ep6.緋幻蝶
レティシアの指の背が縦に割れ、その裂け目から濡れた緋色の翅が蠢く。項垂れていた莟が起き上がるように蝶が翅を立てる。ぱた、と緋色の翅が羽ばたき、鱗粉を散らしながら空に舞った。
「ちがう、私、完成できる、って…」
レティシアの声が震える。一羽、また一羽と、濡れた翅を震わせた緋色の蝶がレティシアの縫い目から零れ舞い上がる。鮮やかな鱗粉が散り、地下の乏しい光源にきらめく。
「確保だ」
冷徹な声とともにメラディが歩みを進めた。背後から封蠟帯を持った衛兵が続く。レティシアを中心に、緋色の渦と化した蝶の群れが低く翅音を鳴らしている。メラディが杖を構えた。蝶の群れは一つの生き物のごとくうねり、彼らに襲いかかった。メラディの口から火花が迸る。ジュッ、と音を立てて蝶の群れの一部がメラディの口から放射された炎に焼かれた。引き千切られた群れが勢いを殺すことなくメラディの横をすり抜ける。背後の衛兵が崩れ落ちた。その手元からこぼれ落ちた封蠟帯が濡れた石畳を転がっていく。
駆け寄ったエルヴとネフィラが両脇から衛兵の身体を支え起こす。しかし、衛兵の手指は引き攣り、爪先まで白く強ばったまま激しく痙攣していた。それを目にしたメラディは舌打ちをした。
「チッ…麻痺毒か。あの鱗粉、吸い込むなよ」
レティシアの手の甲に刻まれていた蝶の魔法陣は糸を解きながら前腕へと這い上っていった。綻びが進むたび、肉が爆ぜるような小さな音とともに、羽化した蝶たちが彼女の皮膚を割って溢れ出していく。その蝶紋は肘まで達すると、関節を噛むように糸先を肘裏の肉に押し込み、左右に引き裂きながら皮膚を割った。一回り大きい緋色の翅が揺らめき、翅脈をきらめかせる。二羽、三羽、と続けて緋色の翅が羽ばたいた。
「レティ姉さん」
エルヴの声にレティシアは答えない。蝶の群れが彼女の体を覆っていく。
メラディは首元に巻かれた赤布を口元まで引き上げ、毒の吸入を防ぎながら、杖の尖端に火炎を灯した。
「焼くしか無い」
「待ってください、メラディさん!」
エルヴの叫びを無視し、メラディの杖から炎弾が放たれる。だが、直撃の瞬間、凝集した緋色の蝶の群れが壁となって立ちふさがった。弾け飛ぶ炎弾と、巻き込まれて灰燼と化す無数の蝶の破片。散った残骸を撒き散らしながら、生き残った群れがメラディに迫る。
メラディは連続して炎弾を群れへ叩き込み、迫る緋の波を焼き払っていく。焼け残された残骸も、彼女の口から零れる火花によって灰となった。緋色の翅と火炎が交錯する。その激しい攻防の最中、エルヴは息を呑んだ。
狂乱するように暴れ回る蝶の群れが、なぜか自分の周囲を避けて飛んでいるのだ。
まるで、エルヴを傷つけまいとするかのように。
顔をあげたエルヴとレティシアの視線が交差した。彼女のうつろな瞳に、ほんのわずかな光が宿る。
「こ、ないで…っ…エル、ヴ…」
途切れ途切れの声がエルヴの鼓膜を打った。彼の手が、石畳に転がった封蠟帯を取り上げる。
「ネフィラさん」
エルヴの声にネフィラが短く頷く。彼女は構えた剣を捨てると、低く地を蹴りレティシアに飛びついた。鈍い音を立てて二つの体が石畳を転がる。ネフィラは舞い散る鱗粉に歯を食いしばりながら、レティシアを押さえつける。彼女を蝕む蝶の綻びはすでに鎖骨のあたりまで侵食している。緋色の翅脈が皮膚の下で脈打ち、今にも皮膚を食い破ろうと蠢いていた。
メラディが再び杖を構えた。
「どけ、ネフィラ。お前ごと焼くぞ」
