の底となる台座に骨針を組んでいく。次に彼が手に取ったのは、加工された氷竜の硬化皮膜だ。半透明のガラス板のようなそれを、ナザルクは慎重に骨針と骨針の間に張り合わせていく。
外枠が組み上がると、彼は極細の氷結肉糸を針に通し、骨針と皮膜の境界を緻密な運針で縫い留めていく。針が皮膜をくぐるたび、チリ、という硬い音がかすかに鳴る。すべての縫合が完了すると、ナザルクは指先で具合を確かめ、満足したように頷いた。
「やあ、いらっしゃい」
ナザルクは微笑みながら立ち上がった。
「ちょうどいいところに来たね。完全な状態のバジリスクの眼球が手に入ったんだ。見ていくだろう?」
ナザルクは嬉しそうに、作業台の隅に置いてあった小型の保存槽に手を伸ばした。ネフィラが眉をひそめる。エルヴが覗き込むと、玉虫色の眼球がまるで生きているかのような艶めきでエルヴを見つめ返した。ダリオが「うわ」とたじろぐのが背後で聞こえた。
「…新鮮ですね」
「3日前に採取したんだ。本当に美しい」
ナザルクが機嫌よくその保存槽をエルヴに手渡した。ナザルク特製の保存液の、独特の薄荷のようなにおいが鼻腔を通り抜ける。エルヴは保存槽を持ち直した。槽自体がかすかに脈打っている。
「ナザルク式保存槽…」
「私としては“氷胎棺”と呼んでほしいんだけどね」
ナザルクが肩をすくめた。
ナザルクが開発したこの保存槽は、箱自体を“一つの生物”として定義する。氷竜の皮膜と骨針で外殻を組み、内部を血液代わりの特殊な保存液で満たす。この保存槽により、討伐部隊の戦果である魔物素材の歩留まりが、三倍近く向上したと聞く。傷ませず、乾燥させず、腐らせない。流通と保管における、まさに革命的な発明だった。
「レティシア嬢に会いに来たんだろう?彼女、こちらの声が聞こえるようだよ」
「えっ」
ナザルクの言葉に、エルヴはレティシアの病室に走り寄った。震える手で扉を開き、横たわるレティシアに歩を進める。
「…レティ姉さん」
ピクリ、とレティシアの指先が動いた。エルヴはその指先を握りしめる。ネフィラがエルヴの横に歩み寄った。ダリオが穏やかに眠るレティシアの顔を覗き込む。
「…よかったな。エルヴ」
「ええ…」
ネフィラの言葉に、エルヴはもう一度レティシアの手を握り直した。それと同時に、縫籍院の地下で横たわっていたフィオナの姿が脳裏をよぎる。彼女の手は硬く、ひどく冷たかった。
「…そういえば、ライルは」
ネフィラが言うと、ダリオは首を振った。あの後、ライルは運ばれるフィオナの身体に取りすがるようにして嗚咽を漏らしていた。
「相当、落ち込んでる。あいつ、フィオナのこと…」
ダリオはそこで言葉を切った。エルヴは何かを言いかけ、結局口を閉ざした。
「失礼します」
ノックの音ともに入室したのは、空の保存槽と花束を持ったエイレンだった。彼はエルヴらに軽く会釈すると、眠るレティシアに視線を移した。
「彼女の様子は?」
「眠ったままです…でも、話しかけると分かるみたいです」
エルヴはもう一度「レティ姉さん」と呼びかけた。彼の手のなかで、レティシアの指が、エルヴの手を握り返そうとするかのように反応した。
「なるほど」
エイレンは手に持った花束をサイドボードに置き、ベッド脇の洗面台の蛇口をひねった。空の保存槽に水が満たされる。彼は花束を軽く整えると、その保存槽に花を生け、病室の窓際に飾った。
「ナザルク殿に聞いたところ、花瓶がないと言われまして」
「さすがナザルク先生」
ダリオが笑うと、つられたようにエルヴとネフィラも笑った。
「ところで、私はこれからサロン・ド・リリスに向かう予定なのですが」
エイレンはもう一度レティシアの顔に視線を移してから、エルヴに向き直った。
「ヴェリシアさんのところに?どうして?」
「ナザルク殿の依頼です。ヴェリシア殿に頼まれた、極星指定素材の保存処置が完了したとのことで、先ほど監査を行いました。全て問題ないようでしたので、これからそれらを届けに」
「監査官のあなたがわざわざ?」
「ええ。本来ならば作業員に任せるのですが、今回はレティシアさんのお見舞いも兼ねていたので」
「それは…ありがとうございます」
エルヴが礼を言うと、エイレンは「いえいえ」と微笑む。エルヴはふとレティシアの手元に視線を落とした。封蠟帯の端から、緋色の肉糸が覗いている。
「…あの、リリスに行くなら俺も連れて行ってもらっていいですか?」
