ep8.三ツ星
エルヴとネフィラが地下二階の作業場に飛び込むと、すでにそこは血の臭いで満ちていた。エルヴが解体したはずの、“仕立て損ない”が千切れかけた四肢を引きずって吠え声を上げている。剣を構えた三人の騎士が、作業台を盾にしながらじりじりと囲みを狭める。その獣が這い進むたび、爛れた果皮のような翼が、濡れた音を立てて床を打った。
「どういうことだ」
ネフィラがメラディに詰め寄る。
「知らん。突然だ。見回りに行った部下が気づいた」
メラディは杖を構えながら答えた。だが、炎を使おうとはしない。彼女の視線が苛立たしげに獣の背後に向けられた。そこには、縫合庫に繋がる扉がある。
「ここでは下手に炎を使えない」
メラディは音を立てて杖を捨てた。騎士の一人が、獣の背後から斬りかかる。彼に気を取られた隙に、メラディは一気に距離を詰めた。絞られた喉から、細い熱線のような炎が走る。傷口を焼かれ、獣は苦悶の声を上げて身を捩った。
ネフィラが低く地を蹴った。白銀の甲冑が摩擦音を立て、大剣の一撃が獣の右前足の関節部を真横から断ち切る。ぶちりと湿った音を立て、肉と骨の塊が石造りの床へ転がり落ちた。
エルヴの足元に、その前足が止まる。腰のホルダーから銀の裁ちばさみを抜き、刃先を切断面へと向けた。再び肉糸の結び目を切断し、再生を断ち切るためだ。だが、刃を開いたエルヴの指先が止まる。
(縫い目が、無い…?)
肉が抉れ、骨が砕けた断面。そこには、あるべき肉糸の筋が存在しなかった。
顔をあげる。騎士の一人が剣を浴びせ、メラディが細い熱線を傷口へ滑り込ませて肉を焼き焦がす。ネフィラの大剣がさらに深く肉を穿ち、血が床に広がる。エルヴは獣の動きを凝視した。骨格の回転、筋肉の収縮、重心の移動。その均整は、精密に設計された“仕立て体”のそれだった。巧みに縫い合わされた肉と骨。
「どういうことだ」
エルヴは膝をつき、足元の前足を掴み上げた。指先に伝わるのは、死にきっていない肉の細かな脈動だ。
(表層の縫い目ではない…。深部か?)
エルヴは親指を切り口の肉質に押し込み、隙間を押し広げて断面を覗き込んだ。目に見える糸はない。だが、指腹が確かに魔力の蠢きを感じ取る。粘りの異なる肉糸同士をすり合わせたような、微かな摩擦。
(透明な、肉糸—?)
その思考を裂くように、頭上で咆哮が響いた。
獣が残された前足を横に振り抜く。エルヴがネフィラを見ると、なぜか彼女はその一撃を避けなかった。体を捻りながら前足を大剣の腹で受け止める。だが、その身体は衝撃のままに、大きく後方へと吹き飛ばされた。背後の縫合庫の扉が音を立てて外れる。
エルヴは前足を放り出し、破られた扉へ駆け寄った。
棚が半ばから倒れ、保存瓶のガラスが砕け散って防腐液の匂いが充満している。その破片のただ中で、ネフィラは既に膝を立て、立ち上がっていた。彼女は短く息を吐いた。
「大丈夫だ」
ネフィラは一瞬だけエルヴを見た。次いで、何気ない動作で踵を引く。カツン、と小さな音とともに、棚の陰から、小瓶がエルヴの足元へ転がり出た。
透明なガラスの底で揺れていたのは、深い朱を帯びた繊維だ。
―緋幻蝶染めの肉糸。
エルヴの緑の瞳が見開かれる。カチ、と小さく歯がなった。
ネフィラは、すでに大剣を握り直し再び作業場へと駆け出していっていた。エルヴは縫合庫から外へ出る。血の臭いと剣撃の音が皮膚に刺さる。メラディが口から細い炎を走らせ、獣の傷口を焼き潰そうとしている。だが、火力を絞っているため、獣の動きを完全に止めるには至らない。獣の一撃を後方に避けたメラディが、腹立たしげに首の赤布を巻き直す。
エルヴは腰のホルダーに手を伸ばし、封蠟帯を引き抜いた。
(見えなくても、糸が存在するなら—)
ネフィラの大剣が弧を描き、獣の後足を根元から跳ね飛ばす。巨躯がバランスを崩して傾ぐ。エルヴは踏み込み、落ちた後足へ飛びつき、迷わず封蠟帯をその断面に巻き付ける。
帯が肉に密着し、シジ、と蠟が溶ける音とともに表面の封印紋が青白く発光した。直後、もがいていた後足の指先が、痙攣したのち動きを止めた。
(やはり、見えなくてもある)
エルヴは確信を得て立ち上がった。前足と後足を立て続けに失った獣は、重心の軸を完全に破壊され、巨躯を床に擦り付けた。隙を逃さず、ネフィラが残る脚の関節部へ連続して刃を叩き込む。
骨が断ち切られ、崩れ落ちる獣。エルヴは間髪入れず接近し、切断されて転がる残りの足の断面へ、次々と封蠟帯を巻き付ける。
