ep7.違法仕立て
レティシアは、縫籍院地下一階の施術室に運ばれた。仕立て屋たちが、実技審査を受ける際にも使われる場所だ。エルヴは、眠るレティシアを見つめながら、彼女と共に受けた一ツ星試験のことをぼんやりと思い出した。二人とも、ずらりと並んだ魔物の死体と、施術室にこもる強い防腐剤の臭いに鼻をつまみ、お互いのしかめっ面を見て笑った。
「…エルヴ、大丈夫か?」
背後のドアが開き、エルヴは振り返った。魔石灯を掲げたネフィラが、エルヴに歩み寄る。エルヴは壁にかけられた時計に目をやった。19時。いつもなら、店の片付けをしている時間だ。
「ええ。メラディさんが、しばらくここで働けるよう手配してくれるそうです」
―金針事件。
一連の崩解事件はそう名付けられた。エルヴが倒した崩解体から回収したもの、レティシアから取り出したものと合わせて、二本の金の針がメラディに預けられていた。エルヴは自身の背に密かに仕込んだ無銘の金の針を思い出し、無意識のうちに肩口に手をやる。一本目の金の針には紛れもない父の銘が、二本めの金の針には潰された父の銘が刻まれていた。
(誰かが、父の名を利用しようとしている?)
エルヴの脳裏に荒らされた店内、腹を見せて動かなくなったカエルが蘇り、目の奥が強張る。あの後、ネフィラは店の裏にカエルを埋めるのを手伝ってくれた。
「…とにかく、しばらく店は開けられそうにありません」
銀針堂への襲撃は、この金針事件に関わりがあると見なされた。店には現在も衛兵が張り付いて立ち入りを制限している。荒らされた店内の片付けどころか、骨針の一式が揃わない以上、仮に店に戻れたとしても施術など行えるはずもない。
「…そうか」
案ずるようなネフィラの視線を受け、エルヴは膝の上でかたく拳を握りしめた。エルヴにとって道具を奪われ、仕事を奪われることは肉体を削ぎ落とされるに等しい。腹の底でくすぶる怒りを隠しきれず、奥歯がぎりりと鳴る。
そんなエルヴの横顔を、ネフィラは案じるような目で見つめた。
「…大丈夫か、エルヴ?」
「…大丈夫です。ただ、腕が鈍るのが嫌なだけです」
エルヴは感情を押し殺すように吐き捨てると、施術室の奥にある厚い木製の戸へと歩を進めた。扉の鍵穴にメラディから預かった鍵束の中から銀色の鍵を差し込み、静かにひねる。解錠の重い音が響き、戸が開かれた。隣接する素材庫へと足を踏み入れるエルヴの背を、ネフィラが静かに追う。
素材庫の中に一歩入ると、防腐剤と薬品の匂いが鼻を突いた。
天井まで届く棚には、無数のガラス瓶や透き通った保存容器が整然と並べられている。淡い琥珀色の保存液に浸された巨大な魔物の腱、白く研磨された骨針素体、肉糸を染めるためのとりどりの染料。それらが魔石灯の光を受けて呼吸するように揺らめいていた。
エルヴは掌の中にある真鍮の鍵を、ネフィラに見せるように軽くかざした。
「地下一階にあるこの素材庫のものは、三ツ星職人が扱える範囲の素材です。自由に施術に使っていいと、メラディさんがこの鍵をくれました」
「ほう…」
エルヴが眼前の素材を魔石灯で照らす。ネフィラは感心したように棚を見渡したが、ふと疑問を抱いたように首を傾げた。
「地下二階の素材庫とは、何か違うのか?」
「はい。全く違います」
エルヴは即答した。
「地下二階に保管されている素材は、少なくとも準極星以上の星位を持つ者で、なおかつ極星の監督下でなければ持ち出すことも、扱うことも禁じられています」
「ふーん…」
ネフィラは棚の一角に佇み、保存液の中でゆらゆらと揺れる鶏の腿肉に似た魔物の筋肉繊維の瓶を覗き込んだ。
「どう違うんだ?希少価値の違いか?」
「希少素材であることも確かですが、最大の理由は危険性です」
ネフィラの問いに、エルヴの口調がわずかに熱を帯び始めた。
「第一に毒性と拒絶反応の強さです。例えばヒュドラの毒腺素材などは、適合しない人間の組織を破壊するだけでなく、編み込まれた肉糸そのものを解いて強力な崩解を引き起こします」
一気に言葉を捲し立てるエルヴに、ネフィラは「お、おう…」と圧倒されたように頷く。エルヴの舌は急に油を差されたかのように回り始めた。手にした魔石灯が小さく揺れる。