レティシアはヴェリシアに教えを受けていた。
彼女に尋ねれば、レティシアが何をなそうとしていたかが分かるかもしれない。
「もちろん」
エルヴの言葉に、エイレンはごく穏やかに頷いた。
エイレンの運転する魔導車は、サロン・ド・リリスの裏手に滑り込んだ。大通りに面した正面からは、艶やかな弦楽の響きと客のざわめきが漏れ出している。エイレンは車から降りると、保存槽の収められた頑丈な木箱を台車へと移した。エイレンがポケットから取り出した細い鍵を鍵穴に差し込むと、裏口の重厚な扉が滑らかに内側へ開いた。
「ヴェリシア殿」
エイレンが奥の暗がりへ向けて低く声を投げかける。影の奥から、衣擦れの音とともに一人の女性が歩み出てきた。
空間が明るむように、ヴェリシア・ミルティスは立っていた。
50歳を超えているという噂に反し、そこに立っていたのはあでやかに咲き誇る大輪そのものの美貌だった。紫の髪が肩口で微かに揺らめき、その下で玉虫色の瞳が微笑んでいる。ダリオの喉が小さく鳴る。エルヴも、自分の頬が熱を持つのが分かった。
「ありがとう。では、こちらに運んでくださる?」
彼女の声は、鼓膜の表面を花弁で優しく撫でるかのようだった。ネフィラさえ、とまどったように小さく返事をした。
台車を作業スペースへと押し込む。四方の壁面には、高さ二メートルを超える大型の鏡が設置されていた。ヴェリシアが木箱の蓋を取り払い、保存槽を取り出す。その中に沈むバジリスクの眼球を目にしたヴェリシアが、小さく息を漏らした。
「素晴らしいわ」
保存槽のガラス越しに沈む玉虫色の眼球と、彼女の同種の瞳が、保存槽の外殻ごしに見つめ合う。エイレンが、木箱から次々と保存槽を取り出した。
「ところで」
ヴェリシアの視線が、エルヴたちへと滑り落ちた。
「あなた達はどうしてここに?」
エルヴは短く息を吐き、喉の乾燥を押し潰すように声を張った。
「…レティ姉さんのことで聞きたいことが」
作業スペースの空間に、わずかな静寂が落ちる。レティシアは持っていた保存槽を卓上に置いた。
「上で話しましょう」
彼女は背を向け、作業スペースを滑らかに後にした。エイレンが声をかける。
「分類はやっておきますね」
「ありがとう。いつも気が利くわね」
ヴェリシアの後に続き、エルヴ、ネフィラ、ダリオが階段を登る。壁面に嵌め込まれた鏡が、登る足取りを連続した像として映し出す。階段の突き当たり、扉を開けた奥の部屋へと通された。
「かけてちょうだい」
扉の向こうは、階下の華やかさとは完全に切り離された空間だった。四方の壁に鏡は一枚も設置されていない。置かれた椅子や机も、飾り気のない無垢の木材を削り出しただけの無機質なものだった。
「お水でごめんなさいね」
部屋の隅、冷気を白く吹かせる冷蔵槽から、ヴェリシアがガラスの水差しとコップを取り出した。透明な液体が四つのコップへと注がれ、乾いた音が室内に落ちる。
「いえ…」
エルヴはコップを手に取り、液体を口に含んだ。舌の表面に、かすかな酸味と清涼感が残る。
「レモンとミント?」
「あなたのお父様も好きだったのよ。私もこれが好き」
ヴェリシアが艷やかな唇の端を持ち上げた。ネフィラとダリオもコップに口をつける。エルヴはもう一口分を喉に落とし、視線をヴェリシアの顔面へと向けた。
「レティ姉さんのことです」
エルヴは膝の上の手を握り込む。
「知っていることを教えてください。レティ姉さんが何をしようとしていたのか」
ヴェリシアは視線を落とさず、ただ静かに言葉を置いた。
「…緋幻蝶。彼女はそれに興味を持っていたわ」
エルヴの呼吸が一瞬止まる。ヴェリシアは右腕の袖を滑り上げ腕を晒した。その皮膚の表面には紅の肉糸で蝶の魔法陣が縫い込まれていた。レティシアの腕にあったものよりも色が深く、濃い。
「どうして…」
「考えられるのは、“調律”かしら」
「調律?」
「ええ」
ヴェリシアは腕の魔法陣を細い指でなぞった。
「緋幻蝶染めの糸は麻痺性を持つでしょう?この麻痺性を活用するの」
「麻痺性を?」
ネフィラが眉をひそめる。エルヴの脳裏に、かつて綻び街で麻痺毒の鱗粉を浴び、膝をついたネフィラの姿が蘇る。
「この糸は、他の魔物素材の魔力をも“麻痺”させるの。つまり、安全に扱える範囲に制御する。危険な魔物素材の調律には欠かせないのよ」
ヴェリシアの足が床を離れ、膝の関節が滑らかに伸びる。
「実際、私は5種の魔物素材を安定して定着させているわ」