四肢を奪われ、胴体だけとなった肉の塊が、なおも床を叩いて暴れ回った。
「ネフィラさん、押さえていてください」
「任せろ!」
ネフィラが剣を捨て、獣の背に組みついた。「手伝え!」というメラディの短い怒号に応じ、三人の騎士が剣を投げ捨てて獣の肉塊へ覆いかぶさる。肉が軋み、骨が鳴る。メラディは獣から一歩離れた。彼女は踵を返すと、作業場最奥の壁際に据え付けられた鉄製棚へと駆けていく。
エルヴは獣の胴体に膝を突き、魔力線が集中する構造部、広背筋の起始部、脊髄神経根の走る椎骨の隙間へ、手早く封蠟帯を貼り付け、強固に巻き重ねていく。
封蠟帯を巻き終え、エルヴの手が離れた。
ネフィラと騎士たちが荒い息を吐き出し、押さえつける腕の力をわずかに緩める。しかし、エルヴの視線は緩まなかった。
「いや、まだだ」
封蠟帯の表面に刻まれた青白い封印紋が、チカチカと明滅する。内側から膨れ上がる魔力が、蠟の層を灰色の粉末へと変質させていく。
ネフィラが唇を噛んだ。
「これに入れろ!」
メラディの声と共に、硬質な音が床を揺らした。彼女が滑らせてきたのは、一基の大型保存槽と、四基の小型保存槽だった。内部を満たす薬液がゆらゆらと揺れている。
「こいつはちょっとやそっとじゃ壊れない。“棺桶屋”の特製だ」
メラディがニヤリと続ける。
ネフィラと騎士たちが、未だ蠢く獣の胴体を持ち上げ、大型保存槽の口へ押し込む。跳ねた薬液が床を濡らした。メラディが蓋を叩きつけ、上部の封印環を回転させる。青い魔法陣が表面に走り、暴れる肉塊が封印される。
切断された四肢も同様に小型保存槽へ放り込まれ、次々と封印されていく。薬液に沈んだ肉塊は、やがて泡を吐くのをやめ、完全に沈黙した。
「…助かった、エルヴ」
ネフィラが腕の血を拭い、短く告げた。
「後は私たちが処理する。休んでくれ」
エルヴは小さく頷いた。
騎士たちが保存槽を抱え上げる。その背後で、エルヴの足は、吹き飛ばされた縫合庫の扉へと向けられていた。
レティシアの呼吸は落ち着いていた。エルヴは手袋を外した。施術台の上には、余った緋幻蝶染めの肉糸が数筋うねっている。
(―やってしまった)
違法仕立て。後悔はない。だが、恐怖がないと言えば嘘になる。
(最悪、処刑…)
薄く持ち上がった唇の端が、乾いた皮膚を引き攣らせる。エルヴは指を軽く曲げ伸ばしし、手に残るかすかな強張りを解した。銀針堂の施術台の脇で何度となく繰り返した動きだ。
どうせ、レティシアに“仕立て直し”を施した時点で星位剥奪は決まっていたようなものだ。そうなれば、二度と針を握ることはかなわない。
(それなら、死んだほうがマシだ)
エルヴは視線を施術台へ落とした。横たわるレティシアの呼吸は静かだ。胸郭が緩やかに上下し、首筋がなだらかに光を反射する。そこには縫合痕は無い。皮膚の裏側に縫い目を隠す「隠し縫い」の技法。緋色の肉糸は、皮膚を一枚隔てた真下に潜らせてある。
もちろん、これでメラディの目を欺けるとは考えてはいない。理由のつかない衝動だった。ただ、長年身体に染み付いた運針が、意識よりも先に針を滑らせていたに過ぎない。
もし、父がここに立っていたなら、自分のこの行動を褒めただろうか。あるいは黙って背を向けただろうか。その問いで頭をかき回して見るものの、答えらしい答えには触れられない。背中の翼が軋むように疼いた。
足音が廊下に響き、正面の扉が開いた。
帳面を小脇に抱えたメラディが歩み出る。その背後には、手を固く握りしめたネフィラが従っていた。メラディは施術台へ近づき、その真紅の瞳を銀縁の眼鏡越しに台上の肉糸へと落とす。
「緋幻蝶」
メラディの声が、室内の湿った空気を打った。
「…はい」
エルヴの短い返答に、ネフィラがハッと顔を上げた。金色の髪が揺れ、その表情が硬直する。
メラディは小脇の帳面を開き、指先で紙面を軽く叩いた。
「物品の確認をしたところ、緋幻蝶染めの肉糸が消えていた」
視線は帳面から動かない。エルヴは顎を引いたまま、短く息を吐いた。ややあって、唇を開く。
「後悔はしていません」
「処刑だ。三ツ星」
淡々とした宣告が吐き出された瞬間、ネフィラがメラディの腕を掴んだ。甲冑の肘が擦れ、鈍い音を立てる。メラディはその手を無造作に振り払った。
「だが、今回の金針事件については、中央も事態を重く見ている」
メラディは一歩踏み出し、眠るレティシアの面上へと視線を走らせた。その瞳孔が、僅かに収縮する。
「聞け。エルヴァン・テイラー。お前を裁くのは中央だ」