「神経系への作用も注意すべき点です。例えばバジリスクの眼球などは―」
「緋幻蝶も、か?」
ネフィラの静かな一言が、エルヴの言葉を遮った。ピタリとエルヴの口が止まる。素材庫を満たす防腐剤の匂いの中、二人の間にわずかな間が落ちた。
「……はい」
エルヴは視線をわずかに落とし、低く答えた。レティシアが自身の肉体に仕込み、暴走させたあの緋色の蝶と鱗粉。
「確か、彼女の星位は…」
「準極星です」
「…監督の無い単独施術は」
ネフィラが確認するように問う。エルヴは魔石灯を持つ腕を下ろした。
「最悪、処刑です」
その時、鈍い物音が沈黙を破った。隣の施術室からだ。
素材庫の重い木戸を跳ね返し、二人は施術室の冷気の中へと走り出していた。
施術台の上で、レティシアの身体が弓なりにしなっていた。喉の奥から絞り出されるのは、言葉にならない湿った喘鳴だ。エルヴは台の傍らへ飛び込み、彼女の上衣のあわせを開いた。
青白い皮膚を押し上げるようにして、封蠟帯の端から緋色の紋様が蠢いていた。胸部を覆っている封蠟帯の表面で、封印紋が明滅している。だがその輝きは急速に衰え、カサカサとした灰色の線へと変質していく。
「封印が解ける。新しい封蠟帯を持ってくる!」
ネフィラが足を翻し、壁際の備品棚へ走る。
エルヴは備え付けの洗面台で手を洗うと、レティシアの皮膚に指先を押し当てた。
熱い。火傷を負いそうなほどの高熱が、表皮のすぐ下を流れている。指腹に触れるのは、蠢く無数の細い肉糸の塊だ。それらは皮膚を押し破らんばかりに脈打ち、波打ちながら、鎖骨のくぼみを越えて首筋へと向かって這い上がっていた。血管ではない。生き物のように太さを変える、緋色の肉糸の流れだ。
「駄目です、ネフィラさん。首まで達したら…押さえても無駄だ」
棚の引き出しを引いたネフィラの手が止まる。彼女は振り返り、硬い声で問うた。
「じゃあ、どうすればいい」
エルヴは乾いた喉の奥で、重い唾を呑み込んだ。視線は、首筋に向かって侵食を続ける緋色の肉糸から離さない。
「…この場で、“仕立て直し”ます」
「…っ、正気かエルヴ。それは…」
「分かっています」
―三ツ星の領分を超えている。
良くて、星位剥奪。
「ですが、緊急時は情状が酌量されます…それに」
施術台の上のレティシアの瞼が、わずかに割り開かれていた。熱に浮かされた瞳が焦点の定まらないままエルヴの顔を探している。彼女の冷や汗に濡れた指先が、エルヴの手を微かに締め付けた。
「エルヴ…翼、…だ、め…」
喉の奥で空気が擦れ合うような、かすれた声だった。一言吐き出すごとに、彼女の胸の上下が浅く、速くなっていく。指先の力が失われていく。
「この人は、俺の大切な人です」
エルヴは低く呟き、彼女の手を握り返した。
指先にある無数の細かな傷痕。かつて仕立ての最中に裁ちばさみで深く突いたエルヴの指を縫い合わせてくれたのは、この手だった。銀針堂の作業場で、ともに染料を混ぜ合わせ、骨針を研いでいた時間。この手の温度は、エルヴが紡いできた銀針堂の記憶の一部だった。この手が温もりを失えば、きっと自分の一部も、ともに解けてしまう。
エルヴは腰のホルダーから、銀飾りの針箱を引き抜いた。蓋を開くと、磨き抜かれた銀の骨針が魔石灯の光を跳ね返す。
ネフィラが深く息を吸い込み、固い足取りで施術台の脇へと進み出た。
「…分かった。私も、自分が守った人間が死ぬのは気分が悪い。必要なものを言え」
エルヴは背後の素材庫の扉を指差し、淀みない口調で告げた。
「棚の三段目、琥珀色の瓶に入った『第三腱肉糸』と、奥の棚にある『氷結肉糸』です。それと、白骨針の極細を三本。…急いでください。糸が首に達する前に、すべてを冷やして解きます」
ネフィラが頷き、素材庫に戻った後、すぐ小走りで薬品瓶と針入れを抱えて戻ってくる。白蜘蛛糸織りの手袋を嵌めたエルヴは銀の裁ちばさみで、レティシアの封蠟帯を裁ち落とした。乾いた蝋の破片が台の上に散らばる。剥き出しになった皮膚の下で、緋色の蝶紋がうねっていた。エルヴはシリンジに麻酔液を満たす。注射器から押し出された透明な液体が組織へ浸透すると、跳ね上がっていたレティシアの背の強直が、わずかに緩む。