彼女は自身の肉体を指先でなぞった。
「水妖の髪、魔眼蛇の瞳、歌妖の喉、蛇妖の肋骨、植物精の花香腺」
指先が喉元から肋骨、髪へと滑る。彼女はしなやかに、円を描くように一回転した。紫の髪が舞い、濃密な花の香りが部屋へと拡散する。
「…じゃあ、レティシアさんも、何か定着させたいものが?」
ダリオの問いに、ヴェリシアは再び椅子へと腰を落とし、瞼をゆっくりと閉じた。
「それは…分からないわ。ただ、彼女は“翼を完成させたい”とだけ」
その言葉に、エルヴの耳が昏睡直前のレティシアの掠れた吐息を思い出す。『翼を…完成させないで…』確かに彼女はそう残していた。
「“翼”か…」
ネフィラが短く呟く。
翼。レティシアの皮膚から溢れ落ちた緋色の翅。崩解体の泥の奥に沈んでいた潰れた翼の残骸。そして、縫籍院の地下で見た、フィオナの背に編み込まれていた白い翼。
「…被害者は、翼を持つ者たち」
エルヴの唇から出た呟きに、ネフィラがハッと顔を上げ、エルヴを見つめた。
その時、ノックの音が響いた。ヴェリシアが立ち上がり、扉を開く。現れたのは、赤布を首元に巻いたメラディと、それに付き添う二人の女性職人の姿だった。
「フィオナ・ラスカのことで尋ねたいことがある」
メラディの冷徹な声が室内を射抜く。ヴェリシアは静かに頷き、エルヴたちへ向けて頷いた。退室を促す合図だった。
背後で扉が重い音を立てて閉ざされる。エルヴたちは二人の女性職人に挟まれる形で、鏡の張られた階段を降り始めた。一人は金髪、もう一人は黒髪。金髪の女性の右腕には金の肉糸でカナリアが、黒髪の女性の右腕には藍色の肉糸で燕の姿が、飾り縫いされている。
階下の作業スペースへと足を踏み入れた途端、金髪の女性が足を止め、エルヴを振り仰いだ。
「ヴェリシア様と何を話してたの?」
エルヴが口を閉ざしたまま固い視線を返すと、黒髪の女性が鼻で笑った。
「聞かなくてもわかるよ、ミレイユ。私が当ててあげる。レティシアのことでしょう」
エルヴの眉間がわずかに動いた。二人は顔を見合わせ、声もなく頷き合う。
ネフィラが口を開きかけた瞬間、黒髪の女性―リゼットが、真剣な眼差しでエルヴの瞳を見据えた。
「なぜ、フィオナは死んだの?」
「リゼット…」
ミレイユが不安げにリゼットの袖を引く。
「だって、ヴェリシア様は何も教えてくれないんだもの。ミレイユだって知りたいでしょう」
ミレイユの唇が固く結ばれ、言葉が途切れる。二人の視線がエルヴへと集中した。
「…崩解です」
エルヴの平坦な声に、リゼットが唇を噛む。
一方、ミレイユが追い立てられているかのような口調で返した。
「それは聞いてるわ。でも、どうしてレティシアは助かって、フィオナは―」
「ミレイユ!」
ホールから、別の女性職人の鋭い呼び声が作業スペースまで届いた。ミレイユは唇を歪ませ、急ぎ足でホールの光の中へと走っていく。
「…あんな事件があったっていうのに、これだもの」
リゼットは肩をすくめ、吐息をついた。開いたドアの隙間から、客たちのさんざめきが波のように押し寄せてくる。彼女はエルヴたちの方に視線を戻した。
「ねえ、王都で一番儲かるのって何か知ってる?」
リゼットが腕を組み、顎をしゃくった。
「肉体強化?」
エルヴはネフィラにちらりと視線を滑らせて答えた。
「ハズレ」
リゼットが口先で答える。
「神経補助?反射神経とか」
ダリオが続く。
「ハズレ」
リゼットの言葉に、エルヴ、ネフィラ、ダリオの三者は無言で視線を交差させた。
「正解は美容仕立て。戦争は毎日ないけど、鏡は毎日見るでしょう?」
リゼットが言い終えると同時に、ホール側から再びミレイユの声が響いた。
「リゼット!」
「はいはい」
リゼットはひらひらと手首を振ると、作業スペースを後にした。残されたエルヴたちは顔を見合わせ、ほとんど同時に息をついた。
「美容仕立て、か。私には分からんな」
ネフィラの言葉にダリオが頭をかく。エルヴは、作業スペースの棚に収められた小型の保存槽を見た。エイレンが分類したのであろうそれらは、縫籍院の素材棚さながらの規律で整然と並べられている。
鍵のかかった戸棚の中には、緋幻蝶染めの肉糸も見える。
エルヴは、ヴェリシアの腕の蝶を思い出した。鮮やかな紅の肉糸。眠り続けるレティシアの腕の緋色の蝶。
(…被害者は、翼を持つ者たち)
エルヴの手は無意識に、金の針を仕込んだ肩を押さえていた。