メラディが低く唸る。
「焼くなら焼け!こいつはまだ“人”だ!」
ネフィラの腕の中で、レティシアの身体がひくひくと歪に痙攣する。崩解しかけた皮膚のすぐ下では、蝶の細い翅脈がまるで赤黒い血管のように脈動し、すでに首元へと到達しようとしていた。散らばる鱗粉が、押さえつけているネフィラの腕や首元にも降りかかる。顔を歪めながらも、ネフィラは腕を緩めない。
「ネフィラさん、そのままで」
エルヴは封蠟帯を握りしめ、レティシアに近づく。彼はレティシアの体を巡る魔力線の経路を脳内でなぞった。上腕二頭筋の溝、鎖骨下動脈に沿う神経叢、そして胸骨柄の脇。
(まずは鎖骨)
雨に打たれながらもエルヴの手は淀みない。鎖骨下に走る魔力線を狙い、胸骨の脇から肩先へと向けて封蠟帯を斜めに滑らせる。皮膚を横切る帯が密着した瞬間、じじ、と湿った音が弾けた。帯に塗られた特殊な蠟が溶け出し、肉糸の隙間に流れ込む。エルヴはレティシアの右腕を掴むと、上腕の中央から肘関節に向かって封蠟帯を手際よく巻き付けていく。
「っ…!」
麻痺毒を含んだ鱗粉に巻かれ、顔の皮膚を白く強張らせながらも、ネフィラはレティシアの両肩を石畳へ縫い付けるように押し留めている。腕の筋肉が痙攣し、歯の隙間から苦悶の息が漏れ出していたが、その指先はレティシアを掴んだまま離そうとしない。
封蠟帯が巻かれるごとに、皮膚の下でうねっていた緋色の脈動が勢いを失い、皮膚を割って出ようとしていた蝶の羽ばたきが鎮まっていく。
足音が近づく。メラディが炎を揺らめかせた杖を手に、ゆっくりと歩み寄ってきていた。
エルヴは一切視線を上げず、ただ手指の速度を早めた。手首から前腕、上腕、さらに膝上から足首へと、魔力線の走る筋隙を的確に捉え封蠟帯を滑らせていく。帯が巻き付くたび、溶けた蠟が皮膚と一体化し、暴走する肉糸を封じ込めていった。
「あ……」
レティシアの喉から掠れた声が零れ落ちる。鎖骨下に巻いた封蠟帯の隙間から、なおも蠢く一筋の緋色の肉糸が存在していた。それは皮膚の裏側をすり抜け、頸部に向けて端を伸ばしている。エルヴは手を伸ばした。綻びかけた緋色の糸端を右手で押さえ、封蠟帯を当てる。だが、細く硬い何かが指の腹に触れた。
(なんだ…?)
エルヴは眉をひそめ、綻びの隙間に人差し指と中指を差し入れた。レティシアの身体が大きく跳ね上がる。肉糸の抵抗をすり抜け、埋もれていた“それ”を掴み取ると、慎重に引き抜いた。
抜き取られたのは、金の針だった。
「…ッ!?」
エルヴの息が止まる。針が抜かれた途端、肉糸の運動が鎮まり、封蠟帯の下に沈んでいく。エルヴは震える手で針を返した。そこに刻まれた刻印はやはり、父のものだ。
だが、その一部が削り潰されている。
(これは…?なぜ、刻印が潰されている…?)
硬直するエルヴの膝元で、レティシアの唇がかすかに震えた。痙攣する口元が、必死に音を結ぼうとしている。
エルヴは血に濡れた金針を握りしめたまま、吸い寄せられるように彼女の顔元へ耳を寄せた。震えるレティシアの手がエルヴの袖口を掴む。
「エル…ヴ」
彼女の金色の瞳が、水面から浮かび上がるように一瞬エルヴを捉えた。雨が石畳を叩く。エルヴはさらに顔を寄せた。
「翼を…完成させ、ないで…」
レティシアの指先から、力が抜け落ちた。雨粒が彼女の睫毛を打つ。エルヴが名を呼ぶより先に、レティシアの身体が崩れ落ちる。小さく脈打った彼女の指先から、一片の緋色の翅がハラリと零れ落ちた。




