ep5.飾り縫い
エルヴは息を呑み、荒らされた店内の惨状に呆然と立ち尽くした。倒れた棚からこぼれ落ちた素材、散らばる木型、引きちぎられた台帳の紙片。エルヴは一歩踏み出した。沸き起こったのは激しい怒りだった。舌の根が攣るかのような憤りが喉を焼く。この場所は、彼自身の延長だった。
目線を足元に落とす。ひっくり返った水槽のすぐ脇に、水気を失って横たわる緑の塊があった。エルヴは膝をつき、腹を晒したまま微動だにしないカエルをそっと両手で掬い上げた。すでに冷たくなり、硬直し始めている。エルヴはポケットからハンカチを取り出すと、カエルの小さな体をそっと包み込み、荒らされたカウンターの上に静かに置いた。
呼吸を整え、壁の魔石灯に明かりを灯す。青白い光が室内の混乱を浮き彫りにした。エルヴは落ちていた肉糸の束や木型を一つひとつ拾い上げ、棚へと戻していく。カウンターの端に置かれた通話鏡へと手を伸ばしかけたが、ふと指先を止めた。ただの強盗なら、なぜカエルまで殺したのか。目的は金品ではないのではないか。
(では、何だ?)
エルヴは踵を返し、店の奥の作業場へと足を踏み入れた。
作業場は、店舗以上に執拗に荒らされていた。作業台の上からあらゆる工具がぶちまけられ、職人の命ともいえる針箱という針箱が割られている。エルヴは散乱する木製や金属製の箱の蓋を次々と改めたが、中身は一針たりとも残っていなかった。父から受け継いだ銀の骨針どころか、仮縫い用の雑多な針すらも、根こそぎ奪われている。
違和感を覚えながら、作業場隅に据えられた金庫へと近づく。
鉄製の扉は、強烈な力でこじ開けられたかのように無造作に引きむしられていた。だが、中に視線を滑らせたエルヴの眉が微かに跳ねる。底に置かれた金貨袋には、一切手がつけられた形跡がなかった。盗賊や嫌がらせの類いであれば真っ先に狙われるはずの金品が、手つかずのまま放置されている。
やはり、目的は金ではない。
エルヴは胸の奥を激しい冷気が撫で下りるのを感じながら、さらに奥の扉を抜け、地下への階段を下りた。
足元を照らす青い光を頼りに最奥の地下倉庫へ至る。一見すると、ここは荒らされた様子がなかった。防腐剤の匂いが立ち込める静寂の中、魔物の骨格や腱が先ほどと変わらぬ配置で収まっている。
だが、ひやりとした胸騒ぎがエルヴの足を突き動かした。彼は足早に素材棚をすり抜け、門弟たちの作品が並ぶ棚の前へと向かった。
棚の上の木箱を覗き込む。
イグニオ、ジュナ、キアン、…レティシア
「―無い」
エルヴの口から掠れた声が漏れた。
ほんの数時間前までそこに収められていたはずの、あの「腕」がない。レティシアの「飾り縫い」の右腕素体だけが消え去っていた。右腕の空白の隣には「隠し縫い」が施された左腕の素体だけが転がっている。
エルヴの視線は、さらに部屋の奥へと向けられた。素材棚のさらに奥にある保管庫の扉が、わずかに口を開いていた。羊皮紙の束が半ば飛び出している。銀針堂の門を叩いた歴代の門弟たちの記録、門弟名簿だった。
エルヴはそれを引き出し、手元に引き寄せた。紙の端が荒々しく破れ、はみ出している。引きちぎられているのだ。しかも、まるで“選んだ”かのように特定の数頁だけが欠落していた。
汗が背中を伝う。エルヴは震える指先で名簿をめくり、あるはずの項を探した。
―ない。
レティシアの頁は失われていた。
「災難だったな」
助手席に座るネフィラが口を開いた。バックミラー越しに目が合う。エルヴは膝の上においた手に視線を落とす。雨音が魔導車の窓を叩いていた。エルヴは膝の上で固く握りしめた拳から力を抜き、革の座席に背を預けた。指先で腰のホルダーの針箱に触れる。隣に座るメラディがちらりとエルヴに視線を向ける。エルヴはレティシアの作品が持ち去られていたことをメラディに告げたのだ。
「……カエル」
「うん?店舗の脇の水槽にいたやつか」
助手席のネフィラが首だけをわずかに回した。甲冑の隙間から覗く皮膚が擦れ、縫合痕が僅かに引き攣れる。
「…死にました」
短く落ちた言葉に、ネフィラの肩がピタリと止まった。数秒の沈黙が座席の間に落ちる。ネフィラの下唇が小さく動いた。メラディが首布を押さえながらエルヴに視線を向ける。
「それで、針の調達は間に合いそうなのか」