「始める」
エルヴは銀のピンセットで、針箱から銀の骨針を取り出した。それに、琥珀色の液から引き上げた『第三腱肉糸』を通す。滑り止めの油脂が毛細血管のような糸の表面を覆い、ぬらぬらと鈍く光っている。
エルヴは指先の感触だけで深部筋膜の位置を捉えた。表層の筋繊維をかき分け、骨膜に近接する下層筋肉の幹へ針先を引っかけ、ゆっくりと引き寄せる。ズ、と湿った摩擦音が指骨に伝わる。解けかけて拡張した筋肉の断端を、強靭な腱糸で力ずくで引き結ぶ「中綴じ」の工程だ。間髪入れず、エルヴは『氷結肉糸』を通した極細の白骨針を走らせる。氷竜由来の冷気が、熱を孕んだ緋色の肉糸の温度を急速に奪い、運動を封じ込めていく。
ネフィラが冷水を含ませた布を手に取り、レティシアの額から流れ落ちる汗を静かに拭う。その間もエルヴの運針は止まらない。前腕部の皮下に潜む蝶紋へ針を潜らせ、その蠢きを殺し、一針ずつ縫い直していく。
手に残る肉の抵抗と、骨針が滑る手応え。その機械的な作業の中で、エルヴの脳裏には指先の感覚とは乖離した思考が波打っていた。
レティシアを救いたいという気持ちに嘘はない。だが、皮膚一枚を隔てた下にある彼女の脈動を感じるたび、胸の奥で熱い棘が刺さり直す。
なぜ、レティシアはあの金の針を持っていたのか。
潰された父の銘。あれは紛れもなく、銀針堂の作業場で幾度となく目にした父の筆致の名残だった。
父は生きているのか。
生きているのなら、なぜ五年間もの間、一行の便りすら寄越さなかったのか。なぜ息子である自分に一度も顔を見せに来ないのか。なぜ、なぜ—。
渦巻く言葉は、縫い目を結ぶごとに胸と喉の間で死んだ。前腕部の縫合が完了する。皮下で脈動していた緋色の蝶紋が収縮し、ただの赤黒い色素の沈着となって沈黙する。
「腕の鎮静を確認。次、胸部に移る」
エルヴは施術台の脇へ回った。レティシアの鎖骨から胸骨にかけての皮膚は、内側から押し上げる肉糸の収縮によって、薄い革のように引き伸ばされていた。エルヴは肋骨の隙間に沿って縫い進める。一針進めるごとに、引き攣れていた彼女の胸郭の上下が緩やかになり、途切れがちだった呼吸が、深く穏やかなものへと変わっていく。
傍らのネフィラが、詰めていた息を小さく吐き出した。硬直していた彼女の肩の線がわずかに下がる。
だが、エルヴの指先が鎖骨のくぼみへと差し掛かった瞬間、骨針の進みが唐突に停止した。
「…っ」
皮膚の下で、緋色の蝶紋が跳ね上がるように輝いた。刺し込んだ『第三腱肉糸』の表面に、細かな泡沫が湧き立つ。その糸の表面が、蝶紋から零れた鱗粉と接触した端から融解し、ただの赤い粘液へと変質していく。
エルヴは即座に針を引き抜き、『氷結肉糸』へ切り替えた。しかし、その冷気が伝わるよりも早く、鱗粉が肉糸の構造を食い荒らし、糸くずのように寸断していく。
何度針を通しても同じだった。
刺し込み、引き抜き、結ぶ。その直後に糸が溶解し、ほつれる。千切れ飛んだ肉糸の屑が、泥のような固まりとなって施術台を汚していく。
「エルヴ」
ネフィラの低く短い声が落ちた。
「…抵抗が強すぎる。この部位が、糸の結合をすべて分解している」
「どうにもならないのか?」
エルヴは返答せず、奥歯を強く噛みしめた。血の味が口内に広がる。思考の糸をたぐり寄せ、頭の中に収められた「縫籍院素材帳」の頁を一枚ずつ記憶の底からめくり返した。素材の特性、染料の適合率、拒絶反応の相殺理論。
「…緋幻蝶染めの肉糸」
エルヴの唇から乾いた単語が漏れた。
「同質の染料で染め上げた糸を使う。力で抑え込むのではなく、暴走した魔力を糸そのものへ引き込み、逃がす」
「…だが、それは」
ネフィラが言いかけた言葉は、壁面に据え付けられた通話鏡が鳴らした、甲高いベルの音によって途切れた。
ジリリリ、と無機質な金属音が施術室の冷気の中を反響する。ネフィラは素早い足取りで壁際へ歩み寄り、受話器を取り上げた。短い沈黙が施術室に落ちる。
「…了解した。すぐ向かう」
受話器をフックへ戻すと、ネフィラは顎の線を引き締めて振り返った。
「エルヴ、地下二階の崩解体が再生した」