エルヴは俯いたまま首を振った。
「自分でも削っていますし、馴染みの素材屋にも打診はしました。ですが…店を再開できるのは当分先になりそうです」
「縫籍院に申請を出せば、予備の骨針は支給される」
「…官製のは使い勝手が悪い。しなりが硬すぎて、繊細な肉糸の張力を殺します」
エルヴが吐き捨てるように言うと、メラディは僅かに鼻先で息を吐き、それ以上は突っ込まなかった。
「つきました」
運転席の衛兵が低い声を上げ、車体を滑り込ませる。石畳を擦り車輪が静止した。
「アトリエ・スカーレット」の前で扉が開く。四人は店舗の前へと降り立った。
扉を押し開けると、真鍮のベルが軽やかに鳴った。
店内には誰もいなかった。だが、壁面に据えられた魔石灯は青白い光を灯したままであり、乾燥した麻と香料の匂いが部屋の隅々にまで満ちている。
「…レティ姉さん?」
エルヴの声が空間に落ちる。返事はなかった。
「お前たちはここを調べろ」
メラディは短く指示を出すと、躊躇いもなく足音を響かせて奥の作業場へと歩を進めた。エルヴは一瞬だけ足を止め、ネフィラと視線を交わしてから、その背中を追った。
作業スペースは見事に整頓されていた。棚にはとりどりの肉糸が染料ごとに分類され、作業台には磨き上げられた針箱が整然と並んでいる。ただ、木製の机の上には、飲みかけの赤い草木模様のカップがひとつ置き残され、金色のティースプーンが皿から転がり落ちていた。
「すみません、頼んでいた件ですが―」
表から声が響いた。メラディは振り返ることもせず、棚の書類に手を伸ばしている。エルヴは一度作業台の上に視線を走らせた後、奥から表のカウンターへと戻った。
入口の前に、小綺麗な上着を着た若い男が立っていた。困惑した面持ちで室内を見回している。そのすぐ脇でネフィラが困ったように振り返り、エルヴを見た。衛兵も、メラディを探すように奥へと視線を投げる。
背後から硬い靴底の音が近づいてきた。
メラディが、一冊の分厚い皮装丁の帳面を片手に抱えて戻ってきた。彼女は客の目の前まで歩み寄ると、手中の帳面を重い音を立てて閉じた。
「すまないがお帰り願いたい。本日は臨時休業だ」
抑揚のない低い声。客はメラディの特務の徽章に視線を走らせ、不審げな表情を浮かべながらも、それ以上は何も言わずに引き下がった。真鍮のベルが再び鳴り、扉が閉まる。
見送ったメラディは、そのままカウンターの上に抱えていた帳面を広げた。
「見ろ」
メラディの指先が、開かれたページの一行を強く押しつける。
そこは仕入簿の頁だった。整然と並ぶインクの文字の中に、細い筆致で刻まれた品名があった。
―『緋幻蝶の鱗粉』
エルヴの喉が動く。衛兵の軍靴が床を小さく鳴らす。
「極星指定素材」
ネフィラの低い声が、冷えた店内の空気を穿った。
「…レティシア・ベリスは準極星」
メラディがカウンター奥に掲げられた星章を見やる。
「行くぞ。“違法仕立て”の疑いがある」
メラディが首の赤布を巻き直した。
地下へ降りる階段というのは、どれもかび臭いにおいを鼻腔に張り付かせる。エルヴは鼻を擦りながらメラディとネフィラの背を追った。背後には魔石灯を携えた衛兵が続く。足音が急な傾斜の壁面に反射し、重く重なって響いた。
階段を降りきった先、頭上の暗がりから巨大なアーチ状の天井が覆いかぶさっていた。
―綻び街。
かつて城塞都市の建設期に、大型の魔物素材や資材を水運で引き込むために掘削された巨大水路の廃墟。水路の両脇には大小の店がどこまでも連なっている。一般の流通には乗らない希少な獣の腱や骨格、そして法の穴を潜り抜けた違法素材が、乏しい魔石灯の光を受けて蠢いていた。
メラディもネフィラも、背後の衛兵も、黒い外套の裾を深く引き寄せて徽章を隠していた。だが、その規則のにおいを直感的に察するのか、すれ違う猫背の男や片目の店主が、湿った視線を刺すように向ける。
エルヴが先頭に立ち、濁った水たまりを避けながら迷路のような街区をすり抜けていく。仕入簿にあったのは店名の頭文字だけだったが、エルヴには心当たりがあった。
「こっちです」
「詳しいな、エルヴ」
ネフィラが素直に感心したように、甲冑の肩を鳴らして追う。
「助かるな。街の『仕立て屋』が裏街に精通しているというのは」
メラディの低い声には、かすかな毒が混ざっていた。
「…ここには合法の希少素材も売っています。職人なら誰でも一度は足を運ぶ場所です」
「だろうな」
メラディは片眉を上げて鼻を鳴らした。
しばらく進んだ後、エルヴは立ち止まった。ほの淡い魔石灯が店名をぼんやりと照らしている。
―幻糸堂。
石造りの壁を穿って作られた店舗の軒先には、雪崩れるような重い香の匂いが立ち込めている。店内に入ると、棚には匂い消しのための高級乾燥ハーブや、素材保持用の透明な防腐香油の瓶が整然と並んでいた。
メラディは銀縁の奥の真紅の瞳を狭め、店内を鋭く検分した。だが、表に陳列されているのは合法の品ばかりだ。ネフィラは興味深そうに首を傾げ、小瓶の蓋を少しだけ開けて鼻先を近づけている。
エルヴは奥の木製カウンターへと進み、店主に声をかけた。
「すみません」
カウンター奥の小柄な店主がゆっくりと顔を上げた。その濁った瞳がエルヴの背後に立つメラディとネフィラ、そして外套の陰の質感に留まる。エルヴが口を開こうとした、その瞬間だった。
「待て、止まれ!」
表の通りから、待機させていた衛兵の怒号が響いた。
エルヴたちは弾かれたように店を跳び出した。
雨の降る地下の排水路沿いを、人混みを強引にかき分けて走り去る一影があった。羽織った黒い外套のフードが大きく揺れ、その隙間から、鮮やかな緋色の長い髪が解けてこぼれ落ちる。
「レティ姉さん…!」
エルヴの叫びは、濡れた石畳を叩く激しい靴音に掻き消された。
「追うぞ!」
メラディの声とともに、全員が地を蹴った。何重にも折れ曲がった狭い路地を駆け抜ける。曲がり角を過ぎるたび、雨水を含んだ生臭い風が顔を打つ。
突き当たりの開けた水路前で、その影がピタリと足を止めた。
雨によって水嵩が増し、黒く濁った流れが音を立てて水路を削っている。立ち塞がる濁流の前に、レティシアは追いつめられていた。
「レティ姉さん、話を―」
エルヴが踏み出した瞬間、メラディの腕が彼の胸を強く押し返した。
「下がれ」
「待ってください!彼女は―」
「容疑者だ」
「違う!」
エルヴの声が、水路の轟音を裂いた。メラディの真紅の瞳が、薄刃のように細まる。
「お前は職人だ。私は特務だ。ここで情を優先すれば、次に崩解するのは誰だ?」
エルヴは返せない。だが、胸の奥では、レティシアに縫ってもらった指を握りしめたエルヴが叫んでいた。
(違う。レティ姉さんは、人を壊すために針を持つ人じゃない)
エルヴは助けを求めるようにネフィラを見やったが、彼女もまた無言のまま、腰の長剣の柄に指をかけていた。
「レティシア・ベリス。特務の権限に基づき拘束する。同行してもらおうか」
メラディの声は冷たく、一切の容赦を削ぎ落としていた。衛兵がエルヴの肩に手をかけ、後ろに下がらせようとする。エルヴはその動きに踵を踏みしめて抵抗した。
レティシアが黒い外套の肩を荒く上下させ、頬に髪を張り付かせて振り向く。その顔は白く強張り、唇はかすかに震えていた。
「…違うの、私は…」
「後ろを向いて手を組め」
メラディが命じると、背後の衛兵が腰のホルダーから一巻の軸を取り出した。封蠟帯。流れる魔力を固定し、肉糸の運動を強制的に停止させるための結束具だ。エルヴは唇を噛み締めレティシアを見た。レティシアはエルヴを見ない。彼女の蒼白の唇が戦慄く。その白さが床上のカエルの腹と重なる。
(レティ姉さん、カエルは死んじゃったんだ―)
メラディとネフィラが距離を詰める。
「…来ないで」
レティシアの喉から、掠れた声が漏れた。彼女は虚ろに顔をあげ、その瞳がエルヴを捉えた。怯えの奥に微かに懐かしみのようなものが滲む。
「レティ姉さん…」
エルヴが呼ぶと、レティシアは自身を両腕で抱きしめた。その肩が小刻みに震えている。エルヴの背中の皮膚が、針で突かれたかのように疼いた。レティシアが一歩後ずさる。
「…だめ、もう、抑え、られない…」
交差していた視線が絶たれる。エルヴは言葉を続けようと、喉に空気を滑らせる。だが、その呼吸が音になる前に、レティシアの肩に巻きついた両手の指、その皮膚の表面に施されていた緋色の「飾り縫い」が、糸を解かれたかのように縦一文字に開いた。
肉の裂け目から吹きこぼれる赤。だが、血ではない。
それは、緋色の蝶だった。




